ダイコクコガネ
カブトムシのミニチュアに非ず
余談だが、迷宮を意味するラビリンスは、このラビュリントスを語源としていることが明らかである。
ファーブルによって、そのミノタウロスに準えられたのがダイコクコガネである。雄は立派な角を頭部に持ち、前胸背板、つまり胸部の上側にいかつく隆起した突起を持つ。雄の角は想像上の一角獣にも似ており、背の突起は犀を思わせる。ミノタウロスは親の因果が子に報いた怪物であり、ストーリー上は完全な悪役に過ぎないが、ダイコクコガネの造形はかなりスタイリッシュなシロモノである。カブトムシのミニチュアなどと呼ばれるが、これは雄の角と前胸背板の突起から来ているに違いない。だが、カブトムシに劣るのは大きさだけであって、造形の見事さはカブトムシを上回るように見受ける。全身を覆う光沢もカブトムシよりも数段美しい。海外産のものは青や緑、赤などの色を帯びるが、国産の黒いものでも充分に美しい。ファーブル先生には申し訳ないが、同じ神話でも、邪な存在であるミノタウロスというよりも、徳の高いダイコク、つまり大国主命の名を冠しているのも頷けるところだ。
しかし、小学校一年生で杜氏はこのようなロマンティックな響きを持つ寓話をどんな顔をして読んでいたのだろう。思い出せないが、そういう小学一年生を目の当たりにしたら、結構不気味に感じるかもしれない。
やや寸詰まりの印象も受けるが、これはセンチコガネ同様、丸っこい形状が多い糞虫の特徴かもしれない。ただ、脚を畳んでいる際にはわからないが、伸ばすと脚が案外長い。脚は外側に突起がいくつも飛び出した形状をしており、海外のスカラベのように糞玉を転がすことこそないものの、糞玉を作って土中を掘削し埋めてから産卵する際に役立つことを思わせる。そういえばスカラベは後ろ向きで糞玉を転がすこともあってか、後ろ脚が長い。ダイコクコガネの形態も必然に迫られた体型なのだろう。
センチコガネの項でも述べたが、この見事な甲虫が哺乳類の排泄物を食糧としている。センチコガネも素晴らしい造形と光彩を持った糞虫であるが、ダイコクコガネはセンチコガネより更に大型で3cm以上となり、変化に富んだ姿で楽しませてくれる。センチコガネと違って、都市部では最早殆ど目にすることが出来なくなっている。ダイコクコガネが牛馬を飼育する牧場などの容易に食糧を確保できる生活を採っているためだ。杜氏の中学生の頃まで観音崎の海っぺりには牛を放牧している農家が存在していた。だがそこも今では廃墟となり、ダイコクコガネの姿をここ何十年も見ることはない。
センチコガネはより都市型の、しかし不安定な生活を選択した。つまり、牧場のみではなく、家畜や野生の哺乳類の糞を求めて広範なアクティヴィティを保持している。このため、目にすると「珍しい」とは感じるものの、全く姿を消したワケではない。これに対してダイコクコガネのニッチは、畜産業の局所化と同調して狭まっている。ただ畜産がこの国からなくなることはおそらくないであろうから、種の存続も同時に保証されているのかもしれない。都内、または首都圏でも、品川区の大井埠頭、府中市の多摩川沿いの限られた地域、千葉の中山には多く見られるのではないかと拝察する。どうしてかって? 大きな競馬場の所在地であり、競走馬達は結構な量のダイコクコガネの餌を提供してくれるから。鹿や猿が放し飼いにされている地域にも結構見られるらしい。
だが昨今の畜産では屎尿を外に晒さず、処理してしまうことが多く、たとえ畜産農家がある場所とて、必ずしもダイコクコガネの楽園ではなくなっているらしい。
東南アジアのある地帯では、ダイコクコガネをも食糧にしてしまうらしい。いや大概のコガネムシは蒸して食糧にするのだという。極めつけは大きな(テニスボール大の)糞玉ごと市場に売りに出されていることだ。割って中で蛹化したものを食べるのだそうだ。蛹であるから消化器に食糧の消化物など残っていないが、日本人の感覚では口にすることなど難しそうに思える。何だか、エスニックな地方のグルメ旅行番組の罰ゲームに出てきそうな食材である。
ミノタウロスは邪悪な存在だったかもしれないが、自責でそうなったのではない。人間の姑息さ、狡猾さが作り上げた呪いが具現化したものに過ぎない。ミノタウロス自体に罪はないとまでいうと過言かもしれないが。ダイコクコガネやセンチコガネはそういった不自然な力による歪みによって生じたものではない。食物連鎖を終端にあり、バクテリアと共に強い動物の排泄物を大地に返す重大な役割を負っている生物だ。その生態を卑しんだり、忌み嫌ったりする人は排泄行為をしなければいい。もっとも、人間は排泄物を不自然極まりない方法で処理しており、自然界に還元していない。ターミナル・アニマルでありながら、その恩恵を土に返していないことになる。
そしてダイコクコガネはその人間の畜産という文化へとあまりに接近し過ぎたために、ニッチを狭められ生存を脅かされている。人間はダイコクコガネの命運を弄びながら、弄んでいることに無自覚である。そして、人間さえ繁栄すれば他の生物など排除することが許される(例えば特定の昆虫を人間の一方的な利害から「害虫」と見なすこと)という認識で文明を展開する。BSEもSARSも鳥インフルエンザも、マクロ的視点で捉えれば皆人間の文明の陥穽であろう。
何のことはない。ミノタウロスはダイコクコガネではなく、人間の方であると気付かされてしまう。レッド・ブックなどを作って、特定の種の絶滅を危惧したり、自然保護団体が捕鯨船の活動を妨害するような試みも、どこか本質を見誤っているように感じてしまう。レッド・ブックに載せた生物だけを保護すればいいのか、捕鯨は果たして本当に罪悪なのか(他の家畜を屠殺し食糧とするのとどこが違うのか)、疑問は付き纏う。聞けば鯨の保護の度が強過ぎたのか、世界各地でザトウクジラなど比較的小型から中型の鯨が繁殖し過ぎ、海の生態系に影響を及ぼすまでになっているという。保護という名の知られざる自然破壊。そもそも、人間は自然に対して「破壊」だの「保護」だの「汚染」だのを働きかけるだけの強力な存在ではない。そういう言葉を口にすること自体が不遜であると言わざるを得ない。
ミノタウロスである自分達に気付かぬ以上、自然は人間という生物に、かつて恐竜に下されたに違いない鉄槌を緩やかに落としてゆくだろう。
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