アオマツムシ
庇を貸して母屋を取られる
小学生の頃は雨が好きだった。水たまりに長靴で入ってバチャバチャと水をはねるのは子供の特権だった気がする。大人はなぜそンなことが楽しいのかというような顔をしてそれを見る。でも理由もなく楽しかった。同じように学校にいる間に雪が降ると、時間を追うごとに校庭が白くなってゆくのを見るのが楽しくて仕方がなかった。もっといいことは、雪が降り続くと、学校側からまだ授業が残っているのに、「もう帰りなさい」と言われることだった。残念ながら、南関東の南の外れにある横須賀では、滅多に「帰りなさい」級の雪など積もらなかった。同じ理由で台風も好きだった。亡くなった相米慎ニ監督の映画「台風クラブ」には妙な説得力があった。常ならぬ天変地異に昂揚する感覚は、若者の特権なのだろうか?
でも、杜氏の父の実家は北海道だった。道南・函館とはいえ、父は雪のネガティヴな部分を充分に知っていた。雪にはしゃいでいると必ずその軽率さを窘められた。台風も同様だ。九州四国やその近辺の離島の台風銀座と呼ばれる地域に住む人達にとって、台風で学校に閉じ込められてかえって気分が盛り上がるなど言語道断である。
でも、三つ子の魂百までなのか、常ならざるものに対する関心はどうしても拭い切れない。
ホラー映画で、最初は無視し得るようなささやかな前兆が、やがて人の力では致し方のないパニックにまで広がることがある。アオマツムシが首都圏各地に繁殖していった経緯には、それと似た図式が当てはまるかもしれない。
秋の虫の音を人間側から聞いた擬音に当てはめると、必ず変なことになる。「コロコロコロ」「リーン」「チンチロチン」「ガチャガチャ」「スーイッチョン」 どういう耳をしていたら、そう聞こえることになるのか疑問である。
アオマツムシの音ときたら、そういった人間の主観によって思い切りデフォルメされた擬音とはかけ離れている。かと言って無機的な音とも違う。夜中に中高生がたむろして騒いでいるような、明らかに生物の営みの生々しさを感じさせる騒音としか言いようがない。スポーツの審判員が鳴らすホイッスルのようだと評した人もいるが、それよりは有機的で騒がしい。もし、アオマツムシが単独で鳴いていたとしてもそうは感じないだろう。しかし、連中ときたら、かならず群れをなして鳴くのである。
杜氏がこの昆虫に初めて遭遇したのは小学校低学年のことだった。学校の裏手にあった同級生の家に遊びにいったときだったと記憶している。放課後で昼もかなり過ぎた時刻だったと思われるが、同級生の母親が未だ寝ていてしどけない姿で私達の前に姿を見せた記憶がある。自分の母親が身に着けたところを見たことがないネグリジェ姿というものであったと、今にして思う。子供心に随分退廃的な印象を覚えた。
昭和三十年代。「最早戦後ではない」と言われていた時代だ。そういうことを言わなくてはならなかったこと自体に、戦争の影響を色濃く感じる。多分、彼の母親は水商売に従事していたのだろう。横須賀は米軍基地の町となり、一ドル360円の恩恵で町の盛り場で羽振りを揮う米兵に溢れていた。それを歓待する女性達も少なくはなかった。横須賀では進駐軍時代が続いていたのだ。もっとも、米軍がいなくとも戦前は日本海軍の連中が同じ役割を演じて町を潤していたのだから、そういう感慨に意味はないのかもしれない。
横浜本牧あたりを本拠にしていた柳ジョージが幼い頃の思い出を歌った「フェンスの向こうのアメリカ」や「青い瞳のステラ 1962」を聴くと、ご同慶の至り。
その同級生の家の庭先で見なれぬ昆虫を見つけた。桃の木に止まっていたのだと記憶している。コオロギの形でよりスッキリした形状。何よりコオロギのような黒褐色ではなく、目にも鮮やかなライトグリーンだった。羽には摩擦で音を立てるのに好都合な細かい模様が刻まれ、鳴く虫であることは明らかだった。陽も高かったせいか、その虫がどういう音声を立てるのかまでは確認できなかった。ただ、よく見かけるエンマコオロギ、ミツカドコオロギ、ツヅレサセコオロギなどと比較して、洗練された印象を覚えた。かといって、キリギリス、クサキリ、ヤブキリ、ツユムシのようなバッタに近い形状で緑色の、主に野原をテリトリとしている種族とも違って見えた。樹上生活者を思わせる姿がなぜかノーブルに映った。友達の母親の登場ですっかり退廃になっていた気分がいっぺんに変わった。
帰宅して図鑑で調べると、「アオマツムシ」と同定できた。「珍しい」とある。何だか嬉しくなっていた。
時は巡り、日本は高度経済成長を遂げた。「もはや戦後ではない」とも言われなくなった。いや戦後という言葉さえ稀にしか聞かれなくなっていた。ドル・円は変動相場制に転じ、一ドル360円などは神話の世界になっていた。母国で食い詰めた横須賀の志願兵も経済的に汲々としており、居酒屋で焼酎を飲んでいた。それどころか、町で色々な悪さをするようになっており、颯爽としたところなど微塵も感じられなくなっていた。水商売従事者のおねえさん達は健在だったが、フィリピン、韓国、中国、etc.とボーダレス化が進んでいた。杜氏も彼女らに退廃を強く感じることがなくなっていた。自分自身が多少退廃に足を踏み入れていたのだろうか。ただ、そういう場所に耽溺していたのでは決してない。三月に一度くらいの頻度で友人に付き合う程度の「身分」になっていた。
その頃からだろうか。夏の終わりから秋の初めにかけて、ありとあらゆる潅木から無数の昆虫がけたたましい高音で鳴き続けるのが気になり始めたのは。アオマツムシの大群の大音声は最早季節の行事となっていた。「珍しい」という昆虫図鑑の説明はすっかり無力化させられていた。
アオマツムシは在来種ではない。戦後間もない日本の気候風土にはあまり適合せずに繁殖が思うに任せなかったに違いない。だから「珍しい」と言えたのだろう。ところが日本の経済成長と歩調を合わせるように、しかも首都圏中心にいつの間にか他のコオロギの鳴き声をかき消すかの勢いで繁殖を遂げていた。(おそらく他のコオロギは周波数特性などで、この侵略者との住み分けを支障なく行っているのだろう)
杜氏が見たアオマツムシは美しく優雅ともいえる姿形をしていた。でも、潅木から聞こえてくる鳴き声には、在来種の郷愁を誘うような幽玄さは窺えなかった。大合唱とも呼べぬ不協和音、雑音に近かった。他のコオロギの繁殖には支障がないのかもしれないが、人間の耳には決して心地よいものではない。なぜ珍しかったアオマツムシがこれほどに版図を広げたのかはわからない。多分、都市型の環境に、コオロギよりは遥かに適合していたのだろう。俗に言えば「賑やかなのが好き」だったのかもしれない。ともかく、借りた他国の庇の下でつましく暮らしていたはずのアオマツムシは、繁華街、住宅地などの人が住む地域を席巻している。
文句を言うつもりはない。それもアオマツムシの勝手である。ただ、細々と長屋暮らしをしていながら優雅な姿を見せてくれたアオマツムシがどこへ行ってしまったのか嘆くのも、杜氏の勝手と許して頂きたい。
雨も雪も台風も、心浮き立つものではあるが、度を越せば災害をもたらすものであり、その風情ばかりを愛でてもいられない。ポピュラー音楽に改革的な役割を果した(ホントに?)とされるジュディ・コリンズは「青春の光と影」でこう歌う。「ふわふわした天使の羽、空に浮くアイスクリームのお城、そこかしこに見られる渓谷。雲をそう見ていた。でも雲は陽を遮り、雨や雪を孕んでいる。やりたいことがたくさんあるのに雲は私達に立ちはだかる。私は雲を両側から見つめた。上から下から。雲は私にとって幻想である。私は雲もことが結局何もわかっていないから」
ナイル川の氾濫が人の営みに災いをもたらすのみではなく、その後に肥沃な大地を残したように、自然災害は人間にとっては災害でしかないが、自然にとっては自浄作用の側面を持つ。アオマツムシの日本の都市部での大繁殖は、たかだかこの数十年の現象に過ぎない。これが人間の自然破壊への警鐘なのか、アオマツムシ自体の生命力の証なのかは、自然が自ずと解答を下すだろう。
常ならざるものに感興を覚えるのも、人間の自然な習性。ほどほどには持ち続けていたいと感じる。