エンマムシ
雑虫の逆襲
雑という字がつく言葉はロクなものがない。雑自体が、乱れて不揃いな様やその他諸々を指すのだから、それも道理だ。雑事、雑駁、乱雑、猥雑、複雑、雑踏、雑草、雑菌、雑多、雑貨、雑誌、雑然、雑記、雑煮、雑炊、雑穀、雑木林、雑巾、・・・・。まだまだありそうだ。雑草はエリートのアンチテーゼに用いられることが多く、雑草魂などと言うと、肯定的な響きを感じるかもしれない。だが、そう言った瞬間から、その人はエリートへの僻みに似たものに取り憑かれてしまうか、自身がエリートとなり果せることがその目的となってしまう。
かつて「草魂」を自身のスローガンに掲げた野球監督がいた。その人は若くして弱小球団のエースに昇り詰め、輝かしい実績を示し続けた紛れもないフィジカル面でのエリートだったが、現役生活を通じ弱小球団に在籍してきたせいか、不遇をメンタル面の強さで跳ね返してきたという自負を優先すべきと考えていたのだろう。指導的立場に立った草魂氏は配下の選手に草魂を強いようとした。結果、皆そっぽを向いてしまい、彼自身結局チームの指揮を執り続けることが不可能となってしまった。草魂氏の監督としての最大の功績といえば、当の草魂のことで意見が合わなかった投手を球団に居られないまでに追い込んだ結果、その投手を日本人メジャー・リーガーの草分けとしてアメリカに送り込んだことだろう。その球団も今年はもう存在しない。
とんねるずの木梨憲武がバラエティ番組の企画で釣りをしているのを観ていたら、外道の魚を釣り上げるたびに、「いけねェ。ベラだ!」と言いつつリリースしていた。その中には「どう見てもそれはベラじゃないだろ」という魚も混じっていた。木梨は雑魚という意味でベラという言葉を使っていたのだろう。杜氏達にとって、ベラといえば、ピンクの模様が綺麗なキュウセンであり、海辺のガキンチョの釣りでは無視できない獲物だった。食べても決して不味くはなく、美味いと言えなくもないシロモノである。だが、大人には引きも弱く、身体も小さいので雑魚扱いしかされない。餌のイソメなどをベラに食われて、あからさまに癪に障った顔をしてる釣り師は多い。
雑魚というのも悲しい呼ばれ方である。様々な使われ方をされる言葉だが、それによって表現される対象への尊敬など微塵もない。尊重されるべき存在があり、そうでないものを十把一絡にそう呼ぶのが常だ。杜氏の属していた中学の陸上競技部では競技力のある者達(その八割方が不良少年)が、そうでない者達を「雑魚連」と呼んでいた。悲しい言葉である。そういう言動を取る者は、自分達より力のある者達にとって自身が雑魚であることに気付かない。そういったことは相対的な問題に帰すのだ。ガリバー旅行記を、小人の国の章以下も読んでみるがいい。
昆虫を愛好する人間の世界では、様々な嗜好が存在する。チョウの翅の美しさ、奇妙さに惹かれる者、カミキリムシの造形の見事さに魅力を覚える者、トンボの飛翔力に憧れる者、水棲昆虫の生態をこよなく愛する者、・・・・・。センチコガネのような糞虫が忌み嫌われるかと言えばそうではなく、メタリックな光沢や頭部の奇妙な形状が一部で大変な人気を博している。悪臭を放つカメムシやオサムシ、ゴミムシの類にもマニアは多い。イモムシ、ケムシの類ですら愛好者は大勢いる。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」は宇治拾遺物語の「虫愛ずる姫君」をモデルにしたそうだが、虫愛ずる姫君にせよナウシカにせよ、単なる変わり者なのではなく、モノゴトの外見に捉われず本質を見極めようとする聡明さと叡智の持ち主である。だからナウシカは弱者、老人に上辺だけではない優しさを与えられるのだ。一方で、樹からぶら下がったケムシに肩にとまられて悲鳴を挙げるのも、真っ当な反応ではあるのだが。
つまりは殆どの虫を人は愛好する。そしてそれぞれの専門分野に応じて、「チョウ屋」だ、「カミキリムシ屋」だなどと自称していい気になっている。釣りを同じく、採集、捕獲を目的として山などに入る愛好者は、ある範囲の昆虫にしか眼中にない。そして、ターゲット以外の昆虫は雑虫と呼ばれて無視されることが多い。だが、ある一派には雑虫でしかなくとも、別のグループには宝石の如く珍重されるというのも珍しくはない。ところが、どの屋号の愛好家にも目に留まらない正真正銘の雑虫も悲しいことに存在する。
昆虫採集の王道であるカブトムシ、クワガタムシを狙う子供達にとって、カナブンなどはゴミのような存在だろう。木の皮に潜り込む小さなヨツボシケシキスイなど邪魔でしかない存在だろうし、地面から膝下までの低い空間を目まぐるしく動くキマワリなど眼中にも入らないだろう。例外はオオスズメバチであるが、それは下手をすると命を落とすことにつながるからでしかない。
少しは珍重されることもなくはないカナブンを除けば、これらは雑虫である。
エンマムシという甲虫がいる。同じ甲虫のハネカクシ類と並んで、腐食した動物性蛋白質を食糧とする、あまりぞっとしない昆虫である。エンマと言っても「ボヴァリー夫人」ではない。閻魔大王からきている。おじゃる丸に杓を奪われてしまい、悩み多い閻魔大王ではない。冷徹な終わった人生の判事である怖い閻魔だ。エンマコオロギは正面から見た顔つきが立派で怖いことからその名がある。それに対してエンマムシは、その生態から命名されているに違いない。同じ屍肉を好むのでも、シデムシは死出の旅への旅立ち辺り、エンマムシは三途の川を越え閻魔の裁定を受ける頃にお目にかかる寸法なのかもしれない。
昆虫を用いた法医学があるという。日本では未だ証拠として適用された判例はないらしい。遺骸に付いていた昆虫から、死亡時間などを推定するものらしい。まずは屍肉を掘削して進む能力を持つハエの幼虫の成育振りが取り沙汰されるが、エンマムシの存在は、腐食がかなり進んだことを意味するものである。
身体も小さく、数ミリ程度、生態も忌み嫌われるもので、糞虫のような派手さもない。雑虫として扱われるのも無理からぬところだ。いや、それどころか、そもそも視界に入らないかもしれない。腐敗の進んだ動物の遺骸を凝視する人も少ないだろう。また、遺骸を貪る姿以外の状況で遭遇しても、印象に残らないかもしれない。黒くて丸っこい身体はコガネムシを縮小した印象で、特徴がない。あえて言えば、ガムシに似ているかもしれない。エンマムシとガムシの系統関係も指摘されているらしい。平たく幅広い肢には繊毛のようなものが多く、何かに引っ掛けて進むには都合が良さそうだ。遺骸を求めて森林を移動する必要があるだろうから、おそらくゴミムシ、オサムシのように翅が退化して、前翅が開かないというようなことはないだろう。と、この程度で説明も終わってしまう。
ところがどっこい、このエンマムシ。オーストラリアの有袋類と同じように適応分散を用いて多様化しているらしい。分類学上、狭い範囲の展開と思われるのに、エンマムシ上科の下に、エンマムシモドキ科、エンマムシダマシ科、エンマムシ科の三科が存在する。驚くべきはエンマムシ科の種類の豊富さで、世界では4000種類にも及ぶらしい。精査すれば、もっと多くの種類に細分化可能であると思われる。昆虫の「新種」というのは珍しいものではなく、DNAによる分類、同定が煩わしいために、近似種が同一種として放置されていることが多いらしい。エンマムシのように目立たぬ昆虫ともなれば、そういった傾向はより強いに違いない。だが、その豊富なヴァリエーションが、どのような理由、過程で起きたのかは、学術的な研究テーマとしてはとても意義のあるものとなるだろう。杜氏が知る限り、頭部の大顎がクワガタムシのように発達してしまった種が存在するハズである。
雑虫などという不名誉な呼ばれ方は、あくまでも人間の目から見ての話である。エンマムシにとってそのようなことは与り知らぬことであり。不名誉でも何でもない。人間の興味を惹かないということは、捕獲や駆除といった不自然な干渉を受けないことを意味する。また人目につかないということは、鳥や人間以外の哺乳動物の目からも逃れているに違いない。これは生き残って、遺伝子を次世代に継承するに大変有利なポイントである。
カッコウムシというエンマムシより少しだけ生き方が積極的な昆虫がいる。カッコウムシ自体、比較的小さな昆虫であるが、より小さく弱い昆虫を捕食する。だが、目に付かぬ行動が多く、やはり雑虫とされる。よくカミキリムシの採集に山に入った愛好家が、アリモドキカッコウムシを見かけたとか捕獲したという記録を残している。カミキリムシのニッチに偶然とは呼べないほどカッコウムシが棲息しているということは、カッコウムシがカミキリムシの幼虫を食糧にしているということなのではないだろうか。
こうして雑虫と呼ばれる昆虫は、雑虫と呼ばれること自体をアドヴァンテージとして、ささやかな繁栄を遂げている。いやささやかなのではないかもしれない。明確な脅威には警戒を怠らないが、取るに足らぬと認識しているものには思いが至らぬのが世の常だ。こうした雑虫の生き方は、色々な面で示唆に富んでいるのかもしれない。
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