秦氏と漢氏

 渡来系の一族である秦氏と漢氏は、古事記日本書紀を通してたびたび活躍をしています。彼らがどこに登場しているかをまとめてみました。


秦氏 伏見稲荷大社、松尾大社などを建立するなど信仰に厚い民族で、現代にも続いている。

古事記

 秦氏は応神天皇の御代に渡来してきた一族。一族といっても、古事記の書きぶりからして、そんなに大人数で来日したわけではなさそう。酒の醸造に詳しかったとあり、それを天皇に献上しているので、日本の醸造方法とは違うのであろう。また仁徳記では彼らを使って工事をしているので、日本に渡ってきてから繁栄をしたようである。
 専門書を見ると、秦氏は大陸(中国)から渡ってきた一族とありますが、古事記を読む限りではそうは書いていない。

応神記 秦造、漢直のそれぞれの祖先が一緒に渡ってきた。
その中の仁番、またの名は須須許理たちが、酒を醸造を知っていた
須須許理が酒を醸して、応神天皇に献上
仁徳記 秦人を使って、茨田堤、茨田三宅丸邇池、依網池を作る

日本書紀

 日本書紀での秦氏の来日ははっきりと記載されていないが、古事記の秦氏の渡来が応神記であるので、それを日本書紀で探すと、それは応神十六年の弓月の民の来日が相当する。それが秦氏の祖先となる民族であると思われる。それを真に受ければ秦という姓は、来日後に名乗ったことになろう。秦氏の名が出てくるのは雄略十年で、雄略天皇の側に控えていた秦酒公が最初となる。公と付いているので、この時には経済的に成功している一族であったようだ。
 政治的な活躍はほとんどない。しかし大蔵省に任じられたり、調を積み上げて献上したりと経済活動には長けている。また彼らが戦闘活動に加わったのは、壬申の乱程度で、戦争行為で名を挙げようとはしなかったようである。天皇とは常につかず離れずの関係を保っているように見え、分家は多いのであろうが、皆秦姓を名乗っているのが特徴である。 

応神十六年八月 平群木菟宿禰たちを加羅に遣わせた。そして弓月の民を連れ、襲津彦と共に戻ってきた。
雄略十年十月 天皇は御田が采女を死刑にしようとしたが、それを控えていた秦酒公がとめた。
雄略十五年 の民を臣連に与え、秦造に管理させた。秦造酒が天皇に仕え、秦の民を集めてて秦酒公に与えた。
はそれで多くの優れた技能者を率いて、庸調の絹縑を献上して朝廷に積み上げ、それで姓を与えて禹豆麻佐とした。 
雄略十六年秋七月 またの民を分けて移させ、庸調を献上させた。
欽明即位前紀 幼いころ欽明天皇が夢の中で「天皇よ、秦大津父を大事にすれば、男盛りのときに必ず天下を治めることになろう。」と
告げられ、山背国の紀郡の深草里でみつけた。欽明天皇が即位するにいたって、大蔵省を任じた
欽明元年八月 秦人、漢人ら外国から帰化してきた者を集めて、国郡に住まわせ戸籍を作った。
秦人の戸籍はの数は全部で七千五十三戸。大蔵掾を秦伴造とされた。
推古十一年十一月 聖徳太子が尊い仏像を譲るという。それを秦造河勝が譲り受け、蜂岡寺を造った。
推古十八年十月 客が朝廷を拝礼した。秦造河勝たちに命じて、新羅の導人とした。
推古三十一年七月 仏像を葛野の寺に納めた。秦氏のお寺だろうか
皇極三年七月 葛野の秦造河勝が民を惑す大生部多を討った。
孝徳元年九月 古人皇子が謀反を謀る。そこに朴市秦造田来津が加わっていた。
大化五年三月 右大臣蘇我倉山田大臣摩呂が蘇我臣日向にはめられて殺される。ここに関わっていたとして秦吾寺が殺される。
斉明四年十月 斉明天皇が紀温泉に行幸した。ここで亡くなった皇孫建王を思い出して悲しまれる。
歌った和歌を秦大蔵造万里に詔して、「世間から忘れられないようにしなさい。」という。
天智即位前紀 斉明七年八月 別伝として百済王豊璋を守って送るために、小山下秦造田来津他を遣わせたという。
斉明七年十月  小山下秦造田来津他を遣わせて、軍五千余りを率いて、元の百済を守らせるために遣わせた。
天智七年九月 新羅の上臣大角干庾信に船一艘を与えるために、内臣中臣鎌足と共に秦筆たちを遣わせた。秦筆が秦氏であるかは不明
天武元年六月 壬申の乱、大伴連吹負の作戦で、秦造熊がふんどし姿で馬に乗り、寺の西の陣地の中で叫ぶ
天武元年七月 壬申の乱、吉野朝の村国連男依たちが近江の将秦友足を鳥籠山で斬る
天武九年五月 小錦下秦造綱手死亡。壬申の年の功績をもって大錦上の位を贈られる
天武十二年九月 秦造など三十八氏に姓が与えられて連となる
天武十四年六月 秦連など十一氏に姓が与えられて忌寸となる
朱鳥元年八月 秦忌寸石勝を遣わせて土佐大神に幣帛を献上した
持統十年五月 大錦上秦造綱手に姓が与えられて忌寸となる

 


漢氏

古事記

 履中即位前紀で履中天皇を救出しているので、天皇の側近として活躍した時期があった。

応神記 秦造の祖先、漢直の祖先が渡ってきた。
履中記 履中天皇の弟墨江中王が、大殿に火をつける。それを倭の漢直の祖先阿知直が連れ出す

日本書紀

 漢人の来日は二度あり、一度は襲津彦が新羅征伐で人質に連れてこられた人々であり、二度目は応神二十年に倭漢直の祖先である阿知使主と子の都加使主が仲間と共に来日したことである。一度目の漢人の祖先は新羅人であり、二度目は唐の人のようであるので、同じ漢を名乗ってはいるが、別の一族である。活躍するのは応神二十年に来日した倭漢直の祖先であろう。こちらの漢人は十七県の人々を連れて帰化しているんで、相当な人数を連れてきたことになる。
 古事記には漢直の祖先阿知直とあるが日本書紀には漢直阿知はおらず、倭漢直阿知が登場している。早くから分家が進み倭漢、東漢、新漢を中心に、高向漢、南淵漢、志賀漢、河内漢など多数の一族がある。また軍事、学問に活躍する。

神功摂政五年三月 襲津彦が新羅から連れてきた捕虜たちは、桑原、佐糜、高宮、忍海の村の漢人らの始祖である。
応神二十年九月 倭漢直の祖先阿知使主、子の都加使主が仲間十七県の人々を連れて帰化する。
履中即位前紀 仁徳天皇崩御から履中天皇即位の前までの間に、仲皇子が皇太子(即位前の履中天皇)を殺そうとし、お宮を囲んだ
倭漢直の祖先阿知使主たちが包囲されていることを皇太子に伝えた
雄略七年 雄略天皇の詔を東漢掬直を通して伝える、またその中に新漢陶部高貴がいた
雄略十六年十月 漢部の中から伴造を選ぶ。使主から直になる
雄略二十三年七月 崩御の前に東漢掬直たちに遺言を託す
雄略二十三年八月 清寧天皇即位前紀に、東漢掬直は大伴室屋大連に命じられて大蔵に火をつけ、星川皇子を殺害した
欽明元年八月 秦人、漢人ら外国から帰化してきた者を集めて、国郡に住まわせ戸籍を作った。
欽明三十一年四月 東漢氏直糖児他を遣わせて高麗の使いを呼ぶ
欽明三十一年七月 東漢坂上直子麻呂に高麗の使いの守護とさせる
敏達元年六月 高麗の使い殺害事件に、領客東漢坂上直子麻呂たちが取り調べた。
崇峻五年十一月 蘇我馬子宿禰が東漢直駒に命じて崇峻天皇を殺させる。
ある本で伝えるには、東漢直駒は東漢直磐井の子であるという。
東漢直駒は蘇我嬪河上娘をさらって妻とした。後に駒はそれが明るみに出て、大臣に殺されたという。
推古十六年九月 唐への留学生に、倭漢直福因高向漢人玄理新漢人大圀
新漢人日文南淵漢人請安志賀漢人志賀慧隠新漢人広済が選ばれる。
推古十八年十月 河内漢直贄を新羅の共食者とした。
推古二十年 百済人から新漢済文から伎楽の舞を教わり、伝える。これは今大市首、辟田首たちの祖先である。
推古二十八年十月 檜隈陵での作業に倭漢坂上直が参加、大柱直と呼ばれる
舒明十二年十月 唐の留学生高向漢人玄理が新羅を通って帰ってきた。
皇極元年二月 倭漢書直県他を百済の弔使に遣わせて、国の様子を聞かせる
皇極三年十月 蘇我大臣蝦夷入鹿臣の宮の守備に漢直がつく
皇極四年 蘇我入鹿臣が中大兄に殺され漢直が集まるが、高向臣国押に説得され解散する
大化元年七月 倭漢直比羅夫を尾張国に遣わせて、神に献上する幣帛を準備させる
大化九年九月 古人皇子の謀反計画に倭漢文直麻呂が参加
大化三年四月 工人大山位倭漢直荒田井比羅夫が難波まで溝を掘った。
白雉元年 漢山口直大口が命令を承って千体の仏像を彫った。
倭漢直県他を安芸国に遣わせて、百済船二艘を造らせた。
斉明五年 唐への使いに行った伊吉連博徳の日記の記載
 九月 乗っていた船の一艘が転覆し東漢長直阿利麻他が島に漂着
 十二月 韓智興のお供の西漢大麻呂が客をバカにした
斉明六年 唐への使いに行った伊吉連博徳の日記の記載
 十月 東漢長直阿利麻たちが唐の東京(洛陽)に到着し伊吉連博徳と合流
斉明七年 唐への使いに行った伊吉連博徳の日記の記載
 五月 智興のお供東漢草直足嶋が使いたちをだます。それで殺される
天智五年冬 倭漢沙門智由が指南車を献上
天武元年六月 壬申の乱、吉野朝の大伴連吹負が1,2人の漢直たちに作戦を伝える
天武六年六月 東漢直が七つの罪を犯し叱られる
天武十一年五月 倭漢直たちに連の姓を与えた。倭漢直たちが姓を賜ったことを喜んで帝を拝礼
天武十二年九月 川内漢直など三十八氏に姓を与えられて連となる
天武十四年六月 倭漢連、河内漢連など十一氏に姓を与えられて忌寸となる
持統七年一月 漢人が蹈歌を奏でた
持統八年 漢人が蹈歌を奏でた

 

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