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天孫降臨の神々五伴緒の末裔
神代において国譲りが完了し邇邇芸命が地上に降臨する時、天照大御神は彼に五柱の部下いわゆる五伴緒を授け、ともに天下っていきました。五伴緒とは天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命のことですが、彼らの末裔がどうなっていったか日本書紀をもとにまとめてみました。
ちなみに天孫降臨の際、五伴緒の他に常世思金神、天石門戸別神、手力男神の三柱も随行したのですが、その三柱の神については末裔が書かれていません。
忌部首 祖先神 布刀玉命(日本書紀:太玉命)
忌部の登場は意外と後の方で、それは孝徳天皇の大化元年からでした。神祭りに従事したほか、壬申の乱でも登場しています。中臣とかぶる部分も多いようです。ただ中臣の方が格が上です。
| 大化元年七月 | 忌部首子麻呂を美濃国に遣わせて、神に献上する幣帛を準備させた。 |
| 大化二年三月 | 東国からの朝集使たちに詔した中に、忌部木菓、中臣連正月の二人は罪があると指摘された。 |
| 天武元年七月 | 壬申の乱、吉野朝の将軍吹負が忌部首子人他を遣わせて古い都を守らせた。 |
| 天武二年九月 | 大嘗祭に仕えた中臣、忌部、神官他に品が与えられた。 |
| 天武九年一月 | 忌部首首に姓が与えられて連となった。 |
| 天武十年三月 | 小錦中忌部連首他に帝紀、上古のことなどを記させた。 |
| 天武十三年十二月 | 忌部連など五十氏に姓が与えられて、宿禰となった。 |
| 持統四年一月 | 持統天皇の即位に忌部宿禰色夫知が神璽の剣、鏡を献上した。 |
猿女君 祖先神 天宇受売命(日本書紀:天鈿女命)
記載なし。天の岩戸開きや天孫降臨、また地上で活躍した女神でしたが、その末裔である猿女君については何も書かれていませ。伝承が残るくらいなのだから、記紀編纂時には朝廷と関係があったのは間違いないでしょう。続日本紀以降を読めば出てくるかもしれません。
作鏡連 祖先神 伊斯許理度売命(日本書紀:石凝姥命)
記載なし。ただし、天武十二年に天武天皇が連の姓を与えられた一族に鏡作造がいました。作鏡と鏡作で漢字が反対なのですが、きっと同じ一族なのでしょう。そうであったとしてもここにしか名前がないのが寂しい。
| 天武十二年十二月 | 鏡作造など十四氏に姓を与えて連とされた |
玉祖連 祖先神 玉祖命(日本書紀:玉屋命)
玉祖は一か所だけ記載がありました。天武十三年に天武天皇より宿禰の姓を与えられたのです。
| 天武十三年十二月 | 玉祖連など五十氏に姓が与えられて、宿禰となった。 |
中臣連 祖先神 天児屋命(日本書紀:天児屋命)
中臣、即ち藤原氏なわけですが、中臣、藤原の記載は豊富で、五伴緒はつまり藤原氏のために書いたとも思えるほどです。
中臣といってもたくさんの分家があって、忌部と共に祭祀に従事した家系、使いをしていた家系、そして政治の中枢にいた家系があったのです。欽明十三年十月に出てくる中臣鎌子と、この皇極三年以降に出てくる中臣鎌子とは別人のようですが、きっと中臣鎌子という名はそこで代々継がれてきたのでしょう。中臣の中でもこの家系は、いつも政治の中枢にいる優秀な家系なのです。特に皇極天皇の時から登場する中臣鎌子が特に優秀なのです。
孝徳天皇の即位に伴って内臣という役職が新設され、ここで天皇の側近となり、天武天皇の時にいっぺんに遠ざけられた訳ですが、持統天皇の時には中臣朝臣臣麻呂が政治的な罪をかぶせられるも、それが許され政治の中枢に居続けます。続日本紀では、きっと一時期の蘇我氏を超える勢いのあった一族だったのです。
| 神武即位前紀甲寅 | 神武天皇が命じて、菟狭津媛を中臣氏の遠い祖先侍臣天種子命の妻とする |
| 垂仁二十五年二月 | 垂仁天皇の詔に、中臣連の遠い祖先大鹿嶋がいた。 |
| 仲哀九年二月 | 仲哀天皇の崩御を隠すために、中臣烏賊津連他にお宮を守らせた |
| 神功摂政前紀三月 (仲哀九年三月) |
神功皇后が神懸かりする際、中臣烏賊津使主を審神者にした |
| 允恭七年十二月 | 皇后大中姫の妹弟姫を舎人中臣烏賊津使主に迎えに行かせる |
| 欽明十三年十月 | 中臣連鎌子が物部大連尾輿とともに、仏教崇拝に反対 |
| 敏達十四年三月 | 中臣勝海大夫が物部弓削守屋大連とともに、仏教崇拝に反対 |
| 敏達十四年六月 | ある伝えに、中臣磐余連他が仏法を滅ぼそうとして寺、塔を焼き、合わせて仏像を捨てようとした |
| 用明二年四月 | 中臣勝海連が物部守屋大連とともに仏教崇拝を反対 物部守屋が狙われると聞いて、中臣勝海が加勢する |
| 推古十六年六月 | 中臣宮地連烏麻呂他が隋の掌客とされた。 |
| 推古二十年二月 | 中臣宮地連烏摩侶が檜隈大陵で蘇我馬子大臣の代わりに忍ぶ言葉で献上した。 |
| 推古三十一年 | 中臣連国が新羅征伐を推古天皇にすすめる 小徳中臣連国が大将軍に任命され、新羅征伐に出発した |
| 舒明天皇即位前紀 (推古三十六年三月) |
推古天皇の崩御の後の皇位継承で、中臣連弥気が話し合いに参加している |
| 皇極三年一月 | 中臣鎌子連が神祇伯に任じられ、それを辞退する 中臣鎌子連が孝徳天皇(即位前)、天智天皇(即位前)に接近する |
| 皇極四年一月 | 中臣鎌子連が中心となって、蘇我入鹿臣を殺害。 |
| 孝徳即位前紀 (皇極四年) |
天智天皇(即位前)が即位を勧められた時に、中臣鎌子連が相談に乗る |
| 大化元年一月 (孝徳元年) |
孝徳天皇が即位し、中臣鎌子連は大錦冠を授けられ、内臣となる |
| 大化二年三月 | 孝徳天皇の詔に背き、中臣徳と中臣連正月が指摘される |
| 大化三年 | 新羅の上臣大阿飡金春秋の来日の際、小山中中臣連押熊他を送ってきた |
| 白雉四年五月 | 唐への留学生の中に 中臣渠毎連の子安達がいた |
| 白雉五年一月 | 中臣鎌足連に紫冠が授けられる |
| 白雉五年二月 | 唐へ遣わす使いに、小乙下中臣間人連老がいた |
| 天智三年十月 | 唐の郭務悰に物を賜うため、中臣内臣(中臣鎌足)、沙門智祥を遣わせた。 |
| 天智七年五月 | 天智天皇が蒲生野で狩りをした際、内臣(中臣鎌子)他がお供した。 |
| 天智七年九月 | 新羅の上臣大角干庾信たちに船を与える際に中臣内臣(中臣鎌足)を遣わせた |
| 天智八年五月 | 天智天皇が山科野で狩りをした際に、藤原内大臣(中臣鎌足)他がお供をした |
| 天智八年秋 | 藤原内大臣(中臣鎌足)の家に落雷 |
| 天智八年十月 | 藤原内大臣を見舞うために行幸。姓の藤原氏を賜う |
| 天智九年三月 | 山御井の神等に幣帛を捧げ、中臣金連が祝詞を奏上した。 |
| 天智十年一月 | 大錦上中臣金連が命じて神事を申した。そして中臣金連が右大臣に任命される |
| 天智十年三月 | 常陸国が中臣部若子(中臣の部民)を献上 |
| 天智十年十一月 | 内裏の西殿の織の仏像の前で、大友皇子、右大臣中臣金連他が誓う |
| 天智四年十月 (天武十年、天武元年) |
天武天皇が吉野へ下る際に、右大臣中臣金連他が見送る |
| 天武元年八月 | 右大臣中臣連金が浅井の田根で斬られる |
| 天武元年八月 | 中臣連金の子他が流される |
| 天武二年十二月 | 大嘗祭に仕えた中臣、忌部、神官他に品が与えられた。 |
| 天武十年三月 | 大山上中臣連大嶋他に帝紀、上古の事を記すよう命じる。大嶋が筆を取った |
| 天武十年十二月 | 中臣連大嶋他十人に小錦下の位を授けられた。 |
| 天武十二年十二月 | 小錦下中臣連大嶋他に諸国の境を決めさせよとしたが、出来なかった |
| 天武十三年十一月 | 中臣連他五十二氏に姓が与えられて、朝臣とされる |
| 天武十三年十二月 | 中臣酒人連他五十氏に姓が与えられて、宿禰とされる |
| 持統即位前紀十月 (朱鳥元年十月) |
大津皇子の謀反発覚で、大舎人中臣朝臣臣麻呂他三十名が捕らわれた。 |
| 持統三年二月 | 務大肆中臣朝臣臣麻呂他を判事に任命 |
| 持統四年一月 | 持統天皇の即位儀式で、神祇伯中臣大嶋朝臣が天神寿詞を奏上 |
| 持統五年十一月 | 大嘗祭にて神祇伯中臣大嶋朝臣が天神寿詞を奏上 |
忌部首、猿女君、作鏡連、玉祖連、中臣連と天孫降臨の末裔たちを追ったわけですが、猿女君を除く他の四氏の共通といえるのは天武十二年なり十三年に姓を与えられて宿禰や連になったのです。その分、猿女君の記載が何もないのが気になる。
猿女の一族は天孫降臨で猿女君とわざわざ君をつけているので、朝廷も一目置くような大金持ちだったはず。それに近いのが秦氏だったのでしょう。きっと続日本紀を読むと、猿女が出てくるのかもしれません。
猿女同様、作鏡連、玉祖連だって大したことはやっていない。それにもかかわらず記紀に忌部、中臣以外の名前を入れたのは、この五氏が持っていた伝承に共通した天孫降臨の話があり、それを記紀に組み込んだという言い方が出来るかもしれません。なぜ天孫降臨の話を記紀に組み込んだのか、それは面白いからさ。
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