日本書紀 第九巻 神功皇后

神功摂政前紀

 2-9-1神功皇后の神がかりと住吉三神

 2-9-2三韓征伐の出発準備   2-9-3三韓征伐

神功摂政元年

 2-9-4麛坂王と忍熊王の反乱

神功摂政二〜五年

 2-9-5仲哀天皇の葬儀と誉田別の立太子と新羅の朝貢

神功摂政十三年

 2-9-6ある日の楽しい宴

神功摂政三十九年

 2-9-7魏志の伝え

神功摂政四十〜四十九年

 2-9-8魏志の伝え その2   2-9-9卓淳と百済

 2-9-10新羅と百済の来日   2-9-11新羅征伐第二弾

神功摂政五十〜五十六年

 2-9-12腰の低すぎる百済の使い

神功摂政六十二〜六十九年

 2-9-13神功皇后の崩御

<<2-8第八巻仲哀天皇 |[TOP]| 2-10第十巻応神天皇>>

日本書紀巻第九気長帯姫尊神功皇后気長帯姫尊は稚日本根子彦大日日天皇の曾孫で、気長宿禰王の娘である。母を葛城高額媛と申し上げる。足仲彦天皇の二年に皇后となられた。幼いときから聡明で、賢くおられた。とても素敵だった。父の王が怪しまれた。
九年の春二月に、仲哀天皇が筑紫の橿日宮で崩御された。時に皇后は天皇が神の御教えに従わずんい早くに崩御さられたことを痛まれて思うには、祟った神を調べて財宝の国を求めようと思った。そこで臣たち、百寮に命じて罪を祓い過ちを改めて、さらに斎宮を小山田邑に作らせた。三月の壬申の朔の日に、皇后は吉日を選んで斎宮に入られて、自ら神を祭る主となられた。そして武内宿禰に命じて御琴を弾かせた。中臣烏賊津使主を呼んで、審神者にした。そして千繒高繒を御琴の前後に置いて願って申されるには「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょう。願わくば、その名を教えて下さい。」と申した。七日七夜に到って、遂に答えて申されるには「神風の伊勢国の百伝う度逢県の拆鈴五十鈴宮にいる神撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と。また聞いて申すには、「この神の他にまた神いますか。」と。答えて申すには、「幡荻穂に出てきた私は、尾田の吾田節の淡群にいる神がいる。」と。聞いて申すには「またいますか。」と。答えて申すには、「いるかいないか知らない。」と。ここで審神者が申すには、「今、お答えされなければ、さらに後で申されることがありますでしょうか。」と。それで答えて申すには「日向国の橘の小門の水の底にいて水葉も若やかに出ている神、御名は表筒男中筒男底筒男の神がいる。」と。聞いて申すには、「また他にいますか。」と。それで答えて申すには「いるのか、いないのか分からない。」と。ついに、また神がいるとは申されなかった。時に神の言葉を得て、教えのままに祭った。そして、吉備臣の祖先鴨別を遣わせて、熊襲国を撃たせた。しばらくもしないうちに自ずから従ってきた。また荷持田村に羽白熊鷲という者がいた。その人となりは、強くたくましかった。また体に翼があって、高く飛んだ。それで天皇の命令に従わなかった。いつも人をさらっていった。戊子の日に、皇后は熊鷲を撃とうと思って橿日宮から松狭宮に移られた。時につむじ風がたちまち起こって、御笠が吹き飛ばされた。それで、時の人は、そこを名づけて御笠という。辛卯の日に層増岐野に到って、そこで兵を起こして羽白熊鷲を撃って殺した。周りのものに語って申されるには、「熊鷲をやっつけることが出来た。安心した。」と申された。それで、そのところを名付けて安という。丙申の日に、移って山門県に到り、そこで土蜘蛛田油津媛を罰した。時に田油津媛の兄、夏羽が軍を起こして迎え撃とうとした。しかしその妹が殺されたことを聞いて逃げていった。
夏四月の壬寅の朔甲辰の日に、北の方の火前国の松浦県に着いて、玉嶋里の小河のほとりで食事をした。ここに皇后は針をまげて釣り針を作り、飯粒を取って餌とし、裳の糸をほどいて釣り糸にして、河の中の石の上にのぼって、針を投げて誓約して申されるには「私は西の宝の国を求めようと思う。もし事を成すことあらば、川の魚よ、釣り針を食え。」と申された。そして竿を挙げると、鮎が釣れた。それで皇后が申されるには、「珍しいものだ。」と申された。それで、時の人はその所を名付けて、梅豆羅国という。今、松浦というのはなまったものである。これよりその国の女性は四月の上旬に、針を川の中に投げて鮎を取ることが、今になっても絶えていない。ただ男は釣りをしても、魚を釣ることができない。これにより皇后はそれが神の教えのしるしであることを知らせて、さらに天つ神国つ神を祭り、自ら西の方を征伐しようと思った。ここに神田を作った。時に儺の川の水を引いて、神田を潤そうと思い溝を掘った。迹驚岡までくると、大岩で塞がれて溝を掘ることが出来なかった。皇后は武内宿禰を呼び出して、剣と鏡を捧げて天つ神国つ神に祈り、溝を通すことを求めた。すると落雷があって、その岩を踏み裂いて水を通させた。それで時の人はその水を名づけて、裂田溝という。
皇后は橿日浦に戻ってきて、髪を解いて海に臨んで申されるには「私は、天つ神国つ神の教えを受け賜り、また皇祖の霊を頂いて、海原を渡って自ら西の方を討とうとしている。ここで頭を海水ですすぐ。もししるしがあるなら、髪は自然と二つになれ。」と申された。そして海に入って頭をすすぎたまわれると、髪は自然と分かれた。皇后はすぐに髪を結い上げて、髻にされた。それで臣たちに語って申されるには「兵を起こして、様々をなものを動かすのは国の一大事である。安らぎも危なさも、勝つも敗れるも、必ずこれにかかっている。今、討つところがある。事をもって臣たちに授ける。もし事が成らなければ、罪は臣にある。それは甚だ痛ましいことである。私は女性であり、また幼い。しかし、しばらくは男性の姿を借りて、強気に雄々しき計略を起こそう。上は天つ神国つ神の霊を蒙り、下は臣たちの助けを借りて、兵を起こして高い波を渡り、船団を整えて宝の国を求める。もし事が成れば、臣たちよ、皆に功績がある。事が成らねば、私一人に罪がある。もうこう決めた。それで、共にはからえ。」と申された。臣たち皆が申すには、「皇后よ、天下の為に国家を安泰にする方法を考えます。また罪が私らに及びません。謹んで詔を承ります。」と申した。
秋九月の庚午の朔己卯日に、諸国に命じて船を集め、兵を鍛錬した。しかし兵士が集まらなかった。皇后が申されるには、「必ず神の御心だろう。」と申して、すぐに大三輪社を建てて、刀、矛を奉納された。すると兵士が自然と集まった。ここに吾瓮海人烏麿呂という者を西の海に出して、国があるかを見させた。帰ってきて言うには「国が見えません。」といった。また磯鹿の海人、名は草を遣わせて見させた。数日が経って戻ってきて言うには、「北西に山があります。雲が帯のようになり、横に渡って広がっています。もしや、があるのでしょうか。」と言った。吉日を占うと、出発までに日にちがあった。時に、皇后がみずから斧鉞を取って、三つの軍に命じて申されるには「節度がなくなり旗が交錯して乱れている時には、兵士も整わない。宝を貪り、物を欲しがり、また妻や妾のことばかり考えていると、必ず敵にやられてしまう。敵が少なくても軽はずみなことはするな。敵が多くても屈するな。女性を犯すことは許さない。自分から降伏してくるのを殺すな。ついに戦に勝てれば、褒美があるだろう。逃げ回っていれば、罰を与える。」と申された。前に神に教えられたことがあって申されるには「和魂は王の体に付いて命を守る。荒魂は先鋒として船団を導くだろう。」と申された。神の教えを得て、敬まわれた。それで依網吾彦男垂見を祝いの神主とした。時に皇后の臨月となった。皇后は石を取って腰に挟み、祈られて申されるには「事を終えて帰る日に、ここで生まれ給え。」と申された。その石は今、伊覩県の道のほとりにある。そして荒魂を招いて軍の先鋒とし、和魂を招いて王船の鎮めとされた。
冬十月の己亥の朔辛丑の日に、和珥津より出発された。時に風の神が風を起こし、海の神が波を上げて、海の中の大魚がことごとく浮かんできて御船を助けた。すなわち大いなる風が追い風となり、帆船は波に乗った。船漕ぎが働くなくても新羅に到った。時に船の波は、遠く国の中にまで及んだ。それで分かった、天つ神国つ神がことごとく助けたまわれたことを。新羅の王がこれに恐れおののき、する術がなかった。そして人々が集まって言うには「新羅には建国以来海が国にまで上ってきたことは聞いたことがない。もしや天運が尽きて、国が海に沈もうとしているのか。」と言った。この事を言い終わる前に船団が海に満ちて、旗が日に輝いた。鼓、笛の音が鳴り、山川がことごとく震えた。新羅の王は、遥か彼方を臨んで思うには、「予想以上の兵が、まさに私の国を滅ぼそうとしている。」と。恐れてどうするか迷った。そして目が覚めて申すには「私が聞くには、東に神の国がある。それを日本という。また聖王がいる。それを天皇という。きっとその国の兵たちであろう。なぜ兵を挙げて防ぐことが出来ようか。」と申して、白旗を挙げて降伏した。白い紐を首にかけて自ら捕らわれた。戸籍簿を封印して王船の前に差し出した。そして頭を伏して申すには「今後、長く天地と同じように飼部となろう。そして船の舵が乾かぬ間に、春、秋に馬を洗うハケと鞭を献上しよう。また海の遠い事を煩わしいと思わず、毎年、生産物の税を献上しよう。」と申した。そして重ねて誓うには「東から昇ってくる日が西から昇ってくることがないのはまた阿利那礼河の流れに逆らい、川の石が星辰となるのを除いて、春秋の朝を欠き、怠ってクシとムチの朝貢をやめたら、天つ神国つ神よ、共に我々を征伐したまえ。」と申した。時にある人が言うには「新羅の王を殺してしまえ。」と言った。ここに皇后がいうには、「我々は神の教えを受け賜って、まさに金銀の国を授かろうとしています。また三の軍に号令した時に『自ら降伏してきた者を殺すな。』と言いました。今、宝の国を得ました。また自ら降伏してきました。殺すのはよくありません。」と申されて、その縛った綱をほどいて飼部とされた。遂に新羅に入られて宝の倉庫を封じ、戸籍を差し押さえた。そして皇后の突いていた矛で、新羅の王の門に突き立て、後世への印とされた。この矛は今なお新羅の王の門に立っている。ここに新羅の王波沙寐錦は、微叱己知波珍干岐を人質として、そして金、銀、色麗しき物、そして綾の絹、羅、縑絹を準備して、八十艘の船に積んで、官軍に従わせた。これより新羅の王はいつも八十の船に貢物を積んで、日本国に献上するのは、これがその由縁である。ここに、高麗と百済の二つの国の王は、新羅が戸籍簿を封じて日本に服従したと聞いて、密かにその軍勢を調べた。そして勝てないと分かり、自ら宿営地の外に詣でて、頭を下げて申すには「今より後、長く西蕃と自らを呼び、朝貢を絶やさないようにしましょう。」と申した。それで内官宮家を定めた。これいわゆる三韓である。
皇后は新羅から帰られた。十二月の戊戌の朔辛亥の日に、誉田天皇を筑紫でお生みになられた。それで時の人は生んだところを名付けて宇瀰という。ここで、軍に従った神表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神が、皇后に教えるには「我が荒魂を、穴門の山田邑に祭れ。」と言われた。時に穴門直の祖先践立、津守連の祖先田裳見宿禰が皇后に申し上げるには「神のいたいと思う所を、必ず決めて献上すべきです。」と奏上した。それで、践立を荒魂を祭る神主とした。そして社を穴門の山田邑に建てた。
新羅を討ちたまわれた翌年の春二月に、皇后は卿たち、百寮を率いて穴門豊浦宮に移られた。そして天皇の葬儀を済ませて、海路で都に向かわれた。時に麛坂王と忍熊王は天皇が崩御され、また皇后が西の方を討ちたまわれ、そして皇子を新たにお生みになられたと聞いて、密かに謀って言うには、「今、皇后には御子がいる。臣たちが皆従っている。必ず共に話し合って若い主を立てるだろう。我らがなぜ兄なのに弟に従うことが出来ようか。」と言った。そして偽って天皇のために陵を作るまねをして、播磨に詣でて山陵を赤石に建てた。それで船を編成して淡路嶋に渡して、その島の石を運んで作った。そして人々に武器を取らせて、皇后を待った。ここに犬上君の祖先倉見別と、吉師の祖先五十狭茅宿禰が共に麛坂王に味方した。そして将軍として東国の兵を起こさせた。時に麛坂王、忍熊王は共に菟餓野に出て、祈狩をして言うには、「もし事を成すことができるなら、必ずよい獣が捕れるだろう。」と言った。二人の王はそれぞれ仮宮に泊まられた。赤い猪がたちまち出てきて仮宮に登り、麛坂王を食い殺した。兵士達がみな怖気づいた。忍熊王と倉見別が話すには「この事は大変な知らせだ。ここで敵を待ってはいけない。」と言った。そして軍を引いてさらに戻り、住吉に集まった。
時に皇后は忍熊王が兵を起こして待ち構えていると聞いて、武内宿禰に命じて、皇子を抱かせて、迂回させて南海に出て、紀伊水門に停泊させた。皇后の御船は、まっすぐに難波を目指した。しかし皇后の御船は海の中を回ってしまい、進むことが出来なかった。務古水門に戻って占った。ここに天照大神が教えて申されるには「我が荒魂を皇居に近づけないように。まさに御心を広田国にいさせなさい。」と申された。それで山背根子の娘葉山媛に天照大神を祭らせた。また稚日女尊が教えて申されるには「私は活田長峡国にいたい。」と申された。よって海上五十狭茅に祭らせた。また事代主尊が教えて申されるには「私の御心を長田国に祭れ。」と申された。それで、葉山媛の妹長媛に祭らせた。また表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神が教えて申されるには、「我が和魂を大津の渟中倉の長狭にいさせろ。そこで行き交う船を眺めていたい。」と申された。ここに神の教えに従って鎮めた。それによって無事に海を渡ることが出来た。
忍熊王はまた軍を移し、菟道に動かした。皇后は南の方の紀伊国に到って、太子と日高で合流した。群臣と謀って忍熊王を攻撃することにし、更に小竹宮に移った。この時、昼の暗さは夜のようで、もう何日も続いていた。時の人が言うには「常夜行く」と言う。皇后が紀直の祖先豊耳に聞いて申されるには「この怪しさは何故でしょう。」と申された。時に一人の老父が言うには「伝えに聞くには、このような怪しさは阿豆那比の罪といいます。」と言った。「どういう事でしょう」と聞きたまわれた。答えるには「二つの社の祝者を一緒に葬ってしまったのでしょう。」と言った。それで里村に聞くと、一人の人が答えるには「小竹の祝と天野の祝はとても仲のいい友人だったのです。小竹の祝が病気で亡くなりました。天野の祝が泣いて言うのです、『私たちはいい友であった。なぜ死んで、穴を同じにすることが出来ないのだろうか。』そう言って、遺体のそばで自ら死にました。それで一緒に埋葬したのです。もしやこのことでしょうか。」と申し上げた。それで墓を開いてみれば、本当であった。さらに棺を改めて、各々別のところに埋葬した。それで光が照って、昼と夜とが別になった。
三月の丙申の朔庚子の日に、武内宿禰と和珥臣の祖先武振熊に命じて、数万の軍を率いて忍熊王を討たせようとした。ここに武内宿禰たちは精兵を選んで、山背方面へ出発した。菟道までやってきて、河の北に集まった。忍熊王は宿営地を出て戦おうとした。時に熊之凝という者がいた。忍熊王の軍の先鋒となった。熊之凝は葛野城首の祖先である。ある伝えでは、多呉吉師の遠い祖先であるという。自分の軍勢を喚起させるために、それで高く歌詠みするには、彼方のあらら松原松原に渡り行きて槻弓にまり矢を副へ貴人は貴人どちや親友はも親友どちいざ闘はな我はたまきはる内の朝臣が腹内は小石あれやいざ闘はな我は時に武内宿禰は三つの軍に命じて、ことごとく髪上げさせた。そして号令を出して言うには「各々、予備の弦を髪の中に隠し、また木刀を帯よ。」と言った。皇后の命令を言い上げて、忍熊王を誘うには「私は天下を貪ろうとしているのではない。ただ若い皇子を抱いて、君王に従うだけである。なぜ戦うことがあるだろうか。出来れば弦を切り、武器を捨て、共に仲よくやろう。そして、君王は皇位をついで、その地位に安じ、そして枕を高くして、全ての政治を行いましょう。」と言った。そして軍に命じて、ことごとく弦を切り、刀を解いて河に投げ入れさせた。忍熊王はその誘いを信じて全ての軍勢に命じ、武器をほどいて川に投げ入れさせ、弦を切らせた。ここに武内宿禰が三つの軍勢に命じて、予備の弦を出して張り、真剣を腰につけさせた。川を渡って進んだ。忍熊王は騙されたことを知り、倉見別、五十狭茅宿禰に言うには「我らは騙された。今、手元に武器はない。どうして戦うことが出来ようか。」と言って兵を引き、やや退いた。武内宿禰は精兵を出して追った。逢坂で追い付き、そして破った。それで、そこを名付けて逢坂という。軍勢は逃げた。狭狭浪の栗林で追いついて多くが斬られた。ここに血が流れて栗林についた。それで、この事を嫌って今に至っても、その栗林の木の実を御所には献上しなかった。忍熊王は隠れる所がなかった。そして五十狭茅宿禰を呼び出して、歌うにはいざ吾君五十狭茅宿禰たまきはる内の朝臣が頭槌の痛手負はずは鳰鳥の潜せなそして共に瀬田の済に沈んで死んだ。時に武内宿禰が歌を読んで言うには淡海の海瀬田の済に潜く鳥目にし見えねば憤しもここでその屍を探したが、見つけることが出来なかった。その後、数日が経って菟道河で見つかった。また武内宿禰がまた歌を歌うには淡海の海瀬田の済に潜く鳥田上過ぎて菟道に捕へつ冬十月の癸亥の朔甲子の日に、臣たちは、皇后を尊んで皇太后と呼んだ。それで摂政元年とした。
二年の冬十一月の丁亥の朔甲午の日に、仲哀天皇を河内国の長野陵に葬られた。三年の春一月の丙戌の朔戊子の日に、誉田別皇子を皇太子とされた。そして磐余の都を作った。これを若桜宮という。五年の春三月の癸卯の朔己酉の日に、新羅の王は汙礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智らを遣わせて朝貢を献上した。それは先の質である微叱己智伐旱を返して欲しいと思ったからである。それで汙礼斯伐が許智伐旱に指南し、神功皇后に対して嘘を奏上させるには、「使者の汙礼斯伐、毛麻利叱智らが私に、『我が王はあなたが長く戻ってこないので、妻子を没収して奴隷としてしまったぞ。』と言いました。願わくば、しばらく国に戻って、真実を知りたいのです。」と申し上げた。皇太后はそれを許された。それで葛城襲津彦を一緒に遣わせた。共に対馬に渡り、鉏海の港に宿泊した。時に新羅の使者毛麻利叱智たちが密かに船とその船漕ぎを手配し、微叱旱岐を乗せて新羅に逃げた。そこで人形を作って微叱許智の布団に置き、病気になった真似をし、襲津彦に伝えるには、「微叱許智が急に病気になって死にそうです。」と言った。襲津彦は人を使わせて病気を見させた。それで騙されたことを知って、新羅の使者三人を捕らえて牢屋に入れ、火あぶりにして殺した。さらに襲津彦は新羅に行き、蹈鞴津で泊まり、草羅城を攻めて戻ってきた。このときの捕虜たちは、今の桑原、佐糜、高宮、忍海、全て四つの村の漢人らの始祖である。
十三年の春二月の乙巳の朔甲子の日に、武内宿禰に命じて皇太子に従わせて角鹿の笥飯大神の参拝に行かせた。癸酉の日に、皇太子が角鹿から戻られた。この日に皇太后が皇太子のために大殿で宴をされた。皇太后は盃を捧げて皇太子に酒を注がれた。そこで歌詠みして申されるには、此の御酒は吾が御酒ならず神酒の司常世に坐すいはたたす少御神の豊寿き寿き廻ほし神寿き寿き狂ほし奉り来し御酒そあさず飲せささ武内宿禰が皇太子のために答歌をして申すには此の御酒を醸みけむ人はその鼓臼に立てて歌ひつつ醸みけめかも此の御酒のあやにうた楽しささ三十九年。この年太歳己未。魏志で伝えるには、明帝の景初の三年の六月、倭の女王が大夫難斗米たちを遣わせて、郡にやってきて、天子との会見を求めて朝献をした。太守鄧夏、吏を遣わせて送り、京都にやってきた。四十年。魏志で伝えるには、正始の元年に建忠校尉梯携たちを遣わせて、詔書印綬を授けて遣わせ、倭国にやってきた。四十三年。魏志で伝えるには、正始の四年、倭王がまた使大夫伊声者掖耶ら八人を使わせて献上した。
四十六年の春三月の乙亥の朔の日に、斯摩宿禰を卓淳国に遣わせた。斯摩宿禰は、どこの姓の人かは分からない。ここに卓淳の王、末錦旱岐が斯摩宿禰に告げるには「甲子の年の七月の半ばに、百済人久氐、弥州流、莫古の三人が我が国にやってきて言うには、『百済の王が東の方に日本の貴い国があることを聞いて、臣たちを遣わせてその貴い国に詣でることとした。それで道を捜して、この国に到った。もしよく臣たちに教えて道を通わせれば、我が王は必ず深く君王に感謝するであろう。』と言っていた。時に久氐らが言うには『本より東の方に貴い国があることは聞いていた。しかしいまだに行ったことがないので、その道を知らない。ただ海は遠く、波が険しい。それで大船に乗っていけば、なんとか通うことが出来るという。もし港があったとしても、船がなければどうして行くことが出来るだろう。』といった。ここに久氐らが言うには『しからば今は通うことが出来ない。それであれば一度戻って船を準備し、その後に通うことにしよう。』と言った。また言うには『もし貴い国の使いが来ることがあれば、必ず我が国に伝えたまえ。』と言っていた。こう言って帰っていった。」と言った。ここに斯摩宿禰は、お供の爾波移と卓淳人過古の二人を百済に遣わせて、その王を労らわせた。時に、百済の肖古王は大変喜び、厚くもてなした。それで五色の綵絹それぞれ一匹、そして角弓箭、あわせて鉄鋌四十枚を爾波移に与えた。さらに宝の蔵を開いて、様々な珍しいものを見せて申すには、「吾が国にはこのようなたくさんの宝物がある。貴い国に献上しようと思うが、道が分からない。そうしたいのだが、叶えられなかった。しかし今、使いに授けて献上しよう。」と申した。ここに爾波移が宝物を受けて帰り、志摩宿禰に伝えた。そして卓淳から戻った。
四十七年の夏四月に、百済の王は久氐、弥州流、莫古を遣わせて朝貢をした。時に新羅の国の調の使いが久氐と共に詣でた。ここに皇太后と皇太子誉田別尊が大変喜んで申されるには、「先の王の所望された国の人が、いまやって来ました。痛ましことです、天皇が間に合うことが出来なかったのは。」と申された。臣たち皆、悲しまない者がいなかった。それで貢物をかぞえた。ここに新羅の貢物には、珍しい物がたくさんあった。百済の貢物は少なくまた大した物がなかった。それで久氐らに聞いて申されるには「百済の貢物は新羅に及ばないのですが、どうしてですか。」と申した。答えて申すには「私たちが道に迷っていると、沙比の新羅に行き着きました。すると新羅人は私たちを捕まえて牢屋に閉じ込めました。三ヶ月を経て殺そうとしたのです。それで久氐らが天にむかって呪いを言いました。新羅人はその呪いを怖れて、私たちを殺しませんでした。しかし私たちの貢物を奪って、自分たちの国の貢物としたのです。新羅の賤しい物と取り替えて、私たちの貢物としたのです。そして彼らが私たちに『もしこの事を間違えれば、帰る日にお前たちを殺す。』と言うのです。それで久氐らはそれ恐れて従いました。そして、なんとか帝にやってくることが出来たのです。」と申した。それで時に皇太后と誉田別尊は新羅の使いを責め、さらに天つ神に祈るには、「誰を百済に遣わせれば、事の真偽が分かるでしょう。誰を新羅に遣わせれば、その罪を問わせられるのでしょうか。」と申した。それで天つ神が教えるには「武内宿禰に策を練らせよ。そして千熊長彦を使いとすれば、まさに願いの通りとなろう。」と申された。千熊長彦ははっきりと姓の分からない人である。ある伝えでは武蔵国の人であるという。今は額田部槻本首たちの始祖であるという。百済記に職麻那那加比跪と伝えるのは、もしやこれか。ここに千熊長彦を新羅に遣わせて責める理由を、百済の献上物を汚したということにした。
四十九年の春三月に、荒田別と鹿我別を将軍とした。そして久氐らと共に兵を整えて海を渡り、卓淳国から新羅を襲おうとした。時にある人が言うには「兵が少なければ、新羅を破ることは出来ない。また沙白、蓋慮を巻き込んで、兵士を出せと要請せよ。」といった。それで木羅斤資と沙沙奴跪この二人は、その姓の分からない人である。ただし、木羅斤資は百済の将である。に命じて精兵を率いて、沙白、蓋慮の軍と共に遣わした。そして卓淳に集まって、新羅を撃ち破った。よって比自ほ南加羅とくの国安羅多羅卓淳加羅七つの国を平定した。そして兵を移して西に回し、古奚津にまで到り、南蛮の忱弥多礼を葬り去り、百済に引き渡した。ここにその王肖古と王子貴須がまた軍を率いて詣でてきた。時に比利辟中布弥支半古四つの村が自ら降伏してきた。それで百済の王の親子、そして荒田別、木羅斤資らが意流村今、州流須祇という。で会談した。お互い喜んだ。礼を厚くして送った。ただし千熊長彦と百済の王だけは、百済国に行ってから辟支山に登って誓い合った。また古沙山に登って、共に岩の上に立った。ここで百済の王が誓って申すには「もし草を敷いて坐とすれば、恐れることは火に焼かれることである。また木を取って坐とすれば、恐れることは水に流されることである。このように岩の上で誓うことは、永劫にして朽ちることないという事を示している。これをもって今後は、千秋万歳に、絶える事無く、窮まることはない。いつも西蕃と称え、春秋に貢物を献上しよう。」と申した。それで千熊長彦を連れて都に戻り、厚くもてなした。また久氐を付き添えて送らせた。
五十年の春二月に、荒田別たちが帰ってきた。夏五月に、千熊長彦と久氐たちが百済から帰ってきた。皇太后が喜んで久氐に問て申されるには「海の西の様々な韓を、そして既にあなたの国を私は賜わりました。今、何かあってまたやってきたのですか。」と申された。久氐たちが奏上するには「帝の恩恵は、遠くの、そして賤しい国にまで及んでいます。私の王は喜び、踊り、しのびないようです。それで還使をもって誠意としました。何代に及ぼうとも、いつかまでも仕えましょう。」と申し上げた。皇太后が勅して申されるには「良きことですね、あなたの言ったことは。私もそうれがいいと思います。」と申された。多沙城を増やして与え、通う道の駅とされた。
五十一年の春三月に、百済の王はまた久氐を遣わせて貢物を献上した。ここに皇太后は皇太子と武内宿禰に話して申されるには「私と睦まじくする百済の国は、これ天から賜った所です。人からではありません。遊ぶ物、珍しい物が、今もなおある所です。時をおかずに、いつも朝貢してきます。私はこの誠を見ると、いつも嬉しく思います。私が行ったときのように、厚く恩恵を与えてあげなさい。」と申された。その年、千熊長彦を久氐たちに従わせて百済国に遣わせた。よって大恩を与えて申すには「私は神の示したまわれたものに従って、初めてここまでの道を開きました。海の西を平定し、百済に賜りました。今また厚く友好を結んで、長く崇め贈物をする。」と申された。この時に百済の王の親子が並び拝んで申し上げるには「貴い国の恩恵は、天地よりも重いのです。いつの日、いつの時にも、忘れてしまうことはないでしょう。聖君は上におられまして、明らかなことは日月のようです。今、私どもは下で控え、固きことは山のようです。永遠に西蕃となって、終生、背くことはないでしょう。」と申した。
五十二年の秋九月の丁卯の朔丙子の日に、久氐たちが、千熊長彦に従って詣でた。そこで七枝刀一口、七子鏡一面、そして様々な宝を献上した。そして申し上げるには「私の国の西に川があります。源流は谷那の鉄山から出ています。その遠さは、七日行っても着きません。まさにこの水を飲み、この山の鉄を取って、長く聖朝に献上します。」と申した。そして孫の枕流王に語るには「今私たちが通うところの、海の東の貴い国は、天が開きたまわれた所だ。これにより天恩を与えられて、海の西を割いて我らに賜られた。これによりて、国の基礎は永遠に固い。あなたもよく友好を納めて、国の物を集めて貢物を絶やさなければ、私が死のうとも何の恨みがあろうか。」と言った。これ以降、年毎に引き続いて貢物をした。五十五年に、百済の肖古王が亡くなった。五十六年に、百済の王子貴須が王となった。百済記が伝えるには、壬午の年に、新羅は貴い国に遣いを出さなかった。貴い国は沙至比跪を遣わせて討たせた。新羅人は女性二人を伴って、津で迎えた。沙至比跪はその女性をもらい受け、逆に加羅国を討った。加羅の国王己本旱岐と、子の百久至阿首至国沙利伊羅麻酒爾汶至にもんちたちは、人民を連れて百済に逃げた。百済は厚く受け入れた。加羅の国王の妹既殿至が大倭に詣でて奏上するには「天皇は沙至比跪を遣わせて新羅を討とうとされています。しかし新羅の女性を娶って、捨てて討とうとしません。逆に我が国を滅ぼしました。兄弟、人民が皆、さすらいました。哀しみ思うに偲びありません。それで、このようにやって来たのです。」と申した。天皇は大変怒られて、すぐに木羅斤資を遣わせて、兵を率いて加羅に集まり、その国を返したまわれたという。ある伝えでは沙至比跪は天皇のお怒りを知って、公然とは帰らなかった。そして自分から隠れた。その妹が皇居に仕えることがあった。比跪が密かに妹を使いを出して、天皇のお怒りを解けるかどうかを聞かせた。妹が夢で見たと天皇に申し上げるには「今夜の夢に沙至比跪が現れました。」と申した。天皇が大変怒って申すには「比跪がなぜ敢えてやってきたのか。」と申された。妹は天皇のお言葉を伝えた。比跪は許してはもらえないことが分かり、石穴に入って死ぬと言った。
六十四年に、百済国の貴須王が亡くなった。王子枕流王が王となった。六十五年に枕流王が亡くなった。王子阿花は年が若かった。叔父の辰斯がそれを奪い取って王となった。六十六年。この年、晋の武帝の泰初の二年である。晋の起居の注で伝えるには、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王は通訳を重ねて貢献したとう。六十九年の夏四月の辛酉の朔丁丑の日に、皇太后は稚桜宮で崩御された。時に年百歳。冬十月の戊午の日に、狭城盾列陵に葬られた。この日に皇太后を追って尊んで、気長足姫尊という。この年太歳己丑。日本書紀巻九巻