アメンボ

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ


 瀬をはやみ岩にせかるゝたき川の われてもすゑにあはむとそおもふ

 いきなり和歌などの引用で始まって、杜氏が血迷ったと思われるフシも多いかもしれない。杜氏の母はへっぽこな歌人である。別に佳人ではない。へっぽこな歌人の息はよりへっぽこな短歌(と呼ばぬようシロモノ)を嗜むこともあるし、いにしえの歌を味わうこともないとは言えない。昔は歌詠みがとても嫌いだったが、血統なのか門前の小僧にいつの間にかなってしまった。

 冒頭に挙げたのは崇徳院の歌で、百人一首にも残っている有名なものだ。激烈な恋の歌である。解釈などを拒絶するほど、そのイメージは鮮烈に読み手を惹きつける。「崇徳」は無論諡号である。崇徳の崇の字は決していい意味で振られるものではなかったようだ。政争に敗れ、非業の最期を遂げた皇族にこの字が諡られることが多い。誰がどう考えても不当な扱いを受け、流されたり処刑されたりしている者にこの名が諡られる傾向にある。恨みを呑んでこの世を去ったと大衆から考えられていると見ていい。その代表が菅原道真だが、彼は諡号を与えられる身分になかった。生前の道真は今で言う学研派の紳士で、とても血腥い争いなど馴染まぬイメージだ。それだけに、彼に課せられた過酷な晩年に対する大衆の同情も大きかったろうし、その恨みを恐れる群集心理も著しかったのだろう。道真は全国各地で雷神として奉られている。

 崇の字には崇高などの肯定的イメージもあるが、祟るという闇の側面もある。杜氏が少年時代に海外のホラー文学(当時はそう呼ばなかったが)に「祟り」という作品があった。杜氏はこの本を読まなかったが、いつ本屋に入っても文庫本コーナーで否応なくこの字面を目にした。買わなかったのは、怖かったせいもある。いつも目の前に現れる不吉の徴であると無意識に考えていたのかもしれない。今はホラーの古典としてモダン・ホラーの旗手であるスティーヴン・キングらに再評価され、「山荘奇談」とかいうタイトルで復刻されている。その字面には「祟り」の不気味さはなく、ついつい購入して読んでみたが、植え付けられていた恐怖心に見合う恐ろしさは味わえなかった。

 崇徳院は源平合戦の前哨戦だった保元の乱で、前帝として帝位継承争いから退かされた相手である後白河を立てる貴族、武士階級と争い、破れて流刑地に赴いた。彼の地で天寿を全うすることなく、恨みを呑んだまま亡くなっている。流された後も勝者側の代表的な人物である藤原信西入道に酷い仕打ちを受けてもいる。やはり自らも血塗られた過去を振り切って北面の武士から出家した西行法師が、その流刑地跡で崇徳院の亡霊に遭遇したという挿話がある。崇徳院の霊は信西の最後や平清盛の嫡男・小松重盛の死、それに続く平氏の悲惨な末路を、自らの祟りによって起こすことを予言したという。

 その悲運の体現者となってしまった崇徳院が百人一首に今も足跡を残すこの歌は、美しく悲しい調べを現代人にも語りかけてくる。「割れても末に逢う」というのは、上流の岩に流れを裂かれても、いずれ下流で合流するという楽観的観測では決してなく、この世では二度と相見えぬことへの覚悟が窺われる。そしてそれは諦念でもない。時空を超えていずれ違う世界に生まれ落ちても必ず遭ってみせるという強い思いが籠められている。悲運に貶められ屈辱にまみれた現世ではなく、遭う保証もない異なった次元、時間、空間で。おそらく崇徳院でなくては詠めない歌であっただろう。

 杜氏はこの歌をやや不純な経緯で強く認識している。今から二五年前、銘酒「カティ・サーク」のCMで、真野響子が艶やかな姿で切ない思いを込めて吟じていたのだ。正に得恋とは成り得ぬ恋を覚悟しつつ身を焦がす姿を、短い映像で示した名作CMだった。すっとこどっこいなプレゼントもついていて、艶消しだった記憶があるが、そンなことが疵とは思えないほどの美しい作品だった。で、以前から好きだった真野響子がますます好きになり、崇徳院の歌にも格別な思いを抱くようになった。カティ・サーク? 無論、好きである。一種の安っぽさが混入したところがいい。「蛍の光」(オールド・ラグ・ザイン)や「麦畑」に詞をつけた詩人・ロバート・バーンズのタム・オ・シャンタに登場する俊足の妖精ナニーから転じて女性の下着(シュミーズ)、風情たっぷりの帆船と味のある三題噺のようにスコッチ・ウィスキーに到達するまどろっこしさがいい。アングロ・サクソンの侵略に少なくとも屈しないスコットランドの強情さも好きだ。

 う〜ん。いつになったらアメンボウまで到達するのだろう。

 崇徳院の歌が、本人は現世での権力抗争に巻き込まれて本来高く評価されていた高潔で英明な才気を磨耗させていたのに反するかのように、透徹した美しさを醸しているのは、激しい恋の現世での成就を願っていない点ゆえである。時空を超えた成就を望む執着心すらそれゆえに哀しく透明なものと化す。いや寧ろ思いの激しさゆえに透明感はいや増す。

 とてつもなく離れた空間を隔てて、ある人と、この歌を同時に思い浮かべたことがあったとしよう。これも時空を超えた思いの結実だったのかもしれない。だが、その思いを成就させるには互いに背負っているものを一新する必要がある。人智を超えた力の導きに抗することが不可能で、それしか採るべき道がなかったとしたら、現在自らを人間たらしめてきたアイデンティティを抜本的に変える必要があるだろう。浮かぶ瀬を求めるならば、生への執着すら一旦断って身を激流に沈めなくてはならない。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

 アメンボウは昆虫類の中でどこに位置付けられるのだろう。その姿を見ただけでは想像もつかない。水を好むが水棲ではない。移動手段は主に飛翔に恃む。かといって、トンボやチョウ、ガではない。セミ、カメムシのタグイである。その名は雨が降ると水溜りに戯れる性質からきているのではない。雨は無関係である。敵に襲われると飴に似た臭気を発して逃れようとすることから命名されたらしい。つまり「飴ン棒」である。その性質は確かにカメムシに共通するところがある。でも、草食性でどこか植物的な臭気を放つカメムシと比較すれば、かなり動物的というか生命そのものの臭いに近い気がする。暢気に水面を滑っているように思えて、アメンボウはかなり獰猛な肉食昆虫でもある。水面に落ちてくるカのような小昆虫を巧みに捉えているのだろうか。
 その最も目に付く生態は、水に容易く浮いて自由に水面を渉る術である。水面と接する面となる足の裏から蝋のような物質を分泌し、水の表面張力を利用して浮くことを可能にしているらしい。撥水性の樹脂のような物質なのだろうか。普通の昆虫なら、体表面の繊毛へ毛細管現象で水が染み込み、たちまち水没していることだろう。また、いくら撥水性の物質を発していても、水面との界面となる足の裏は確かな面積を持っているのだろう。圧力は単位面積当たりの力(重さ×重力加速度)となる。点となれば圧力は無限大となる。
 少し以前なら、雨が降れば道のそこかしこに水溜りが出来て、そのどれにもアメンボウが浮いていたものだった。もし居なくても、煮干しでも撒いてやれば肉食のアメンボウ達は群れを成してそれを食らおうとしたというが、杜氏の住む地方ではそういう必要もなかった。水のある場所にはアメンボウが寄って来るのは疑う余地もない常識だった。アスファルトが都会のほとんどの地表を覆っている今、アメンボウ達はどこへ追いやられたのだろうか。
 アメンボウは陸地のみではなく、海にも棲息している。ウミアメンボウである。その体型は陸地のアメンボウとはかなりかけ離れており、普通のアメンボウを見なれた私達にはそうは同定しにくい昆虫である。

 実写の映画化もされた白戸三平の少年向け漫画作品に、放浪の少年忍者を主人公にした「ワタリ」があった。主人公の少年に従属しながら時には忍びの師として重要な役割を果たす老忍者が登場した。役名は「ジイ」であったが。括弧書きで「四貫目」とあった。体重が僅か四貫しかないかのように、水面を自由に移動するという彼の最も得意とする術からきた名だったと記憶している。だとしたら、それはアメンボウの生態から真似られた術であろう。多分、四貫目はその術を虚心の域で実現していたのだろう。自らの体重を意識したとき、微妙なバランスは崩れ、身体はたちまち水中に没するだろう。体重に揺るがない水面をイメージし続けることのみによって、術は保たれる。
 アメンボウが飛来する前の水面にも同じことが言える。そこには水があるだけだ。液体の物理的法則に従って、単純に水より大きな比重を持ったものが飛びこめば沈むに過ぎない。水面を渉るアメンボウはそこにあたかも一枚の板が渡されているかのように振舞う。だがそこに板はない。アメンボウが身を捨てるかのように空中から水面に身を委ねるという行為によって、初めて水に浮いた仮想の板が生じる。
 困難なことは困難であると思い続けて、その場に留まり続けている限り、永遠に困難なままである。奇跡のような救いの手が天から伸びてくることは極めて稀であるが、行為を起こさない限り、稀であるかどうかですら確かとはいえない。

 現世で焦がれていた女性と「逢う」ことは、かつての天皇とはいえ流刑者である崇徳院には不可能であったろう。冒頭の歌を遂げられない思いへの詠嘆、悲嘆と解釈することは容易いが、それでは理解が浅いと考えてしまう。この世ではない「末」を想定して、そこで「逢わむとそ思ふ」と強靭な意志を篭めたところに歌の透徹が初めて実現する。水に没するのを恐れて降り立つのを躊躇うアメンボウがいるだろうか。いるとしたら、それはアメンボウとは言えない。アメンボウはその行為によって初めてアメンボとなる。
 だとしたら、崇徳院の転生ではないにせよ、「末に逢ったかつて岩にせかれた水の粒子」を見出したのなら、そこに躊躇を覚えることは人の道に悖るであろう。



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