ゴキブリ

人を戒める神よりの使者か

 インディ・ジョーンズ「魔宮の伝説」が封切られていた頃、福岡に住んでいた。勤めていたのは出版社だったが、地方自治体向けの業務用ソフトの営業先兵部隊として九州に送り込まれていた。不毛な日々だった。本来のビジネスは立ち行かず、支社の営業最前線にあって空しい売り込み活動に巻き込まれるばかりだった。
 インディ・ジョーンズ・シリーズは「魔宮の伝説」が第二弾で、最初の作品だった「レイダース 失われたアーク(聖櫃)」と比較するとトーンが落ちる印象は拭えなかった。でも、他にさしたる娯楽もなく、杜氏はそのつまらない作品を天神の映画館で三回も見てしまった。杜氏には映画を複数回見返す習慣はなく、そのようなことをしたのも「魔宮の伝説」だけに留まる。言い換えれば、日常生活が煮詰まっており、爆発寸前だった。
 その映画の中で、インドの不気味な生物の跳梁も背景として描かれている。吸血巨大蝙蝠が宙を飛び、得体の知れない虫が床を這う。極めつけは主人公達が迷い込んだ宮殿で客を歓待する晩餐。メインディッシュは猿の脳味噌の姿造りだった。その前菜に饗されたのが巨大な虫の料理で、皿に仰向けになったところを腹から蓋を開けるようにして食されていた。カブトムシなどの甲虫類だと思っていたが、あれはゴキブリだったという設定らしかった。ヒロインの隣席のインド人は旨そうに食べていたが、本当にそういった風習があるのだろうか。(でも、どうしてスティーヴン・スピルバーグの息がかかった作品のヒロインは、少女(幼女)を除いてああも魅力に乏しいのだろう? 女性が嫌いなのではないかとさえ思えてくる。女性をきれいに撮ることだけに長けると評されたロジェ・バディムと対極を成している)

 世の中にゴキブリほど忌み嫌われている昆虫があるだろうか。杜氏もこれだけは勘弁願いたいと感じる。幼い頃、近所のおにいさん達に「ゴキブリに触ると小児麻痺になる」と言われた。昭和三〇年代中盤〜後半、ポリオの恐怖は生々しかった。その恐怖が刷り込まれて現在に至っているのだが、それだけでもない気がする。
 アリマキ同様、アブラムシとも呼ばれる。体表のテラテラした印象からそういう通称がついたのかもしれない。在日の外国人がアルファベット毎に昆虫についての随想を並べた著書を繙いたことがあるが、Oの項は”O for Oil-fly”だった。無論シャレでしかなく、本当はCockroachである。メキシコ民謡のラ・クカラーチャは軽妙で明るい曲調であるにもかかわらず、タイトルの意味はゴキブリだそうだ。なるほど、冠詞のラを除けば、クカラーチャはコックローチのスペイン語読みらしいことがわかる。この曲を打席に入る際の「出囃子」にしていた大洋ホェールズ(当時)のカルロス・ポンセが気の毒である。ニックネームだったスーパー・マリオ・ブラザーズのマリオの方が数段マシだ。
 土台、ゴキブリという昆虫。その在り方の全てが不気味である。まず、色艶が不潔っぽい。何でも食べてしまう食性が卑しい。糞便までも食用にしてしまうらしい。俊敏というよりも気味が悪いほど足が速い。長い触覚の動かし方が気持ち悪い。足に剛毛というかギザギザがおぞましい。走るだけで充分逃げ足が速いのに、時折意表を衝いて飛んでみせるのが恐怖を呼び覚ます。殺虫剤をかけた際にあおむけになり、脚をジババタさせるのが往生際が悪い。叩き潰しても体内から飛び出す体液がいかにも病原体の塊のような印象を与える。頭の形も気味が悪い。平べったく、家の狭い隙間に入ったきり捕まえることもできず、始末に終えない。群をなして暗がりに潜んでいることを想像するだけで寒気がする。つまり、何から何までいいところがない。磯や海岸近くの洞窟などに潜むフナムシのことを、形状と走る速さから「海のゴキブリ」と呼ぶ人もいるが、本当のゴキブリに較べたら数倍ニートに見える。
 分類上はシロアリとかカマキリに近い。だが、大変な実害を受けようとも、ゴキブリよりシロアリの方が見た目はいい。またカマキリなど相対的にはカッコイイ方だと思わせるような佇まいだ。
 御器被りが訛ってゴキブリとなったらしい。マイマイカブリは、マイマイ(カタツムリ)を頭に被っていることを見かけるからついた名前だが、それと同じ発想の命名である。つまりはかなりの昔からゴキブリは人間の生活に紛れ込み、食器などにたかっていたに違いない。
 カブトムシは全くの自然な状態ではあまり繁殖することができない。幼虫の棲み家は野生の状態では朽ち木であろうが、それよりは人間の残した堆肥の方が効率よく育つ。ゴキブリはそれ以上に人間の生活に密着している。小型のチャバネゴキブリなどを林の中で目にしたりもするが、クロゴキブリ等の大型種はまず人家にしかいない。人の文化の発展あらずして、ゴキブリの現在の繁栄はなかったであろう。
 苦手は寒さと界面活性剤。人の住居での生活が歴史的に長かったせいか、気温が低いと生活できないらしい。ツキノワグマなどと同様、津軽海峡のどこかに引かれるブランキストン線を越えることが出来ない。因みにお仲間のカマキリも津軽海峡を渡ることができないらしい。

 先日北海道から客人を拙宅へ招いたところ、少し席を外している間に、リビングから絹を裂くような悲鳴が・・・。駆けつけてみると案の定ゴキちゃん。未知との遭遇だったらしい。杜氏も苦手なのだが、平然としているフリをして何とか退治した。死んでいるのを見たことはあるものの、実際に床を走る姿に出くわすのは初めてだったらしい。「あンなに速いの?」と驚いていた。また、意表を衝いて飛ぶことも話したところ、唖然としていた。
 最近では本州からの搬送物に便乗して北海道にゴキブリも移動することがあるらしい。ひとたび室内に入ってしまえば北海道は本州の環境より一年中暖かな暖房天国。ゴキブリも生き長らえることができるという。ただ、そういう幸運なゴキブリは数少ないと思われる。どうしても外気に晒されることになり、北国へ旅立ったゴキブリの大半が天寿を全うできすに息絶えると思われる。

 生き物は英語でcreature、創造物である。だとしたらゴキブリにも何らかのミッションを神は与えているのかもしれない。おぞましい姿や習性を持つ昆虫はほかにもいる。ただ、センチコガネ、ダイコクコガネのような糞虫の大半が宝石と見まがうかのように美しいし、シデムシの仕事である他の動物の死骸を土に還す作業は宗教的な敬虔さを感じさせる。第一、糞虫達もシデムシも自然の営みに大きく貢献している。
 だったら、あのゴキブリは何なンだろう?
 「不快害虫」に属するらしい。杜氏が聞きかじったように恐ろしい病気を媒介することも少しはあるかもしれない。でも、それよりは人間に不快の念を与える害の方が大きいのだという。そういえば以前TVCMで「アリは不快な害虫です」というコピーを聞いたことがある。杜氏は寡聞にしてアリが「害虫」であることを知らなかった。特に害を及ぼす訳でもない。極端に刺激すれば噛み付き、蟻酸で人の肌を荒らすが、それは刺激した方が悪い。ただ「アリノスコロリ」などという身も蓋もない製品に駆逐されるだけの罪科は感じない。その点、ゴキブリは「ゴキブリホイホイ」の罠にかかるのは当然だと思えるし、「ゴキブリホイホイ」では壊滅的なダメージを与えられない気がする。どこか不公平感がある。

 だが、ここに来てゴキブリの新たな脅威が警鐘として高らかに鳴り渡っている。新型肺炎SARSを媒介する可能性があるというのだ。これは由々しき問題である。ポリオもそうだが、思えばペストなどのその時代の人間が克服できない疫病を、このゴキブリは媒介してきたのではないだろうか。で、一旦それらが駆逐されれば実害の薄い不快害虫となる。
 杜氏があまりにゴキブリを恐れるので、友人は「(お前は傲慢だから)世の中に怖いものがない訳ではないことを実証する目的で、ゴキブリごときを恐れているのではないか」と指摘されたことがある。なるほど、そういうところもあるかもしれない。(こういうことを書くと、また傲慢だと叱られる) ただこの博愛主義の杜氏にして、どうしてもゴキブリだけは生理的に受けつけないことは事実である。
 人間が地球にとって最も厄介な害獣に過ぎないことは、どこかで既に述べた。杉花粉の影響もペットの路上糞害も、杉や犬猫が悪いのではなく、人間がそれらを吸収すべき地表をアスファルトで被ってしまったことに起因する。にもかかわらず、人間は「バベルの塔」のような寓話で、自然に挑戦することの愚かさを平然と説いたりしている。賢しらげな顔をしながら、「バベルの塔」の寓話に潜む真の寓意が理解されていないのだ。人間が地上のターミナル・アニマルとなったのは遠大な地球の歴史からすればほんの一瞬でしかない。このまま愚行を改めなければ、恐竜の轍どころか、存在した痕跡すら残せないまま消滅するに違いない。「風の谷のナウシカ」は決して絵空事とは思えない。寧ろ必然とも思える。

 だとしたら、この人間の感覚にとってどう見ても不気味な昆虫は人間の自然の営みを鑑みない行状を病原体の媒介によって律し、その不快な姿で戒めを促す神の使者なのかもしれない。



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