アワダチソウグンバイ

立場を変えれば

 自然界に不要なものなどないのは、創造主がそう配慮しているからではなく、営々とした地球の営みが不要なものを淘汰して今に至っているからである。これまで、人類が文明を編み出した僅かな時代の遷り変わりの範囲内でも、幾多の生物が興亡を繰り返しており、それをレッド・データ・ブックに載せてコントロールすること自体が、そもそも不遜だ。
 滅びるものは滅びるべくして滅びる。地球温暖化や資源の枯渇、ウィルス性などの不自然な疾病、アレルギーの蔓延などは自然からの警鐘であり、その元凶である人間こそが、いつ排除されても仕方がない状況に自らを追い込んでいる。特定の生物達の絶滅を危惧するなど、まったくのお節介でしかなく、自らの足元を案じるべきであろう。

 道具などでも時代の変遷に連れて、不要になって消えてしまうものもある。軍配という道具は、いまや相撲の行司しか使っていない。しかも様式美の世界の産物で、機能だけなら他のスポーツ同様、旗や笛(ホイッスル)などで事足りる。
 軍配はそもそも相撲に使うものではなく、文字通り、武将が軍を指揮するものであった。武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いで、武田本陣に単騎切り込む謙信の一太刀を信玄が軍配で受け止める絵が残っていて、後世の人間には往事を偲ばせる材料になっていたりする。実際にはおそらく、大将同士が剣を交える機会などなく、謙信という人は戦にアナクロな美学を持ち込んで自己満足する人物で、信玄が人を組織的に使う為政者だったという伝承を象徴的に模式化したものに過ぎないのだろう。戦闘の現場で軍配が采配にどう使われていたかは別として、何となく軍配の果たしていた機能というのがわかる。少なくとも行司の専売特許ではない。本来別の目的に用いる軍配で我が身を守ったというのは、プラグマティストとされる信玄らしい。

 グンバイムシはその軍配に体型が似ていることから名付けられた半翅目昆虫である。世界に分布しているが、例外なく植物の葉などを吸汁して排泄物で葉を汚し、呼吸、光合成を阻害して育成を妨げる存在として忌み嫌われている。軍配に似ているなどと多少の親しみを込められている日本では、マシな扱いを受けている部類かもしれない。栽培農家にとっては駆除を以て対処するしか考えられないだろう。
 在来種でかつては普通に見られた種は、ナシグンバイだったように思える。翅の繊細な網目模様が美しかった印象がある。少年時代から杜氏が見知っているグンバイムシも、このナシグンバイであったと思われる。
 ところがここに来て、帰化種のアワダチソウグンバイが個体数を増やしているらしい。ネーミングの通り、セイタカアワダチソウに寄食するが、セイタカアワダチソウと同じように招かざる客だったブタクサをも好み、ヒマワリ、ヨモギなどのキク科植物にも食害を及ぼすという。以前から決して評判が芳しくなかったグンバイムシの旗色が益々悪化する傾向に拍車をかけている。多分、違う種類の栽培種についたものが帰化したのだろうが、やはり帰化種で隆盛を誇っているセイタカアワダチソウやブタクサに寄食して繁殖したものが、キク科の栽培種にも触手を伸ばすことになったのだろう。
 たかだが3ミリ程の昆虫だ。だが、胸の上部が外側に飛び出した突起が、この昆虫を軍配に見立て、一種の威厳を醸している。栽培農家にはとんでもないことだろうが、野外でグンバイムシの類を見かけると得をしたような気分にさせてくれる。前述したように在来種の多くは半透明の翅の支脈が美しい。だが、アワダチソウグンバイの翅は地が紫を帯びた褐色で、イワクありげな白っぽい斑点が鏤められている。それも平面的なものではなく、平面に刻まれていながら奥行きを感じさせる。何を思わせるかといえば、寝室の思わせぶりなカーテンの柄とか、悪趣味なWebサイトの壁紙である。
 このような帰化種が簡単に定着し、全国に展開しているということは、グンバイムシの繁殖力の旺盛さを示している。農薬に駆除され、大量虐殺の憂き目にあっても、世界各国でグンバイムシは強い生命力を以て生き延びているらしい。

 ということは、農家にとっては文字通りお邪魔虫でしかないグンバイムシも、何か重要な役割を担っており、必然的に世界各国で活発な活動を示しているのではないだろうか。十手や手裏剣や印籠や鎖鎌など、かつては特殊な用途を確立していた道具も今では時代劇の小道具でしかない。軍配となると、更にどう使われていたのかよくわからず、武田信玄の専売特許でしかない。だが、アトラクションの類とはいえ、相撲の行司が軍配を使うのには何らかの必然性があるのかもしれない。
 何が必要で何が不要なのか、それは人間の快・不快原則などで決まるものではない。現在の地球環境に適合するか否かで自ずと興亡が左右される。それが神の正体であり、神は必ずしも人間の利害を重視するワケではない。寧ろ逆である可能性が高い。グンバイムシの密かな反映は、人間にとっての不利益が地球環境にとっての益である可能性を強く示唆している。

 今は一種の流行で、誰もが地球環境のことを口にすれば、肯定的に受け止める。ただしそれは人間の繁栄が前提である。もしかすると、誰かが「地球に優しい」などという耳障りのいい標語を口にするとき、「(人間に優しく)かつ地球にも優しい」という意味なのかもしれない。それは本当の意味での地球環境保護とは異なる。見方を劇的に変えない限り、問題の本質は見えてこない。見方を変えないのも、人間の生物としての自己防衛本能、もっといえば利己的な遺伝子のゆえかもしれないが、そのままでは人間という地球上のひとつの種の永続は不可能であろう。
 永続する種などというものは存在しないという見方も出来るのだが。
 杜氏は子供の頃、こういうことを夜寝るときに際限なく考えて睡眠不足になっていた。自分も含む人類がいつかは滅亡することが、とてつもなく恐ろしかった。だが、杜氏という個人はいつか死ぬ。そう考えたとき、人間という業の深い種と自分の運命を切り離して考え、生き延びるに値しない存在なら滅びるのも必定と認識するようになった。そのおかげで眠れるようになった。幼稚園から小学校に上がる頃のことだった。思えば変な子供である。

 グンバイムシと人間、どちらが永く地上に残るかはわからない。殆どの人間がグンバイムシよりは長く自分達の種が永続すると考えているに違いない。杜氏には決してそうとは思えない。



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