アオバハゴロモ
ありふれたものの持つ安らぎ
少し前まで癒し系がブームだったらしい。先鋭的なものばかりに常に触れていれば、それは誰だって疲弊する。「24時間戦えますか」という古いキャッチコピーは、反語的な意味合いを持つ言葉だった。24時間の戦いの連続が招くものは過労死でしかない。ただ、それを反語では済ませない雰囲気があの時代を被っていたのかもしれない。今は誰もが疲れて安らぎを求めることを咎め立てはしない。
ただ、誰もが疲弊するほど、今が先鋭的なものに溢れているのかと問われれば、それは疑問だ。高度経済成長時代、重厚長大産業が花形だった頃は、世間が抱く暗黙裡の共通な価値観も単純なものだった。「大きいことはいいことだ」それで全てが事足りた。その明快なスローガンに乗っていれば、幸福が約束されているはずだった。「はずだったがそうではなかった」などとは言わない。日本人の生活は1960年代中盤のある時点から劇的に変わった。名犬ラッシーだったか名犬リンティンティンだったかの冒頭で、「僕の家は貧乏で・・・」なるナレーションが入った。そンなことを言いながら、家には立派な冷蔵庫、洗濯機、車などの物質に溢れ、何不自由ないように見受けたばかりか、何よりも犬を飼うだけの余裕があったのだ。それを当時の日本人は違和感を以て観ていた。ところが、日本も著しい経済成長に身を委ねているうちに、いつのまにか物質文明に飲み込まれていた。アメリカの貧乏が日本の裕福に匹敵していた時代は、あっという間に後方へ遠ざかる高速道路の標識だった。それを幸福ではなかったなどとは、誰にも言えない。そういう時代が物心ついてから当たり前だった世代を除けば。
生まれついて物質に恵まれてきた世代は、それらを獲得するための競争を知らない。競争せずともそれは予め与えられているものであり、奪われる種のものではなかった。競争の必然がない世代は他から突出して自分の能力をアピールする必要もない。彼らは他からの突出を極端に嫌った。突出するものを「ウザイ」と形容し、横並びの列を乱す個を圧迫し始めた。今に至るイジメである。予定調和を逸脱する者は、彼らにとって反社会的な存在なのかもしれない。
そういうことを思うと、癒しというものの側面は、疲弊した心身を洗い流すというよりも、不協和音を徹底して排除した予定調和の世界を完結することのように思えてくる。無論、極論であろうが、それを完全に否定できる者がいるだろうか?
アオバハゴロモは一センチ足らずの小型の昆虫で、潅木の枝に群れとは言えないほどの集団で住むことが多い。多分樹液を吸っているのだろう。羽をたたんで停まったところを側面から見ると三角形になる。アオバハゴロモという美しい、ロマンさえ感じさせるような名前だが、ありふれた昆虫といえる。その名の通り羽の色や体色は鮮やかと言えなくもないミント・グリーンで、ハゴロモの示す通り飛翔力は身体の割に優れているように見える。
杜氏達の地方ではこの昆虫を「ハト」と呼んだ。由来は不明である。あまり鳩を思わせるようなところはない。一見何の変哲もない虫にしか見えない。敵の気配を感じると、停まっている枝の反対側に回って敵の死角に入ろうとする。その様はいかにも見え透いており、しかも手抜きな防御に思える。人間には間抜けな身の隠し方なのだが、外敵には案外有効なのかもしれない。スズメなどは、この虫を好んで食べるが、大概飛行中を襲われている。飛翔力では鳥には到底かなわないから、案外じっと木の枝から動かない方が得策なのかもしれない。
幼虫はやはり潅木に住むが、全身およびその枝の周辺を綿毛のようなもので包んでしまう。アワフキムシは動物の唾に似た気泡の塊の中で水分で体表を絶えず包むような幼虫期を過ごす。その泡に相当するものが、アオバハゴロモの綿毛なのかもしれない。綿毛というよりは実際には樹液から抽出した蝋なのだろう。
蝋を生産するから益虫というのは、例によって人間の身勝手な論理である。
およそ攻撃性を持たないし、防御も手抜きである代わりに、人間の子供の捕獲対象となる理由も皆無である。捕っても他の昆虫のような妙味はなく、育てても張り合いがないこと夥しい。だが確実によく見かける昆虫であるということは、現在の日本の環境にとてもよく順応し、天敵に数を減らされることなく繁殖している生物学的には強い種なのだと感じる。もし仮にこの昆虫が大繁殖しても、さして自然界のバランスに支障をきたさないようにも思える。衛生上害はないし、樹液を吸うからといって、木を枯らすほどのインパクトはない。刺しも噛みもしない。第一、大繁殖しても不快感を人間に与えない。
癒し系と聞くと、杜氏はなぜかこの昆虫を思い出す。毒にも薬にもならないが、居ても邪魔にはならない。一列になって枝に停まり、急ぐふうでもなく困ったように枝の裏に移ろうとするさまはユーモラスでもある。人間のように、他から突出してしまう個を排斥する訳でもない。ただ、それでいいのかとも疑問を感じる。種として繁栄してさえいれば。
その疑念はアオバハゴロモが、企業論理や社会常識に唯々諾々と従ってさえいれば、大過なく安定した生活が営める勤め人の習性を思わせることに起因しているのかもしれない。いわば、杜氏自身への疑念。その実、勤め人は自分の属している風土の中で、それなりにユニークな(他に代え難い)位置付けと役割とを確立してゆかなくてはならない。杜氏も杜氏なりにそう振る舞っている。日本的終身雇用、年功序列の図式の崩壊が必至であるこれからのサラリーマンライフにとって、癒し系にうつつを抜かしている季節は遠退きつつあるのかもしれない。少なくとも、高度経済成長時代はとうに終焉を迎え、社会生活に順応しつつある物質文明に予め恵まれた世代がどっぷり浸かってきた予定調和の世界は変貌の様相を呈している。
戦後復興の途上からジャパン・アズ・ナンバーワンへの過渡期に育った杜氏の世代には、アオバハゴロモを装うことは許されない。そういえば、あれほどありふれていると思われていたアオバハゴロモの姿を以前ほど頻繁に見かけなくなったと感じるのは、杜氏の観察力の衰えのせいなのだろうか。それとも・・・。
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