アオスジアゲハ
ありふれた幸せ?
ありふれていて、人からさして顧みられないようなものが実は素晴らしい幸福をもたらすという逸話は多く、このHPでも何度か触れたかもしれない。「幸福の青い鳥が実は我が家にいました」といった話だ。青春ドラマで、身近な異性とケンカばかりしているが、実は互いに気づかないまま(かなりその辺りには無理があるのだが)惹かれあっているという噴飯モノのよくある設定もその一種なのかもしれない。その多くのケースがありふれていると思っていたのが実は思い過ごしで、虚心に見れば身近で見慣れてはいるものの、魅力に欠けているということでは決してないということに気づきにくいという面がある。幸福とか美とか富貴とか徳とかは、漠然とした価値であり、何かとの比較でしか判断を下すことができない、相対的なものに過ぎないのかもしれない。
オサムシは地上の宝石と呼ばれる。だがそれは路傍のちっぽけな存在に視線を這わせることが出来る人間達にとってのことに過ぎない。多くの人が、触れれば悪臭を放つことが多く、腐肉や動物の死骸を好んで食べることが多いこれらの存在をおぞましいと考えている。糞虫が妙に美しいことには何度も触れたが、これらに夢中になる愛好家など、世間一般には完全に変わり者としか見なされない。だが、オサムシにしてもセンチコガネ、ダイコクコガネなどの糞虫にしても姿形だけを評価すれば、美しいことは誰にも否定などできない。
「ホテル・ニューハンプシャー」は「熊を放つ」や「ガープの世界」、「サイダー・ハウス・ルール」などの作品で有名なジョン・アーヴィングの代表作で、映画化もされた。劇中、美人とされた主人公一家の娘を演じたのがジョディ・フォスターで、熊のぬいぐるみに醜い容姿を隠しているという女芸人(?)にナスターシャ・キンスキーが扮した。ジョディ・フォスターが不美人ということはないが、ナスターシャ・キンスキーは怪人役者だった父クラウスの血を引いてか、どこか狂的なまでに美しい。ジョディがその美しさをゆえに幾度もレイプを受けたり、ナスターシャが自分の容姿を卑下するのを客観的には「逆じゃない?」と突っ込みたくなるが、この二人の演技力は「周囲がそう評価しているから自分は美人なンだ」、「自分が劣等感に苛まれているから不美人なンだ」という認識を、説得力のある形で表現している。逆のキャスティングだったら、かえってつまらなかったかもしれない。
このように人間の感覚というものは、前提条件に捉われることによって、大きく揺れてしまう。そして一旦思い込みが定着してしまったら、それを覆すのは容易ではない。
多くの動植物が、日本の都市部において生活の場を圧迫されている。高度経済成長時代の重厚長大産業による大気や河川、沿岸の環境汚染は、軽薄短小の半導体産業の寡占状態により軽減したが、都市部とその郊外からは田園は消え、むき出しの河川、湖沼などは側溝で覆われ、地表すら土からアスファルトへ変わった。氾濫を起こす川の流域、海岸線はは護岸化され、丘陵地は宅地造成に侵蝕されつつある。ほんの数十年前までありふれた存在だった生物が、いつの間にかめっきり姿を消しているケースは多い。油断しているうちに疎遠になり、音信が途絶えてしまった友人の趣きである。だが、人間が自分達だけの利害を追って変えてしまった環境に悪影響を受けない生物もいないワケでもない。しかも、例外的と呼ぶほど、少数派とも言えない。
人間が害虫扱いして目の仇にしているような昆虫は、環境変化に順応している「勝ち組」に属するだろう。存在が顕著でなければ、被害も深刻ではないワケで、戦後GHQのDDT噴霧によってめっきり姿を消したシラミの害を声高に説く人はもういない。カブトムシなども、専ら山奥で暮らしているように思われているが、人里が近くにあった方がより効率的な繁殖が為されるような性質にシフトしている。
アオスジアゲハは都市部でも依然ありふれた存在としてしたたかに生きている。幼虫の食樹はクスノキ、ニッケイ、シロダモといったクスノキ類の植物である。日本では生命力が強く、高い香気を持つクスノキは高貴な樹とされ、神社仏閣には欠かせない存在である。いくら第二次産業用地、商用地、宅地が増えたとは言っても、日本人は宗教の拠所までさして圧迫はしていない。神仏が潜むスペースは都心にも充分確保されている。徳川幕府歴代将軍の菩提寺である芝増上寺、戦没者が眠る靖国神社、護国寺、神田明神、湯島天神、恐れ入谷の鬼子母神、浅草寺、そして圧倒的な面積を誇る明治神宮外苑、皇居。また、杜氏の住んでいるような郊外でも、神社仏閣に加えて、海岸線に近い照葉樹林には、ヤブニッケイ、シロダモなどが欠かせない。アオスジアゲハにとって、少なくとも南関東は幼虫の食樹には何の障害も存在しない地域である。
アオスジアゲハは文字通りアゲハチョウに分類され、英語名でもSwallowtailが語尾につく。だが、その顕著な特徴である燕尾、Swallowtailはナガサキアゲハ、ミカドアゲハ同様、明確ではない。アゲハの一種なのか近似した別の類なのか微妙だが、台湾、東南アジアに多いタイマイに近いように感じる。タイマイとはいっても美しい鼈甲が甲羅から算出されるウミガメや、米の凶作の年に国家が利用を進める長細い外米でも、法外な出費のことでもない。日本から見れば南方系の鱗翅目昆虫のカテゴリーである。アオスジアゲハもタイマイ同様、本来南方系の昆虫であると耳にしたことがある。だとすれば、ここ数十年来の都市部のヒートアイランド化は、この昆虫にとって好都合な環境変化なのかもしれないという仮説を唱えることも可能だ。
開帳は70mm程度。大型種が多い日本のアゲハにしては小型である。飛翔力は強く、活動も旺盛、動きも敏捷である。留まっているときですら、大概翅を動かしている。小型で動きが早く個体数が多いといった幾つかの要因が、アオスジアゲハの翅の紋様に人の目が行き届かないという現象を招いている。だが、濃い褐色の地に大胆に大きく配された窓にも似た鮮やかなライト・グリーンのコントラストは、ひとたび目に留まると、日本のチョウなのか一瞬疑いを招くような美しさを醸している。しかも、南方系の昆虫にありがちなゴテゴテとした重さ、複雑さはなく、いたってシンプルなデザインである。ご近所の洟を垂らして泥だらけになって遊んでいた印象しかない娘さんが、いつの間にか女優と見まごうような姿に成長していたことに、向こうから挨拶をされた数秒後に気づくようなものだ。
活動的な昆虫である。ライフサイクルも短い。年、三、四化するようである。三化になるか四化になるかは、棲んでいる地方の気候に依存するのだろう。ヤブカラシの花に寄ってくる姿が印象的である。ヤブカラシなら到るところに蔓延しているのでその姿が人間の目に留まり易いのも道理である。だが、花ならあまり選り好みをしないらしい。カミキリムシが好むような小さな花が無数に集まった花を好むのは効率がいいからかもしれないが、アメリカイボタのような独特な臭気を発するものにもお構いなく寄ってくる。カタバミのような地表に近い低い位置で咲く花も苦にしない。これも都市部で逞しく生きてゆく要件であろう。
考えてみればイボタがアルカロイドによってイボタガ以外の昆虫を寄せ付けない仕組みになっているのは、イボタガの項でも触れた。クスノキの芳香は樟脳のような防虫効果を持つ物質の存在を示すものであるし、だからこそクスノキは高貴な樹木として神社仏閣を守っている。「となりのトトロ」が他の生物に害を為さず、寧ろそれらを護る妖怪として描かれたのは記憶に新しい。トトロも鎮守の森を長年護っているクスノキに宿る精であったことが仄めかされている。そのクスノキに葉を与えられることを許されたのがアオスジアゲハなのだから、自然からの祝福をより多く被っている存在であることは確かである。
だが、そのアオスジアゲハですら、卵から成虫へと孵化する確率は非常に低い。天敵はアシナガバチで、殆どの幼虫が捉えられ肉団子にされてしまう。人間に目に付くような存在はアシナガバチのような敏捷で貪欲な肉食昆虫にはより容易に捕捉可能であるに違いない。
アオスジアゲハは他のアゲハと比較して集団行動が目立つように見受ける。敏捷とは言え、目立つ姿をしているので、鳥などの襲撃を受けやすいのだろう。そういう場合、集団行動が他の個体を犠牲にして生き残る可能性を拡げる。よく水たまりやプール・サイドに大群で下りて、水分、ミネラルの補給を行っている姿も見られる。タテハチョウなども同じ行動を取るが、アオスジアゲハは集団行動を好むので、水分補給の光景はより印象的である。獣糞に集まってくることも多いが、これは水分は無論、ミネラルが確実に補給可能だからであろう。台湾などのチョウが多い国では、採集者が自ら脱糞して目当てのチョウを呼び寄せるような手段も用いられる。こうした昆虫の習性を汚いなどと言ってはいけない。水洗トイレの普及、下水道の整備よりも、こういったことこそが自然の摂理そのものなのだ。
人間の繁栄が未来永劫続くと思い込んでいるのは人間だけで、遠い将来の滅亡が運命付けられているように、アオスジアゲハへの自然の祝福も約束されたものではない。だが、それに値する要因を数多く備えた種であることは確かである。美しいことは美しいが、あまりにもありふれているがゆえにそれが容易に認知されないというのも、アオスジアゲハの繁栄の重大な要素であるのかもしれない。
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