日本書紀 第七巻 景行天皇、成務天皇

景行天皇

景行元〜四年

 2-7-1景行天皇の家族

景行十二年

  2-7-2熊襲征伐

景行十三〜十九年

  2-7-3日向からお宮へ帰還 


日本武尊

景行二十〜二十八年

 2-7-4日本武の熊襲征伐

景行四十年

 2-7-5日本武尊への東征の詔

景行四十年この年 日本武尊の東征

 2-7-6東征その1 蝦夷平定   2-7-7東征その2 日本武の崩御


景行天皇

景行五十一〜五十四年

 2-7-8稚足彦天皇と武内宿禰の出世、日本武の家族

景行五十五〜六十年

 2-7-9景行天皇の崩御


成務天皇

 2-7-10成務天皇

<<2-6第六巻垂仁天皇 |[TOP]| 2-8第八巻仲哀天皇>>

日本書紀巻第七大足彦忍代別天皇稚足彦天皇大足彦忍代別天皇大足彦忍代別天皇は活目入彦五十狭茅天皇の三番目の御子である。母の皇后を日葉洲媛命と申し上げる。丹波道主王の娘である。垂仁天皇の三十七年に皇太子となられた。時に年二十一歳。九十九年の春二月に、垂仁天皇が崩御された。
元年の秋七月の己巳の朔己卯の日に即位された。よって元年と改めた。この年、太歳辛未。
二年の春三月の丙寅の朔戊辰の日に、播磨稲日大郎姫ある伝えでは、稲日稚郎姫という。を皇后とされた。后は二柱の男の子をお生みになられた。兄を大碓皇子と申し上げる。二番目の皇子を小碓尊と申し上げる。ある伝えでは、皇后は三柱の男の子をお生みになられた。その三番目の御子を稚倭根子皇子という。 その大碓皇子、小碓尊は、一日に同じ腹から双子として生まれた。天皇はそれを怪しまれて、臼に向かって叫ばれた。それで二柱の王を名付けて大碓、小碓と申し上げる。この小碓尊はまたの名を日本童男。または日本武尊と申し上げる。若い時から雄々しい気概があられた。男盛りになって容貌は優れ、偉大だった。 身長一丈、力が強かった。
三年の春二月の庚寅の朔の日に紀伊国に行幸され、天つ社国つ社祭ろうと占うと良くないとでた。それで行幸をやめられた。屋主忍武雄心命ある伝えでは、武猪心という。を遣わせて祭らせた。それで屋主忍武雄心命は、詣でて阿備の柏原で天つ社国つ社を祭った。そしてここに住むこと九年。 それで紀直の遠い祖先菟道彦の娘、影媛を娶って、武内宿禰を生んだ。
四年の春二月の甲寅の朔甲子の日に、天皇は美濃に行幸された。周りの者に申されるには「この国に素晴らしい女性がいる。弟媛という。容姿端正である。八坂入彦皇子の娘である。」と申された。天皇は妃としたいと思い、弟媛の家に行幸された。弟媛は天皇が行幸されてきたと聞いて、すぐに竹林に隠れた。ここに天皇は弟媛に来させようと考えて、泳宮におられた。鯉を池に放して、朝夕にそれを見て遊ばれた。時に弟媛はその鯉が見たいと思って、密かに詣でて池をご覧になった。そして天皇は彼女をここに留めて結婚された。ここに弟媛が思うには、夫婦の道は、昔も今も通うのが決まりである。しかし自分は聞くことも出来ず不便であると思った。そして天皇にお願いして申し上げるには「私は性格として結婚を望んでいません。今、天皇のご命令の威厳には耐えられないので、しばらくの大殿に召されました。それは嬉しく思っています。しかし姿形は汚らしい者です。長く後宮で仕えるには耐えられません。ただ私には姉がいます。名を八坂入媛といいます。美しい人です。志もまた潔ぎよい人です。後宮に召し入れて下さい。」と申された。天皇はこれを許された。よって八坂入媛を呼んで妃とした。七柱の男の子と六柱の女の子を生んだ。一番目を稚足彦天皇と申し上げる。二番目を五百城入彦皇子と申し上げる。三番目を忍之別皇子と申し上げる。四番目を稚倭根子皇子と申し上げる。五番目を大酢別皇子と申し上げる。六番目を渟熨斗皇女と申し上げる。七番目を渟名城皇女と申し上げる。八番目を五百城入姫皇女と申し上げる。九番目を麛依姫皇女と申し上げる。十番目を五十狭城入彦皇子と申し上げる。十一番目を吉備兄彦皇子と申し上げる。十二番目を高城入姫皇女と申し上げる。十三番目を弟姫皇女と申し上げる。他の妃三尾氏磐城別の妹水歯郎女は五百野皇女を生んだ。次の妃五十河媛は神櫛皇子稲背入彦皇子を生んだ。その兄の神櫛皇子は讃岐国造の始祖である。弟の稲背入彦皇子は播磨別の始祖である。次の妃阿倍氏木事の娘高田媛は武国凝別皇子を生んだ。これは伊予国の御村別の始祖である。次の妃日向髪長大田根は日向襲津彦皇子を生んだ。これは阿牟君の始祖である。次の妃襲武媛は国乳別皇子と国背別皇子ある伝えでは宮道別皇子という。と豊戸別皇子とを生んだ。その兄の国乳別皇子は水沼別の始祖である。弟の豊戸背別皇子は火国別の始祖である。天皇の男の子女の子は前後合わせて八十柱の御子がおられる。しかるに日本武尊と稚足彦天皇と五百城入彦皇子を除いての他の七十余の御子は、皆、国々を治めるように命じ、それぞれの国に行かせた。そして今の世に当たって国々に別というのは、その別王の末裔である。この月に、天皇は美濃国造、名は神骨の娘、姉の名が兄遠子、妹の名は弟遠子、二人とも容姿がよいと聞いて、大碓命を遣わせて、その女性の容姿を見させた。時に大碓命は密かに関係を持ち、報告をしなかった。それで景行天皇は大碓命を恨まれた。冬十一月の庚辰の朔の日に、天皇は美濃から帰った。そしてさらに纏向に都をつくった。これを日代宮という。
十二年の秋七月に、熊襲が背いて、朝貢しなかった。八月の乙未の朔己酉の日に、筑紫に行幸された。九月の甲子の朔己酉の日に、周芳の娑麼に到着された。時に天皇は南をご覧になって、卿たちに詔して申されるには「南の方に煙がたくさん立っている。きっと賊がいるのだろう。」それでここに留まって、まず多臣の祖先武諸木、国前臣の祖先菟名手、物部君の祖先夏花を遣わせて、その様子を調べさせた。ここに女性がいた。神夏磯媛という。その一族が甚だ多かった。一国の魁帥である。天皇の使者が来ることを聞いて、磯津山の榊を抜いて、上の枝に八握剣を掛け中の枝に八咫鏡を掛け下の枝に八尺瓊を掛けまた素幡を船の舳先に立てて、詣でてきて申し上げるには、「願わくば、兵を遣わせないでください。私の一族に背くものはいません。今まさに帰順します。ただ、残る賊がいます。一人目を鼻垂といいます。みだらに名前を使って山谷に響かせて集め、菟狭の川上に集結しています。二人目を耳垂といいます。壊して回り貪り食らい、しばしば人をさらっていくのです。彼らは御木の川上にいます。三人目を麻剥といいます。密かに仲間を集めて、高羽の川上にいます。四人目を土折猪折といいます。緑野の川上に隠れており、ひとり山川の険しさを利用して、たくさんの人をさらっていくのです。この四人のいるところは、それぞれ要所となっています。それでそれぞれの一族で土地を占領して長となっています。彼らが言うには、『天皇には従わない。』といいます。願わくば、早く撃ってください。やられないで下さい。」と申した。ここに武諸木らが、まず麻剥を誘い出した。そして赤い衣と袴、そして様々な珍しい物を与えて、従わない三人を呼び出した。すると、自分たちの仲間を率いてやってきた。ことごとく捕まえて殺した。天皇はついに筑紫に着いて、豊前国の長峡県に着いて、仮宮を立てて住まわれた。その所を名付けて京という。
冬十月に、碩田国に到着された。その国は広く大きく、そして麗しかった。それで碩田と名付けた。速見邑に到着された。女がいた。速津媛という。その場所の長である。天皇が行幸されると聞いて、自ら出迎え申し上げるには、「この山に大きな石窟があります。鼠の石窟といいます。そこに二つの土蜘蛛がいます。その石窟に住んでいます。一つを青といいます。二つを白といいます。また直入県の禰疑野に三つの土蜘蛛がいます。一つを打猨といいます。二つを八田といいます。三つを国摩呂といいます。この五人は力が強く、また仲間がたくさんいます。奴らは言います。『天皇には従わない。』といいます。もし無理に呼び立てれば、兵を興して刃向かうでしょう。」と申した。天皇はよくないと思って、進むことが出来なかった。それで来田見邑に留まって、仮のお宮を建てて留まられた。よって臣たちと話して申されるには、「今、大いに兵を動かして、土蜘蛛を討とう。もし我が兵の勢いを恐れて、山野に隠れてしまったら、必ず後で心配を残す。」と申された。そして海石榴樹をとって、土で武器を作った。猛々しい兵を選んで土の武器を授けて、山を掘り草をはらって、石室の土蜘蛛を襲って稲葉の川上で破り、ことごとくその仲間を殺した。血が流れて踝に到った。それで時の人は、その海石榴の土を作った所を海石榴市という。また血の流れたところを血田という。また打猨を討とうとして、禰疑山を渡った。時に賊の矢が、横の山からうたれた。官軍の前にうたれること、雨のようにだった。天皇は城原に戻って、川のほとりに集まった。そして兵を整えて、まず八田を禰疑野で撃ち破った。ここに打猨は勝てないと思って、「従います。」と申し上げた。しかしお許しになられなかった。皆谷に落ちて死んだ。天皇ははじめ賊を討とうとして、柏峡の大野に泊まられた。その野に石があった。長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸。天皇は誓約していうには、「私が土蜘蛛を滅ぼすことが出来るなら、この石よ、踏むと柏の葉のように舞い上れ。」と申された。そして石を踏まれた。すると柏のように大空に上がった。それでその石を名付けて蹈石という。この時に祈った神は、志我神直入物部神直入中臣神の三柱の神である。十一月に日向国に着いて、仮宮を立てて住まわれた。これを高屋宮という。十二月の癸巳の朔丁酉の日に、熊襲を討つべく謀った。ここに天皇は卿たちに命じるには「私が聞くに、襲国に厚鹿文、迮鹿文という者がいる。この二人は熊襲の勇敢な者である。仲間がとても多い。彼らを熊襲の八十梟帥という。強くて敵う者がいない。少ない兵で攻めれば、賊を滅ぼすことはできない。また多くの兵を動かせば百姓たちに被害が及ぶ。いかに武器の勢いを使わずに、おのずと国を平定できようか。」と申された。時に一人の臣がいた。進み出て申されるには「熊襲梟帥に二人の娘がいます。姉を市乾鹿文といいます。妹を市鹿文といいます。容姿は端正です。気持ちは雄々しいのです。素晴らしい贈物を見せて、天皇のもとに呼び出して下さい。そして彼女達から奴らの消息を聞きだして不意をつけば、刃を血で濡らさずとも、賊は必ず自ら敗れましょう。」と申し上げた。天皇が言うには「いいことだ。」と申された。ここに贈り物を見せて、その二人の娘を騙し呼び出された。天皇は市乾鹿文と関係を持ち、偽ってかわいがった。時に市乾鹿文が天皇に申し上げるには「熊襲が従わないことに心配しないで下さい。私にいい作戦があります。一人二人の兵を私にお貸しください。」と申した。そうして家に帰り、何度も醸した酒を用意して、自分の父に飲ませた。そして酔って寝た。市乾鹿文は密かに父の弦を切った。ここに従ってきた兵の一人が進んできて、熊襲梟帥を殺した。天皇は親不孝の甚だしさを憎んで、市乾鹿文を殺した。よって妹の市鹿文を火国造にされた。
十三年の夏五月、全ての襲国を平定した。それから高屋宮にいること六年になった。この国に素敵な人がいた。御刀媛という。召して妃とされた。豊国別皇子を生んだ。彼は日向国造の始祖である。
十七年の春三月の戊戌の朔己酉の日に、子湯県に行幸されて、丹裳小野で遊ばれた。時に東の方をご覧になられて、周りのものに語って申されるには「この国はまっすぐ日の出る方に向いている。」と申された。それでその国を名付けて日向という。この日に野中の大石に登られて、都を偲ばれて歌われるには愛しきよし我家の方ゆ雲居立ち来も倭は国のまほらま畳づく青垣山籠れる倭し麗し命の全けむ人は畳薦平群の山の白橿が枝を髻華に挿せ此の子これを思邦歌という。
十八年の春三月に、天皇は都に向かうこととなって、筑紫国を巡られた。初めて夷守にやってきた。この時、石瀬河のほとりに人たちが集まっていた。ここに天皇が遠くから見て、周りのものに詔して申されるには「あの集まっているのは何だ。もしや賊か。」と申された。それで兄夷守、弟夷守の二人を遣わせて見させた。そして弟夷守が帰ってきて申し上げるには「諸県君の泉媛が大御食を献上するので、その一族が集まっています。」と申した。夏四月の壬戌の朔甲子の日に、熊県にやってきた。その土地の熊津彦という者は兄弟二人いた。まず兄熊を呼び出した。そして使いに従ってやってきた。次に弟熊を呼び出した。しかし、やって来なかった。そして兵を遣わして罰した。壬申の日に、海路で葦北の小島に泊って食事をした。時に山部阿弭古の祖先、小左を召して、冷い水を献上させた。このときに当たって、島の中に水がなかった。水を手に入れる術がなかった。そして仰いで天つ社国つ社に祈った。たちまち寒泉が崖のほとりから湧き出した。それを汲んで献上した。それで、その島を名付けて水嶋という。その泉は今も水嶋に残っている。五月の壬辰の朔の日に、葦北から船で出発して、火国についた。そこで日が暮れた。夜は暗く、岸が分からなくなってしまった。遥か彼方に火の光が見えた。天皇が舵取りに詔して申されるには「まっすぐ火を目指せ。」と申された。それで火を目指して進んだ。そして岸につくことが出来た。天皇がその火の光りの元を聞いて申されるには「何という村だ。」と申された。国の人が答えて言うには「これは八代県の豊村です。」と申した。またその火について問われるには「これは誰の火だ。」と申された。しかし主が分からなかった。ここで分かった、人の火ではないということを。それでその国を名付けて火国という。
六月の辛酉の朔癸亥の日に、高来県から玉杵名邑に渡られた。時に、その地の土蜘蛛津頬という者を殺した。丙子の日に、阿蘇国にやってこられた。その国は野が広くまた遠く、人が見えなかった。天皇が申されるには「この国に人はいるのか」と申された。時に二柱の神がいた。阿蘇都彦、阿蘇都媛という。たちまち人になってやってきて申されるには「私たち二人がいる。なぜ人がいないのか。」と申された。それで、その国を名付けて阿蘇という。秋七月の辛卯の朔甲午の日に、筑紫後国の御木に着いて、高田行宮に住まわれた。時に倒れた木があった。長さ九百七十丈。官僚たちは、その木を踏んで通って行った。時の人が歌って言うには朝霜の御木のさ小橋群臣い渡らすも御木のさ小橋ここに天皇が聞いて申されるには「これは何の木だ」と申された。一人の老人が言うには「この木は歴木といいます。昔、まだ倒れる前は、朝日に光に当たると、杵嶋山を隠しました。夕日の光が当たると、阿蘇山を隠しました。」と言った。天皇が言うには「この木はあやしい木である。それで、この国を御木国と呼べ。」と申された。丁酉の日に、八女県にやってきた。藤山を越えて、南の粟岬を眺められた。詔して申されるには、「その山は嶺が重なって、またとても美麗しい。もしや神がその山にいるのか。」と申された。時に水沼県主猿大海が奏上するには「女神がいます。名を八女津媛といいます。いつも山の中にいます。」と申した。それで八女国の名は、これからおこった。
十九年の秋九月甲申の朔癸卯の日に、天皇は日向より戻られた。二十年の春二月辛巳の朔甲申の日に、五百野皇女を遣わせて、天照大神を祭らせた。 二十五年の秋七月の庚辰の朔壬午の日に、武内宿禰を遣わせられて、北陸および東の国々の地形、また百姓の様子を見させた。二十七年の春二月の辛丑の朔壬子の日に、武内宿禰が東国から帰って奏上するには、「東の夷の中に、日高見国があります。その国の人は、男も女もともに髪を結い、背も高くて、人となりは勇ましいのです。これらを全て蝦夷といいます。また土地は肥えて広いのです。討ってしまったほうがいいでしょう。」と申し上げた。秋八月に、熊襲が背いて、辺境を侵すことをやめなかった。冬十月の丁酉の朔己酉の日に、日本武尊を遣わして、熊襲を討たせることにした。時に年十六歳。ここに日本武尊が申すには「私はよく弓矢を射る人を賜って、共に行きたいと思います。どこかによく弓矢を射る人がいるでしょか。」と申された。ある人が申し上げるには「美濃国によく射る人がいます。弟彦公といいます。」と申した。ここに日本武尊は葛城の人、宮戸彦を遣わせて弟彦公を呼んだ。それで、弟彦公は一緒に石占横立と尾張の田子稲置、乳近稲置を連れて詣でてきた。それで日本武尊に従って行った。十二月に、熊襲国に着いた。まずその消息と地形の様子を調べられた。時に熊襲に魁帥者がいた。取石鹿文。または川上梟帥という。ちょうど親族を集めて、宴をしようとしていた。そこで日本武尊は髪をといて乙女の姿となり、密かに川上梟帥の宴を窺った。そのとき剣を御衣の裏に忍ばせて、川上梟帥の宴の家に入り込み、女どもの中に交じった。川上梟帥は、その乙女の姿に見入って手を携えて布団を共にして、盃を挙げて酒を飲みつつ、戯れて体をまさぐった。時に夜が更けて、人が少なくなった。川上梟帥は、まだ酒に酔っていた。ここに日本武尊は御衣の中の剣を抜いて、川上梟帥の胸を刺したまわれた。死ぬ前に川上梟帥が願って申されるには、「しばらく待ってくれ。言うことがある。」と申した。時に日本武尊が剣を止めて待たれた。川上梟帥が奏上するには、「あなたはどなた様ですか。」と申した。答えて申されるには「私は景行天皇の皇子である。名を日本童男という。」と申された。川上梟帥がまた申すには「私は、国の中の権力者です。これをもって今のたくさんの人々が私の力に勝てず、従わない者はいません。私は多くの敵と会ってきましたが、いまだ皇子のような人はいませんでした。それで、卑しい賊が賤しい口から御名を贈りたいのです。許してもらえるでしょうか。」と申した。申すには「許す。」と申した。それで申し上げるには「今より後、皇子を名付けて日本武皇子と称えましょう。」と申した。いい終わるや、胸に刺して殺したまいた。それで今に至るまで、日本武尊と称えるのは、これが由縁である。その後、弟彦らを遣わせて、ことごとく仲間を切らせた。残る者がいなくなった。そして海路で倭に帰って、吉備について穴海を渡った。そこに荒ぶる神がいた。そして殺した。また難波に帰り着く頃に、柏済の神を殺した。
二十八年の春二月乙丑の朔の日に、日本武尊は熊襲を平定した様子を奏上して申すには、「私は、天皇の神霊のお陰で、一度の挙兵で、刃向かう熊襲の魁帥者を殺して、ことごとくその国を平定しました。これで西の国は鎮まりました。百姓も無事です。ただ、吉備の穴済の神と難波の柏済の神だけが全てを傷付ける意志があり毒気を放って、道行く人々を苦しめました。そして悪人の集まる場所となっていました。それで、ことごとく悪しき神を殺し、そして水陸の道を開きました。」と申した。天皇は、ここに日本武の功績を褒められて、特にかわいがられた。
四十年の夏六月に、東の夷が反乱を起こして辺境を騒がせた。 秋七月の癸未の朔戊戌の日に、天皇は卿たちに詔して申されるには「今、東国が安からず、荒れた神が多く動いている。また蝦夷がことごとく背いて、しばしば国民をさらっていく。誰を遣わして、その反乱を平らげようか。」と申された。臣たちは皆、誰れを遣わせていいか分からなかった。日本武尊が奏上するには「私は先に西を討ちに参りました。この役は大碓皇子にやらせましょう。」と申された。時に大碓皇子は怖気づいて、草の中に隠れてしまった。すぐに使者を遣わせて呼び出した。ここに天皇が責めて申されるには「お前が行きたくないのなら、なぜ強いて行かせようとしようか。なぜ賊と向かいあってもいないのに、そんなに恐れるのだ。」と申された。これによって、遂に美濃を治めさせた。そして、治めさせる国に行かせた。これは、身毛津君守君すべて二族の始祖である。ここに日本武尊が雄叫びして申されるには「熊襲を既に平らぎ、いまだいくばくの年も経っていが、今また東の夷が背いている。いつの日か平和な時が来る。私が頑張って、ひたすらその乱れを平らげましょう。」と申された。そして天皇は斧鉞を取って、日本武尊に授けて申されるには「私が聞くには、かの東の夷は粗暴で強い。周囲を犯すことをむねとする。村に長はおらず、邑に首もいない。それぞれ村の境を貪り、そして盗んでいく。また山に悪しき神がいる。野には騒がしい鬼がいる。分かれ道を遮り、道を塞いでいる。たくさんの人々を苦しめている。その東の夷の中の蝦夷はとても強いらしい。男女が入り混じり、親子の区別もない。冬は穴に宿り、夏は巣に住んでいる。毛皮を着て血を飲み、兄弟がお互いが疑う。山に登る様は飛ぶ鳥のようであり、草を走る様は逃げる獣のようである。恩を受ければ忘れ、怨みは必ず返す。そして、矢を頭髺に隠し、刀を衣の中に帯びている。また仲間を集めて、辺境を犯す。あるいは農作の時を窺って、人民をさらっていく。討てば草に隠れる。追えば山に入る。それで古以来、いまだに朝廷に従わないでいる。今お前を見るに、体が大きく、容姿が端正である。力が強い。猛々しいこと雷のようである。向かうところ敵なく、攻めるところ必ず勝つ。それで分かった、姿は我が子だが実は神であられることを。これは天が私がつたなく、また国が乱れたのを悲しまれたまわれて、天業を整えしめたまい、国が絶えずあらしめたまうためか。またこの天下はお前の天下である。この位はお前の位である。願わくば深く謀り遠く配慮して、騒ぐのを探し出し背くのを窺って、向かってくるのには勢いをもって、懐いてくるのには徳をもって、兵を動かさず、向こうから従わせろ。それは言葉を巧に使って、荒ぶる神を落ち着かせ、武をもってやかましい鬼をはらえ。」と申された。ここに日本武尊は、斧鉞を授かって、拝礼して奏上するには、「昔、西を討った年に皇霊の威によって、短い剣を引っ提げて熊襲国を討った。いまだいくばくの年も経ぬうちに、賊首は罪を起こしました。今また、天つ神国つ神の霊を頼み、天皇の威勢を借りて、その境に行って徳教を示し、なお服従しないのであれば兵を挙げて撃ちましょう。」と申した。そして重ねて拝礼された。天皇は吉備武彦と大伴武日連に命じて、日本武尊に従わせた。また七掬脛を膳夫とした。冬十月の壬子の朔癸丑の日に、日本武尊が出発された。戊午の日に、道を外れて伊勢神宮に詣でられた。それで倭姫命の元に断りに行って申すには「今、天皇のご命令を受け賜って東に行き、背く者どもを征伐にしてきます。それで、おいとまを申しにきました。」と申された。ここに倭姫命は草薙剣を取って、日本武尊に授けて申すには「慎みなさい。怠ってはいけません。」と申された。この年、日本武尊が初めて駿河に到った。そこの賊が偽って従い、欺いて言うには「この野に、大鹿がたくさんいます。息は朝霧のようで、足は茂げった林のようです。出向いて、やっつけてください。」と言った。日本武尊はその言葉を信じて、野の中に入って獣の跡を探された。賊は王を殺そうと思って王とは日本武尊のことをいうぞ、その野に火をつけた。王はだまされたと知ってすぐに火打ちを出して、火を打ち出し、向火をつけて免れることが出来た。ある伝えでは、王の腰に差した剣藂雲が自ら抜けて、王の周りの草を薙ぎ払った。これによって免れることが出来た。それでその剣を名付けて、草薙という。王が申されるには「ほどほどにだまされた。」と申された。そしてことごとくその賊を焼いて滅ぼした。そのところを名付けて焼津という。また相模に行かれて、上総へと向かおうとした。海を眺めて言い挙げるには「これは小さい海だ。走って渡れる。」と申された。そして海の中までやってくると暴風がたちまち吹いて、王船が漂い、渡ることが出来なかった。時に、王に従ってきた女性がいた。弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の娘である。王に申し上げるには「今、風が吹いて、波が荒く王船が沈もうとしています。これは必ず海神の仕業です。願わくば、賤しき私の身を王の命に代えて海に入りましょう。」と申した。言い終わると、波を押し分けて入っていった。暴風がやんだ。船は岸につくことが出来た。それで時の人は、その海を名付けて馳水という。
ここに日本武尊は上総から移って、陸奥国に入られた。時に大きな鏡を王船に掛けて、海路から葦浦に回った。横の玉浦を渡って蝦夷の国の境に至った。蝦夷の賊首の嶋津神と国津神たちが竹水門に集まって防ごうとした。しかし遠くに王船を見て、その勢いに怖気づき勝てないと思い、ことごとく弓矢を捨て、遠くを見て拝んで申すには「仰ぎて君の御顔を見ると、人として優れておられる。もしや神か。御名を教えて下さい。」と申した。王が答えて申されるには「私は現人神の御子である。」と申された。ここに蝦夷たちがことごとく畏まって、すぐに着物をかかげ、波を分けて王船を手伝って岸につけた。そして自ら縛って従った。それで罪を許された。よってその首帥を捕虜として従わせた。蝦夷を平定し、日高見国から戻って、西南の常陸を通って甲斐国に着いて酒折宮におられた。時に火を灯して食事をした。この夜、御歌で周りに付き従う者に聞いて申されるには新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるほとんどの付き従う者は答えることが出来なかった。時に火を灯す者がいた。王の御歌の後に続けて、歌詠みして申すには日日並べて夜には九夜日には十日を火を灯す者の賢さを褒められて、厚く褒美を与えた。そしてこのお宮にいるときに靫部を、大伴連の祖先武日に賜えた。ここに日本武尊が申されるには「蝦夷の悪い首長どもを、ことごとく罪し服した。ただ信濃国、越国だけがいまだに朝廷に従わない。」と申された。そして甲斐より北の武蔵、上野を巡って、西の碓日坂に到った。時に日本武尊はいつも弟橘媛を偲ばれる気持ちがあった。それで碓日嶺に登って、東南の方を見て、三度嘆いて申されるには「我が妻よ」と叫ばれた。よって山の東の国々を名付けて吾嬬国という。ここに手分けをして吉備武彦を越国に遣わせて、その国の様子、また人民が従うか否かを調べさせた。
そして日本武尊が信濃に入られた。この国は山が高く、谷が深い。青い岳が幾重も重なっている。人、杖を使っても登り難い。岩は険しく、架け橋を廻って、高い岳が数千、馬は進まなかった。しかるに日本武尊は煙を分け、霧を凌いで、遥かな大山を渡ってゆかれた。既に峰に到ったところで、お疲れになられた。山の中で食事をされた。山の神が王を苦しめようとして、白い鹿となって王の前に立たれた。王は怪しまれて、一つのニンニクを白い鹿に投げつけた。目に当てて殺した。ここに、王はたちまち道に迷って、出ていくところが分からなくなった。時に白い犬がやってきて、王を導く様子であった。犬について行くと、美濃に出ることが出来た。吉備武彦が越国から出てきて合流した。それまで信濃坂を越える者は、多くが神の気にやられて病んでしまっていた。ただ白い鹿を殺したまわれた以降、この山を越える者はニンニクをかんで人と牛馬に塗った。自然と神の気に当たらなかった。日本武尊は尾張に戻ってきて、尾張氏の娘宮簀媛と結婚され、しばらく留まって月日が過ぎた。ここに近江の五十葺山に荒ぶる神がいると聞いて、剣を解いて宮簀媛の家に置いて、素手で出て行かれた。胆吹山までくると、山の神が大蛇になって道をふさいでいた。ここに日本武尊は神が蛇なっているのに気付かず申されるには「この大蛇は、きっと荒ぶる神の使いだろう。その神を殺すことが出来れば、この使いをなぜ求める必要があるだろうか。」と申された。そして蛇をまたいで、さらに進んでいった。時の山の神は雲をおこして雹を降らせた。峰に霧が出て、谷は暗くなり、進む道がわからなくなった。さまよい、踏むところもわからない。それでも霧を凌いで無理に進んだ。なんとか抜け出すことができた。なお惑うような気持ちは、酔っているようであった。それで山の下の泉のほとりで、その水を飲んで目が醒めた。それでその泉を名付けて居醒泉という。
日本武尊はここではじめて、体調が悪くなった。そうしてようやく立ち上がり、尾張に帰られた。ここに宮簀媛の家には戻らず、伊勢に移って尾津にやってきた。昔日本武尊が東国に出発した年、尾津浜で休んで食事をした。この時に、一つの剣をほどいて松の下に置かれた。それをつい忘れて出発された。今ここに至るに、この剣がなおあった。それで歌って言うには尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松ひとにありせば衣著せましを太刀佩けましを能褒野にまでやっきて、体調はますますひどくなった。そして捕虜にした蝦夷たちを神宮に献上した。また吉備武彦を遣わせて、天皇に奏上して申されるには「私はご命令を帝より受け賜って、遠く東の夷を討ちました。そして神の恩をいただき、天皇の威勢を借りて、背く者が罪に従い、荒ぶる神は自ら従ってきました。これをもって、鎧を脱ぎ、矛をおさめて、戦が済んだので戻ってきました。いずれの日にか、いずれの時にか帝に復命しようとしてまいりました。しかし、寿命がたちまちやってきてしまい、余命いくばくもありません。それで一人曠野で伏せています。誰にも語る事はありません。なぜ身が滅びることに惜しいでしょうか。ただ愁うのは天皇に仕える事ができないことのみです。」と申された。能褒野で崩御された。時に年三十歳。天皇がこれを聞いて、寝ても席についても落ち着かなかった。食事をしても味が分からなかった。昼も夜も嗚咽して、泣き叫び、胸をうって悲しんだ。大いに嘆いて申されるには「我が子小碓王は昔熊襲が背いた日は、まだ総角もまだだったのに、長く戦いに煩い、近くにいては私の不足を補ってくれていた。東の夷が騒ぎだしても、討ちに行く者がいなかった。かわいいが、それを忍んで、賊の国に行かせた。一日として思い出さなかったことはない。朝晩にうろうろして、帰る日を今か今かと待っていた。何の禍だ、何の罪だ、思いかけずに我が子が死んでしまうとは。今後、誰と共に皇位を治めようか。」と申された。そして卿たちに詔し百寮たちに命じて伊勢国の能褒野陵に葬られた。時に日本武尊は白鳥となられて、陵から出ていき倭国に向かって飛んでいった。臣たちがその棺を開いてみると、服だけが残り屍がなかった。そこで使いを遣わせて白鳥を追い求めさせた。そして倭の琴弾原に降りた。その所に陵を造った。白鳥がまた飛んでいき河内に到り旧市邑に留まった。またその所にも陵を造った。それで時の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵といった。そうしてついに高く飛んで天に昇った。この三つの陵には、ただ服と冠を納めた。よってその名を残すために武部を定めた。この歳、天皇が即位して四十三年である。
五十一年の春一月の壬午の朔戊子の日に、卿たちを呼んで、宴を数日のあいだ催した。時に、皇子稚足彦尊と武内宿禰が宴にやってこなかった。 天皇が呼び出して、その訳を問われた。よって答えて言うには「その宴楽の日に卿たち官僚たちは必ず遊んでしまうので、国家を忘れてしまいます。もしかしたら狂った人が御垣の隙から覗いているかもしれません。それで門の下で控えて、非常時に備えていました。」と申した。時に天皇が語って申されるには「もっともだ。」と申された。それで稚足彦尊を特にかわいがられた。秋八月の己酉の朔壬子の日に、稚足彦尊を皇太子とされた。この日、武内宿禰に命して棟梁之臣とされた。はじめ日本武尊が腰に帯びていた草薙横刀は、これ今、尾張国の年魚市郡の熱田社にある。ここに神宮に献上した蝦夷たちが昼夜騒ぎ、出入りに礼儀がなかった。時に倭姫命が申されるには、「この蝦夷たちを、神宮に近づかせないで。」と申された。それで朝庭に行かせた。そして御諸山のほとりに住まわせた。しかし、幾日も過ぎないうちにことごとく神山の木を切り、隣の里に叫び入って、人々を脅かした。天皇が聞いて、卿たちに命じて「神山のほとりに住まわせた蝦夷は怪しいので、都に住まわせるのは難しい。近畿の外に住まわせろ。」と言われた。これ今、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五国の佐伯部の祖先である。初め日本武尊は、両道入姫皇女を娶って妃として、稲依別王を生んだ。次に足仲彦天皇次に布忍入姫命次に稚武王。その兄稲依別王は、犬上君武部君すべて二族の始祖である。また妃吉備武彦の娘、吉備穴戸武媛は武卵王と十城別王を生んだ。その兄の武卵王は、これ讃岐綾君の始祖である。弟の十城別王は、これ伊予別君の始祖である。次の妃穂積氏忍山宿禰の娘、弟橘媛は稚武彦王を生んだ。
五十三年の秋八月丁卯の朔に、天皇は卿たちに詔して申されるには、「私は、愛しい子を偲ぶことを、いつになったらやめられるのだろう。願わくば、小碓王の平定した国を巡りたいと思う。」と申された。この月に天皇は伊勢に行幸され、周って東海道に入られた。冬十月に、上総国に到って、海路より淡水門をお渡りになられた。この時、覚賀鳥の声が聞こえた。その鳥をご覧になろうと思って、尋ねて海の中に出ていかれた。そこでハマグリが取れた。ここに膳臣の遠い祖先、名は磐鹿六雁が蒲をたすきにしてハマグリを刺身にして、天皇に献上した。それで六雁臣の功績を褒めて、膳大伴部を賜えた。十二月に東国から帰られて、伊勢におられた。これを綺宮という。五十五年の春二月の戊子の朔壬辰の日に、彦狭嶋王を東山道の十五国の都督に任じた。これは豊城命の孫である。そうして春日の穴咋邑まで来ると、病に臥して亡くなった。この時に、東国の百姓はその王がやってこれなかったことを悲しんで、密かに遺体を盗んで、上野国に葬りまつった。五十六年の秋八月に、御諸別王に詔して申されるには「お前の父彦狭嶋王は、命じた所に向かうことが出来ずに、早く亡くなられた。故にお前が東国を治めなさい。」と申された。これにより御諸別王は天皇のご命令を承って、まさに父の仕事を成そうとした。すぐに行って治め、速やかに良い政治を行った。時に蝦夷が騒いだ。そしてすぐに兵を挙げて撃った。時の蝦夷の首長足振辺、大羽振辺、遠津闇男辺たちが頭を下げてきた。謝って罪を受け入れ、ことごとくその地を献上した。よって従う者を許し、従わない者を征伐した。これをもって東の方は長く事件がなかった。これによってその子孫は今も東国にいる。
五十七年の秋九月に、坂手池を造った。竹をその堤の上に植えた。冬十月に、諸国に命じて田部屯倉を起こした。五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥の日に、近江国に行幸されて滋賀にいること三年。これ高穴穂宮という。六十年の冬十一月の乙酉の朔辛卯の日に、天皇は高穴穂宮で崩御された。年百六歳。
稚足彦天皇成務天皇稚足彦天皇は、大足彦忍代別天皇の四番目の御子であられる。母の皇后を八坂入媛命と申し上げる。八坂入彦皇子の娘である。景行天皇の四十六年に、皇太子となられた。年二十四。六十年の冬十一月に、景行天皇が崩御された。元年の春一月の甲申の朔戊子の日に、皇太子が即位された。この年、太歳辛未。二年の冬十一月の癸酉の朔壬午の日に、景行天皇を倭国山辺道上陵に葬られた。皇后を尊んで皇太后という。三年の春一月の壬酉の朔己卯の日に、武内宿禰を大臣とされた。天皇と武内宿禰は、同じ日に生まれた。それで特にかわいがった所がある。四年の春二月丙寅の朔の日に詔して申されるには「私の前の帝景行天皇は、聡明で、勇ましくて天命を受けて皇位につかれた。天に適い、人に従って、賊を払い正しいほうに向かわせた。徳は覆うのと等しい。道は作っていくのに適っていた。それで天下に従わないものはいなかった。すべてのものは何処かに安らぎを得た。今、私が継いで、皇位を知らしめた。つとに、夜にわななき怖くなってしまう。しかるに、国民は蠢く虫のようにして、荒れた心を改めようとしない。これ国郡に君長がおらず、県邑に首渠がいないからである。今後、国郡に長を置き、県邑に首を立てる。すなわちそれぞれの国にふさわしい者をとりたて、その国郡の首長に任ぜよ。これを内つ国を守る者としよう。」と申された。五年秋九月に、諸国に命じて、国郡に造長を立て、県邑に稲置を立てた。そして盾矛を与えてしるしとした。さらに、山河を境にして国県を分け、東西南北に従って村を定めた。よって東西の方向を日縦とし、南北の方向を日横とした。山の南を影面という。山の北を背面という。これによって百姓が安心して住めた。天下に事件が起きなかった。四十八年の春三月の庚辰の朔の日に、甥の足仲彦尊を皇太子とされた。六十年の夏六月の己巳の朔己卯の日に、天皇が崩御された。時に年百七歳。日本書紀巻第七