日本書紀 第三巻 神武天皇

即位前紀 甲寅の年

 2-3-1東征出発

即位前紀 乙卯、戊午の年

   2-3-2長髄彦の挙兵(乙卯年、戊午年一~六月その1)   2-3-3高倉下と頭八咫烏(戊午年六月その2)

 2-3-4兄猾と弟猾(八月)   2-3-5天つ神と弟猾のアドバイス(九、十月)

   2-3-6兄磯城と弟磯城(十一月)   2-3-7長髄彦との再戦(十二月)

即位前紀 己未、庚申の年

 2-3-8土蜘蛛と八紘一宇

神武元年以降

 2-3-9神武天皇の即位   2-3-10神武天皇の崩御

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日本書紀巻巻第三神日本磐余彦天皇神武天皇神日本磐余彦天皇の本当の名は彦火火出見である。彦波瀲武鸕鵜草葺不合尊の四番目の御子である。母を玉依姫と申し上げる。海神の次女である。天皇は生まれながらにして賢かった。意思が固く強かった。十五歳で皇太子となられた。成人してから日向国の吾田邑の吾平津媛と結婚して、妃とされた。手研耳命をお生みになられた。四五歳になったとき、兄たちそして御子たちに語られるには「昔、我が天つ神高皇産霊尊、大日孁尊がこの豊葦原瑞穂国を言い上げて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授け給われた。ここに火瓊瓊杵尊は天磐座を引き開き、雲路を押し分け、そして先払いをしながらやってきた。このときに、世は太古で、時に未開であった。それで教え諭して正しい道を教え、この西のほとりを治めた。皇祖は聡明であり、喜びを積み重ね、光を重ねて、多くの年月が経った。天祖が降りてきて以来、今に179万2470年余りとなる。しかし遥か遠くの国では、なおいまだに恩恵に預かっていない。ついに邑に君が現れ、村に長がいて、それぞれの境界を分けて争っている。また塩土老翁に聞いた。彼が言うには『東の方にいい国がある。四方を青山に囲まれている。またそこに天磐船に乗って降りてきた者がいる。』と言った。私が思うに、その地は大業を開き、天下を治めるのに足りるであろう。もしや国の中心であるか。その降りてきたという者は、きっと饒速日だろう。行って都を作ろう。」と申された。皇子たちが答えるには「もっともです。私たちはいつもそれを思っていました。速やかに行動に移しましょう。」と申された。この年、太歳甲寅。その年の冬十月の丁巳の朔辛酉の日に、天皇自らが皇子たち、船軍を率いて、東に向って出発した。速吸之門に到った。時に一人の漁人が船に乗っていた。天皇が招きよせて、聞かれるには「お前は誰だ」と申された。答えて申されるには「私は国つ神である。名を珍彦という。曲浦で釣りをしている。天つ神の御子がおいでになられると聞いて迎えに来た。」と申された。また聞かれるには「お前は私のために案内をしてくれるか」と申された。答えるには「案内しましょう。」と申された。天皇が勅をもって漁人に椎棹の先を渡して、皇船に引き入れ、海を導く者とした。そして特別に名前を賜え、椎根津彦とした。これは倭直部たちの始祖である。進んで筑紫国の菟狭菟狭は地名である。に到った。時に菟狭国造の祖先がいた。名付けて菟狭津彦、菟狭津媛という。菟狭の川の上流に一柱騰宮を作り、そこで宴を献上した。このときに勅して菟狭津媛を侍臣天種子命の妻とされた。天種子命は中臣氏の遠い祖先である。十一月の丙戌の朔甲午の日に天皇は筑紫国の岡水門に到った。十二月の丙辰の朔壬午の日に、安芸国に到着し、埃宮にいた。乙卯の年の春三月の甲寅の朔己未の日に、吉備国に入られた。仮宮を作って、ここに住んだ。これを高嶋宮という。三年が過ぎる間に船をそろえ、兵、食料を蓄え、そして一挙に天下を平らげようと思った。戊午の年の春二月の丁酉の朔丁未に、皇軍がついに東へ出発した。船首と船尾をつなげた。難波碕に到ると、とても速い波に出くわした。それで名付けて浪速国とした。また浪花という。今、難波といわれるのは、これがなまったものである。三月の丁卯の朔丙子の日に、川を遡って河内国の草香邑の青雲の白肩之津に到着した。夏四月の丙申の朔甲辰の日に皇軍は兵を整えて、歩いて竜田に向かった。しかしその道は狭く、険しく、そして人が並ぶことも出来なかった。それで戻って、東の胆駒山を越えて、内陸に入ろうと思った。時に長髄彦が聞いて申すには、「天つ神の御子たちが来たのは、我が国を奪おうとしているに違いない。」と言って、すぐに直属の兵を起こして道を遮り、孔舎衛坂で戦った。流矢が五瀬命の肘と脛に当った。皇軍は進むことができなくなった。天皇が心配をされて、作戦を決めて申されるには「今私は日の神の子孫であるのに、日に向って敵を討とうとしているのは、それは天の道に反している。一度退いて弱いふりをし、天つ社国つ社を祭り、そして背に日の神の力を受けて、影の伸びるまにまに襲いかかろう。こうすれば、刃を血に濡らさなくても、必ず敵は敗れる。」と申された。皆が申し上げるには「その通りだ。」と申した。ここに兵たちに命じて申されるには、「止まれ。進むな。」と申された。そして軍を引かせて戻られた。敵もまたあえて攻めてはこなかった。戻って草香津まで来ると、盾を立てて雄叫びをされた。よってその津の地名を改めて、盾津という。今、蓼津といわれるのはなまったものである。はじめ孔舎衛坂の戦で、人が大きな木に隠れて、難を逃れることができた。そして、その木を指していうには「その恩、母のようだ。」と言った。時の人はその所を名付けて母木邑という。今、オモノキというのはなまったものである。五月の丙寅の朔癸酉の日に、軍勢は茅渟の山城水門またの名は山井水門。に着いた。時に五瀬命は刺さった矢の傷が痛み、とても苦しんだ。そして剣を握り締めて雄叫びして申されるには「悔しい大丈夫なのに、あんな奴らに傷付けられ、仕返しも出来ずに死ぬなんて」と申された。時の人はその所を名付けて雄水門という。進んで紀国の竈山まで来た時に、五瀬命は軍の中で亡くなられた。よって竈山に葬られた。六月の乙未の朔丁巳の日に、軍は名草邑に到った。そして名草戸畔という者を殺した。遂に狭野を越えて、熊野の神邑に着き、そして天磐盾に登った。軍勢を率いて少しづつ進んだ。海で急に暴風にでくわした。皇船が漂った。時に稲飯命が嘆くには「あぁ、私の祖先は天つ神、母は海神なのだ。何で私たちを陸で苦しめ、また海でも苦しめるのだ。」と申された。言い終わると剣を抜いて海に入り、鋤持神となった。また三毛入野命が恨まれるには「我が母とおばは、二人とも海神なのだ。何で波を立てて、溺れさせようとするか。」と申されて、すなわち波の先を踏んで常世郷に行かれた。天皇一柱と皇子手研耳命とが軍を率いて進み、熊野の荒坂津またの名は丹敷浦。に着いた。そして丹敷戸畔という者を殺した。時に神が毒気を吐いて、人々がことごとく気を失った。それで皇軍が起き上がることが出来なかった。そこに人が現れた。名を熊野の高倉下という。夜に見た夢で、天照大神が武甕雷神に申されるには「葦原中国はまだ騒がしいようです。またあなたが行って、討ちなさい。」と申された。武甕雷神が答えるには「私が行かなくても、私が国を平定した時の剣を下ろせば、国はおのずから平定されるでしょう。」と申された。天照大神が申されるには「そうですね。」と申された。そして武甕雷神が高倉下に申されるには「私の剣は名を韴霊という。いま、お前の倉の裏に、この剣を置いておく。それを取って天孫に献上せよ。」と申された。高倉下は「おお」と奏上して目が覚めた。翌朝、夢の通りに倉を開けてみると、剣が落ちており、逆さまに倉の床板に刺さっていた。それを持って、天孫に献上した。時に、天皇はよく寝ていた。すぐに目が覚めて申されるには「私はなんで、こんなに長く寝ていたのだろう。」と申された。次いで毒気に当たった兵士たちもまた目を覚めて起き上がった。そして皇軍は内陸に向かおうとした。しかし山の中は険しく、また進むべき道がなかった。迷って道が分からなくなっていた。時に夜夢を見て、天照大神が天皇に教えて申されるには、「いま頭八咫烏を遣わせます。それを道案内としなさい。」と申された。ついに頭八咫烏が大空より現れた。天皇が申されるには「このカラスがやって来たのは、よい夢の通りだった。なんと大きいのだろう、なんとたくましいであろう。私の皇祖天照大神が子孫を助けようとしているのだろう。」と申された。この時に、大伴氏の遠い祖先日臣命が大来目を引き連れて、兵の将軍として道を掻き分けて、カラスを追っていった。ついに菟田下県に着いた。その所を名付けて、菟田の穿邑という。時に勅して日臣命を誉めて申されるには、「お前には忠義があり、また勇敢だ。またよく導いた功績がある。これよりお前の名を改めて、道臣とする。」と申された。秋八月の甲午の朔乙未の日に、天皇は兄猾と弟猾を呼び出された。この二人は菟田県の首長である。兄猾はやって来なかった。弟猾がやってきた。そして帝に拝礼して申し上げるには「私の兄、兄猾の作戦は天孫がやってくると聞いて、兵をおこして襲おうとしていました。しかし皇軍の勢いを見て、あえて敵対することに怖気づき、密かにその兵を隠して仮宮を作り、その大殿の中に仕掛けを作り、宴を催すといってお招きして、討ち取ろうとしています。願わくはこの作戦を理解して頂き、準備をして下さい。」と申し上げた。天皇は道臣命を遣わせて、その逆らう様子を見させた。時に道臣命は、明らかに反逆の意思があることを知って、大変怒って責めて言うには「卑しい奴め、お前が作った家に自分で入れ。」と言った。そして剣を取り、弓を引いて無理に押し込んだ。兄猾は、罪を天に着せられたのなら、何も言うことができない。自ら仕掛けを踏んで、つぶされて死んだ。道臣命は、その屍を家から出して、切りつけた。流れた血が道臣命のくるぶしを濡らした。それで所を名付けて、菟田の血原という。既に弟猾は大きな牛肉と酒を用意して、皇軍の人々を労い、宴をひらいた。天皇はその食事を軍の人々に分けた。そして御歌を詠われて申されるには菟田の高城に鴫羂張る我が待つや鴫は障らずいすくはし鷹等障り前妻が肴乞はさば立稜麦の実の無けくを幾多聶ゑね後妻が肴乞はさば斎賢木実の多けくを幾多聶ゑねこれを来目歌という。今、雅楽寮でこの歌を歌う時に、手の広げ方の大きさ小ささ、そして歌声の大きさ小ささがある。これは古から残された決まりである。この後に天皇は吉野の所を見ようと思って、菟田の穿邑から、自ら兵を率いて周っていった。吉野に到ると、人が井戸の中から出てきた。光っていて尾が生えている。天皇が聞かれるには「お前は誰だ。」と申された。答えるには「私は国つ神である。名を井光と言う。」と申し上げた。これは吉野首たちの始祖である。また少し進むと、尾の生えている者が岩を押し分けて出てきた。天皇が聞かれるには「お前は誰だ。」と申された。答えるには「私は磐排別の子である。」と申し上げた。これは吉野の国樔部の始祖である。川に沿って西に行くと、罠で魚を取る者がいた。天皇が聞かれた。答えるには「私は苞苴担の子である。」と申し上げた。これは吉野の阿太の養鸕部の始祖である。九月の甲子の朔戊辰の日に、天皇はその菟田の高倉山の頂に登り、国の中をご覧になられた。時に、国見丘の上に八十梟帥がいた。女坂に女軍、男坂に男軍を置いた。墨坂に火を起こした炭を置いた。その女坂、男坂、墨坂の名はこれが元でついた。また兄磯城の軍があり、磐余邑で満ち溢れていた。賊のいる所は、これ全て重要な土地である。道を塞がれ、通っていく所がなかった。天皇が憎まれた。その夜、自ら誓約をして寝られた。夢に天つ神が現れ教えて申されるには「天香山の社の中の土を取ってきて、天平瓮を八十枚作り、合わせて厳瓮を作って天つ神の社、国つ神の社を敬い、そして祭りなさい。また呪詛をしなさい。こうすれば、敵は自ら降参してきます。」と申された。天皇は謹んで夢の教えを承って、その通りに行動されようと思った。時に弟猾が奏上するには「倭国の磯城邑に磯城の八十梟帥がいます。また高尾張邑ある本で伝えるには葛城邑という。に、赤銅の八十梟帥がいます。やつらは天皇と対峙しようとするでしょう。私が密かに天皇の心配をしております。今、天香山から土を取ってきて天平瓮を作り、天つ社、国つ社の神を祭ってください。そうした後に賊を討てば、払うのは簡単でしょう。」と申し上げた。天皇は夢で見た教えが吉兆であると思われいた。弟猾の言うことを聞いて、益々喜ばれた。そして椎根津彦に汚い服と蓑笠を着せて、老人の姿にした。また弟猾に蓑を着せて老婆の姿にし、そして勅して申されるには「お前たちは二人で天香山に行って、秘かにその頂の土を取って帰ってこい。東征の成否は、まさにお前たちをもって占う。ゆめ、ゆめ。」と申された。この時弟猾たちがいってみると、敵の兵士たちが道に満ちており、通るのは難しかった。時に椎根津彦が祈って言うには「我が皇がこの国を治めてくれるものならば、行く道は自然と通れるだろう。もし叶わないなら、賊が必ず阻む。」と言った。言い終わってすぐ出発した。時に、賊たちが二人を見て、大笑いして言うには「とても醜い爺さんと婆さんだ」と言って、二人に道を開けた。二人はその山に行き付き、土を取って帰ってきた。そして天皇は大変喜び、すぐに土で八十平瓮、天手抉八十枚、厳瓮を作って、丹生の川の上流に行って、そこで天つ神国つ神を祭った。即ち菟田川の朝原に、そこは例えれば水しぶきのような、そんな祈る所があった。天皇がそこで誓約して申されるには「私は八十平瓮で水なしの飴を作ろう。飴ができれば、私は必ず武器を使わずに、ここにいながらにして天下を平らげられよう。」と申された。そして飴をお作りになられた。飴が自然とでき上がった。また誓約して申されるには「私は今から厳瓮を丹生の川に沈める。もし魚の大きい小さいということなく、ことごとく酔って木の葉が浮いて流れるようになるなら、私は必ずこの国を治めることができよう。もしそうならなければ、最後までなすことは出来ないであろう。」と申されて、厳瓮を川に沈めた。その口を下に向けた。しばらくすると魚がみんな浮いてきて、水い流され、口をパクパクさせた。これを椎根津彦がこれを見て奏上した。天皇が大いに喜ばれて、丹生の川上の大きな真榊を根っこごと掘り返して、これで神々祭った。これより厳瓮の置物を使うようになった。そして道臣命に勅するには「今、私自身が高皇産霊尊となろう。お前を祭主とし、授けて厳媛の名をとする。そこに置いた埴瓮を名付けて、厳瓮とする。また火の名を厳香来雷とする。水の名を厳罔象女とする。食い物の名を厳稲魂女とする。薪の名を厳山雷とする。草の名を厳野椎とする。」と申された。冬十月の癸巳の朔の日に、天皇は厳瓮のお供え物を奉って、兵を整えて出発された。まず、八十梟帥を国見丘で撃ち、破り捨てた。この戦いにおいて、天皇は必ず勝つと思い続けた。すなわち歌を歌って言うには神風の伊勢の海の大石にやい這ひ廻る細螺の細螺の吾子よ吾子よ細螺のい這ひ廻り撃ちてし止まむ撃ちてし止まむ歌の意味は、大きな石を国見丘に例えたのである。残った敵はなお多く、その心情ははかり難かった。そして密かに道臣命に勅するには「お前は大来目部を連れて、大きな家を忍坂邑に建てて、盛大な宴を設けて、敵を誘ってやっつけろ。」と申された。道臣命は密命を承って、家を忍坂を建て、強い男を選んで敵の中に潜り込ませた。密かに打ち合わせて言うには「宴たけなわな時に、私が立ち上がって歌う。お前たちは私の歌う声を聞いたら、いっぺんに敵を刺せ。」と言った。すでに座るところが決まり、酒が注がれていた。敵は策略があるとも知らず、ほしいままに酔った。時に、道臣命が立ち上がって、歌うには忍坂の大室屋に人多に入り居りとも人多に来入り居りともみつみつし来目の子等が頭椎い石椎い撃ちてし止まむすると、我が軍勢が歌を聞いて、一斉にその頭椎剣を抜いて、いっぺんに敵を殺した。敵に残る者がいなかった。皇軍が大いに喜び、天を仰いで笑った。そして歌うには今はよ今はよああしやを今だにも吾子よ今だにも吾子よ今、来目部が歌ってから大いに笑うのは、これがその由縁である。また歌うには夷を一人百な人人は云へども抵抗もせずこれみな、密命を受けて、歌った。あえて自ら勝手にやったことではない。時に天皇が申されるには「戦いに勝って驕ることがないことこそ、よい将軍の振る舞いである。今ほとんどの敵を滅ぼし、同じく悪い者は安心できないが十数を数える程度である。その実情は分からぬ。なぜ長々と一箇所にいて、策略を練れようか。」と申された。そして、捨てておいて別のところに宿営した。十一月癸亥の朔己巳の日に、皇軍が大いに挙兵して、磯城彦を攻めようとした。まず使いの者を遣わせて、兄磯城を召抱えようとした。兄磯城は命令を受け入れなかった。更に八咫烏を遣わせて召抱えようとした。時に烏が、兄磯城の宿営地にやってきて鳴くには「天つ神の御子が、お前を召抱えようとされている。どうだ、どうだ。」といった。兄磯城が怒って言うには「天圧神が来ると聞いて、頭にきている時になんでカラスが、こうも悪く鳴くのだ。」と言って、弓を引いて撃った。それで烏は、ここから飛び去った。次に八咫烏に弟磯城の家にやってきて、鳴いて言うには、「天つ神の御子がお前を召抱えようとされている。どうだ、どうだ。」と言った。時に弟磯城が怖気づき、畏まって言うには「私は、天圧神が来ると聞いて、一日中恐れていた。いいことだカラスよ。お前がこう鳴いてくれるとは。」と言って、葉っぱの食器を八枚作り、食事を盛ってもてなした。それで烏に従ってきて、詣でて奏上するには「私の兄兄磯城は天つ神の御子が来ると聞いて、八十梟帥を集めて、武器を用意し、共に戦おうとしています。速やかに作戦を立てて下さい。」と奏上した。天皇はすぐに将軍たちを集めて申されるには「兄磯城は、歯向かう意思があるようだ。呼び出してもやって来ない。あれこれしようと思うがどうだ。」と申された。将軍たちが奏上するには「兄磯城は悪賢い賊です。まず弟磯城を遣わせて教え諭し、兄倉下、弟倉下にも説得させましょう。もしそれでも応じなければ、それから兵を挙げて挑むことも、また遅くはないでしょう。」と奏上した。そして弟磯城を遣わせて利点、弊害を伝えた。しかし兄磯城たちはなお愚かな計略にしがみつき、従おうとしなかった。時に椎根津彦が謀って奏上するには「まず私の女軍を遣わして、忍坂の道に出させます。敵を見つけたら、必ず武器の尽して向かわせます。私は強い兵士を走らせて、すぐに墨坂を目指させ、菟田川の水を取ってきて、炭の火に水を注いで、またたく間にその不意をついて攻撃すれば、破ることは必至です。」と奏上した。天皇はその作戦を誉めて、女軍を出発させて様子を見た。敵は大勢の兵が来ると思って、兵力を尽くして待ち構えた。それまで皇軍は攻めては必ず取り、戦っては必ず勝っていた。しかし兵士たちが疲れていないわけではない。それで、素早く歌を作って、兵士たちの心を慰められた。歌われるには楯並めて伊那瑳の山の木の間ゆもい行き瞻らひ戦へば我はや飢ぬ嶋つ鳥鵜飼が徒今助けに来ねついに男軍が墨坂を越えて、後ろより挟み撃ちして破った。その梟帥兄磯城らを斬った。十二月の癸巳の朔丙申の日に、皇軍は遂に長髄彦を攻撃した。連戦したが、勝つことが出来なかった。時に、たちまち空模様が悪くなり、氷雨が降った。すると金色の神々しいトビが飛んできて、天皇の弓の先端にとまった。そのトビが光り輝き、その様は稲光のようだった。これによりて、長髄彦の兵士たちは、皆迷い、目をくらませて、そして戦えなくなった。長髄はこの村の元の名である。よって人の名前とした。皇軍がトビの輝きを得たので、時の人は鵄邑と名付けた。今、鳥見というのは、これがなまったものである。昔、孔舎衛の戦で、五瀬命が矢に当たって亡くなった。天皇はこれがいつまでも忘れられず、ひどく怨まれていた。この戦いに及んで、内心殺してやろうと誓っていた。すなわち御歌を歌われるにはみつみつし来目の子等が垣本に粟生には韮一本其根の本其ね芽繋ぎて撃ちてし止まむさらに歌われるにはみつみつし来目の子等が垣本に植ゑし山椒口疼く我は忘れず撃ちてし止まむそして兵を出発させ、すみやかに攻め立てた。これらの御歌は、みな来目歌という。これは歌った人を指して名付けた。時に、長髄彦が使いを遣わせて、天皇に申し上げるには「昔、天つ神の御子が天磐船に乗って、天より降りてれました。名付けて櫛玉饒速日命と申し上げます。彼は我が妹の三炊屋媛またの名は長髄媛、またの名は鳥見屋媛。を娶って、遂に御子が出来ました。名前を可美真手命と申します。それ故に、私は饒速日命を君として仕えました。天つ神の御子がなぜ二柱いるのでしょう。どうして天つ神の御子と名乗って、人の国を奪ったのでしょう。私が推測するに、騙されているのかもしれません。」と申し上げた。天皇が申されるには「天つ神の御子はたくさんいる。お前が君とするのが本当に天つ神の御子ならば、必ず表物があるはずだ。それを見せてみろ。」と申された。長髄彦は饒速日命の天羽羽矢を一本と歩靫を取り出して、天皇にお見せした。天皇は、これをご覧になって「本当であった。」と申されて、戻って自分の天羽羽矢一本と歩靫を長髄彦に見せられた。長髄彦は、その天表を見て、益々恐れ畏まった。しかし長髄彦の兵士たちは既に戦闘体制入っており、その勢いを途中で止めることが出来なかった。そして、なお迷いながらも作戦にしがみつき、降伏することも出来なかった。饒速日命は、天つ神がいつも心配するのは、天つ神の御子だけであることだと悟った。しかし長髄彦の性格はひねくれており、天つ神と人との間に絶対の隔たりがあることを教えても分からないとみえたので、仕方なく殺した。その兵士たちを従えて降伏した。天皇は、もとより饒速日命が天より降りてきたということを聞いていた。それで、誠実に対応した。そして褒めて、寵愛した。これは物部氏の遠い祖先である。己未の年の春二月の壬辰の朔辛亥の日に、将軍たちに命じて兵士たちを選んだ。この時に、層富県の波哆丘岬に、新城戸畔という者がいた。また、和珥の坂下に居勢祝という者がいた。臍見の長柄丘岬に猪祝という者がいた。この三ヶ所の土蜘蛛は、その力に任せて服従しなかった。天皇は一部の兵を差し向けて、皆を殺させ給われた。また高尾張邑に土蜘蛛がいた。その体格は背が低く、手足が長い。侏儒と似ている。皇軍は葛の網を結って、襲って殺した。よって、改めてその村を名付けて葛城という。磐余の地の昔の名は片居である。また片立という。我が皇軍が敵を破っていくに到って、大軍が集まってその土地にひしめいた。それで改めて名付けて磐余とした。ある人が言うには「天皇は昔、厳瓮の供物を捧げて、軍勢を出して西の方を討たれた。この時に、磯城の八十梟帥がそこに集まっていた。そして天皇と大きな戦いをした。ついに皇軍の為に八十梟帥が滅ぼされた。それで名付けて磐余邑という。」と言った。また皇軍の立ち叫んだ所、これを猛田という。城を作った所を城田という。また賊どもの死んで倒れている屍が腕を抱いている所を頬枕田という。天皇が去年の秋九月に、密かに天香山の埴土を取ってきて、たくさんの平甕を作って、自ら潔斎して神々をお祭りになられた。ついに天下を鎮めることが出来た。それで土を取ってきたところを名付けて、埴安という。三月の辛酉の朔の丁卯の日に、命を下して申せられるには、「我々が東の征伐に出発してから六年が経った。授かった天つ神の力で、賊は征伐された。周辺の国は今だ鎮まらず、残った災いがなおもあるが、内つ国は騒がなくなった。本当の都を開き、そして広めて、大殿を作れ。今の世は未熟で暗いが、民の心は素直だ。彼らは巣や穴に住んで、習慣が変わることがない。法律をたれば、義理は必ずこれに従う。いやしいことであるが民に利益があれば、なぜ聖のやることに背けようか。まさに山林を切り開いて大宮を造り、謹んで皇位に臨んで国民を治めよう。上は天つ神の国を授けられた徳に答え、下は皇孫の正しき道を養われた御心を広めよう。そうして、国を一つに束ねて都を開き、天下を覆って家とするのも、これもまたいいだろう。見てみれば、この畝傍山の辰巳の角の橿原の地は、もしや国の真ん中であろうか。都を作ろう。」と申された。この月に、役人に命じて、都を作り始めた。庚申の年の秋八月の癸丑の朔戊辰の日に、天皇は正妃を立てようとされた。改めて広く貴族に求められた。時に、ある人が申し上げるには「事代主神が三嶋溝橛耳神の娘、玉櫛媛と間に生んだ子、その名を媛蹈韝五十鈴媛命といいます。彼女は気品の優れた者です。」と申し上げた。天皇が喜ばれた。九月の壬午の朔乙巳の日に、媛蹈韝五十鈴媛命を召し入れて正妃とされた。辛酉の年の春一月の庚辰の朔の日に、天皇は橿原宮で即位された。この年を天皇の元年とした。正妃を尊んで皇后とされた。皇子神八井命神渟名川耳尊がお生みになられた。そして古語に褒めあげていうには「畝傍の橿原に、宮柱底磐の根に太立て、高天原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇を名付けてられて神日本磐余彦火火出見天皇と申し上げる。」初めて、天皇が皇位を始められた日に、大伴氏の遠い祖先道臣命は大来目部を率いて、密かに命令を承って、うまく諷歌、倒語で妖気を祓い除いた。倒語が使われるようになったのは、ここからである。二年の春二月の朔乙巳の日に、天皇は功績を定め、贈物を授けられた。道臣命に宅地を与え、築坂邑に住まわせて、特にかわいがられた。また大来目には畝傍山の西側の川辺の所に住まわされた。今、来目邑と名付けたのは、この由縁からである。珍彦を倭国造とされた。また弟猾に猛田邑を授けられた。よって猛田県主とされた。彼は菟田主水部の遠い祖先である。弟磯城、名は黒速を、磯城県主とされた。また剣根という者を葛城国造とされた。また頭八咫烏も贈り物を授けられる例に入った。その末裔は葛野主殿県主部である。四年の春二月の朔甲申の日に、詔して申されるには、「我が皇祖の霊は天より降ってきて、私の体を照らして助けたまわれた。今、様々な賊を既に平らげ、国内には何も起きていない。よって天つ神を祭って、孝を申し述べよう。」と申された。それで祭りの場所を鳥見山の中として、そこを名付けて上小野の榛原、下小野の榛原という。ここで皇祖天つ神を祭られた。三十一年の夏四月の乙酉の朔の日に、天皇が国を巡られた。そこで腋上の嗛間丘に登って、国の様子を見渡して申すには、「何と素晴らしいことだ、国を得たのだ。狭い国であるが、トンボが尻を舐めているようだ。」と申された。これによって、初めて秋津洲の名が出来た。昔、伊奘諾尊が、この国を名付けて申されるには、「日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国」と申された。また大己貴神は名付けて申されるには、「玉牆の内つ国」と申された。饒速日命は天磐船に乗って大空を翔けめぐって、この国を見ながら天降ってくるときに、名付けて「虚空見つ日本の国」と言われた。四十二年の春一月の壬子の朔甲寅の日に、皇子神渟名川耳尊を皇太子とされた。七十六年の春三月の甲午の朔甲辰の日に、天皇は橿原宮で崩御された。その年一二七歳。翌年の秋九月の乙卯の朔丙寅の日に、畝傍山の東北の御陵に葬りまつった。日本書紀巻三