エンマコオロギ

数的優位性の威力

 エンマといえばフローベール作の「ボヴァリー夫人」を想起させる。破滅的な恋愛(夫人なので自動的に不倫)遍歴を重ねながら、どこか純真で生きることに真摯な人間であるがゆえに破綻してしまうエンマに同情を禁じ得ない。滅茶苦茶な話とは思ってみても、エンマ・ボヴァリーは哀切な人物である。
 閻魔は地獄の入り口に控える裁判長で、個々の死者の生前の行状についての裁定を下す。仏教における地獄の最高責任者とされる。因みに「スカイハイ」のイズコとは別人である。死さえ死ぬほど怖いのに、死後更に生前の行状を詮議されるのはとても怖い。誰しも清廉潔白に生きて来たかと問われれば、後ろ暗いことなどいくらでもある。誰の心にもそれらを詳らかにされることに対する絶大な恐怖が存在する。それを具現化したのが、閻魔大王である。ボヴァリー夫人ならお目にかかってみたいが、閻魔大王とはなるべく無縁に無条件で天国へ送り込まれたい。仏教によると、生前の詮議は十の法廷に及び、十三回忌程度の期間に及ぶそうだ。十二年も生前の悪行の数々をあれこれ論われるのは、さぞ辛いに違いない。
 その閻魔大王をコケにしたのが、マンガの原作からアニメに落とされた「おじゃる丸」である。平安時代からタイムスリップした妖精の幼児、おじゃる丸は閻魔大王の裁判に必要不可欠な杓を奪い、平成の世に逃れてきた。天衣無縫な妖精の幼児に、善悪の観念などという悟性の世界に属する規範など持ち得ない。究極の恐怖の象徴である閻魔大王さえ、おじゃる丸には、身体が大きいだけの遊び相手でしかない。杓を取り返しに遣わされた小鬼の三人組(グレムリンとは趣を異にする)も、鬼ごっこの鬼に過ぎない。
 そもそも善悪というのは拠って立つ位置を定めてこそ、初めて出現するものだ。地獄も仏教の価値観の及ぶ範囲でしか有効ではない。企業の不正が発覚すると、その事業責任者が刑事告発される。だが、仮にその人が逮捕されたとしても、当人には罪を犯した意識が希薄であるに違いない。企業人は社会通念と企業論理に二重に取り囲まれており、企業論理の方が内側に存在する膜である。内側の行動規範に沿って行動しなければ、企業人は企業内では生きてゆけない。それがたまたま社会のルールに触れる領域に逸脱してしまったということだ。
 スティーヴン・キング原作で、デイヴィッド・クローネンバーグが監督し、クリストファー・ウォーケンが主演した映画「デッドゾーン」で、主人公のジョン・スミスは交通事故で何年も昏睡状態に陥る羽目となり、奇跡的に目醒めたときにはかけがえのない恋人も他人へ嫁いでいたという更に絶望的な現状を突きつけられる。それと引き換えに、事故で機能が死滅してしまった部分(デッドゾーン)で、手に触れた人の未来を予測する能力を持つ。元恋人が選挙運動を支援するアメリカ大統領候補と握手したとき、ジョンは大統領となった未来の彼が世界を破滅に導く選択を下すイメージを明確に見る。「アドルフ・ヒットラーに第二次世界大戦前に会ったら、どうすべきか」という命題に悩んだジョンは、大統領候補を未然に暗殺することを、犯罪に問われることを承知で決意する。暗殺は大統領候補がジョンの元恋人の子である乳児を楯にしたことから未遂に終わり、ジョンはシークレット・サーヴィスに射撃される。事切れる直前に、ジョンは大統領候補の腕を掴み、乳児を楯に自らの命を守ろうとした彼の写真がライフだかタイムだかニューズ・ウィークだかの表紙にデカデカと掲載され、近い将来失墜することを悟って、安らかな表情で息を引き取る。大統領候補を演じたマーティン・シーンの演技がエグイ。
 哀切極まりない作品で、キングにとってもクローネンバーグにとってもウォーケンにとっても、最高傑作かもしれないと杜氏は感じる。
 この場合、刑法や社会常識が必ずしも善ではない。

 杜氏に言わせれば、社会通念も人間という種の利害に基づくものに過ぎず、地球全体の系に照らせば、必ずしも好ましくないものが随分ある。それを裁くのは、仏教などという狭い宗教に所属する閻魔大王などではなく、大いなる自然である。

 エンマコオロギは閻魔大王に顔が似ていることからその名がある。閻魔大王を見ることが出来るのは死者だけであるから、無論想像上の顔に過ぎない。目の周りに隈取が出来た恐ろしげな顔ではあるが、エンマコオロギの顔には愛嬌がある。他のコオロギと比較して体長2030mmと格段に身体が大きく、恰幅も立派であるから閻魔大王が引き合いに出されたのかもしれない。
 日本最大のコオロギであるばかりではなく、個体数も最も多く、日本各地に広く棲息している。鳴き音も「コロコロリー」と大きく、よく耳につく。ある意味で秋の鳴く虫の代表格と言える。音色も澄んで美しく、万人に親しまれる昆虫のひとつだ。
 叢の枯れ草が堆肥のような状態になった場所などを好む。雑食性で、特に醗酵した枯れ草が好きなのかもしれない。他の昆虫の死骸なども食糧とする。案外獰猛で、産卵のため雌は交尾後の雄を食べたりする。過密状態に陥った局所でも共食いなどによる自然のフィードバックが起きるに違いない。
 最も普通のコオロギという存在なのだが、その姿は堂々としており、鳴き音は魅力的で、見栄えのするコオロギである。触覚が極端に長く、黒褐色をしている。こういう記述をすると想起される忌々しい生物がもう一種ある。クロゴキブリである。事実、昆虫に接する機会が杜氏達より格段に減っている現代の子供達は、「コオロギなンてゴキブリみたいで気持ち悪い」などと言っている。だが、その印象には歴然と差がある。まず、エンマコオロギは家の中には滅多に入り込まない。鳴く虫の中にはカネタタキのように人家を好む種もあるが、エンマコオロギはその限りではない。それにゴキブリのように地走りをしない。強靭な後肢で跳ねるのが常で、気味の悪さは感じられない。色合いそのもの、光沢は確かに似ているが、ゴキブリ独特のジットリ感がなく、乾いた印象である。それもそのはず。濡れていては肝心要の鳴き音が冴えなくなってしまう。
 他の鳴く虫同様、エンマコオロギの鳴き音も、テリトリの確保つまり食と住という生活基盤を安定させ、配偶者を惹きつける機能を為す。エンマコオロギの繁栄も、他と比較して耳につきやすい高く大きな鳴き音に依存しているように感じてしまう。昆虫の聴覚がどのようなものか、人間には知る由もないので、確たることはわからないのだが。前肢にある耳なのであるから、人間の感覚とは全く違うことは想像に難くはない。
 個体数が多く、他の種より大きいということは、繁栄している反面、外敵からも目立つ。コオロギはただでさえペットの餌として一般的な昆虫である。腹部が充実しており、確実な栄養補給が保証されるのだろう。自然界でもコオロギを食糧源としている生物が少なくはないと想像できる。閻魔大王の名を冠して、敬意を表するなど人間だけが取る行為に過ぎない。それでも尚、エンマコオロギがコオロギ界の生存競争の王者であるのは、大きさや鳴き音の美しさといった物量で圧倒する戦略が間違ってはいないとの証左であろう。スケトウダラの卵巣が、タラコやからしめんたいこにあれほど利用されても一向に絶滅しないのと同じ理屈かもしれない。

 だが、栄華を縦にしているエンマコオロギも、現在の人間が幅を利かせている自然環境に合致しているに過ぎず、一旦生態系に重大な変化が生じても依然恵まれた条件で繁殖を続けるとは限らない。藤原道長は藤原氏の繁栄を傲慢なまでに謳歌した歌を残したが、専横が過ぎた藤原氏はその後、坂を下るように権力の座から滑り落ちた。驕れる者久しからずだ。閻魔大王とて、この世に仏教がある限り、その地獄の権力者の座は安泰であろうが、そもそも人間が滅亡してしまえば、存在が消える。
 そう思って耳を傾けると、エンマコオロギの美しい鳴き音の間からも、哀歓が透けて聞こえてくる。



Winery 〜Field noteへ戻る