エゾゼミ

取り残されて


 イタリア映画「取り残されて」はよくある艶笑噺で、海上をクルージングしていた船が難破し、上流階級夫人(今ならセレブ?)と野卑な使用人だけが船内に逃げ遅れ、流れ着いた無人島での生活で力関係が逆転するというプロットを持つ。単なるエッチな噺に堕していないのは、救出され以前の暮らしに戻った際に、さて二人の関係は?、という捻りが利いているからだ。公開当時はさしたる作品とも思えなかったが、2001年だったかに、マドンナが主演して、映画監督の夫のガイ・リッチーが監督したリメイク版「スウェプト・アウェイ」があまりにスットコドッコイな作品だったので、かえって再評価されるに至った。マドンナもガイ・リッチーごときと再婚するのだったら、目下絶好調のショーン・ペンと離婚などしなければ良かったのにと思ったが、大きなお世話だろう。
 人間を含む生物は、常ならざる環境に取り残されて、本来の姿を見失ってしまうことがある。

 夏の北海道に降り立つと、首都圏のヒート・アイランド現象に晒され続けていた人間は、その外気の清涼さに驚く。街全体が冷房されている印象を受けてしまう。日差しだけが夏の明るいものであることに違和感を覚えるほどだ。それでも現地の人にとっては暑いのだと言う。先日杜氏はある同じ場所にいた知人の家を訪れた。知人もそれまで一緒にいたので、部屋は締め切ったまま真夏の熱気を封じ込めていたことになる。部屋の温度計は38℃を指していた。冷房をフルパワーに利かせて、数十分後、「ようやく涼しくなりましたね」ということになったのだが、温度計に目をやると34℃でしかなかった。人の寒暖に関する感覚など、相対的なものに過ぎない。
 その清涼感とは別に、夏の北海道の屋外にはどこか違和感がある。あって当然の空気のようなものが欠けているように思えるのだ。よくよく考えてみると、それは市街地にセミの鳴き音が聞こえてこないことだった。首都圏では未明から日没にかけて、ニイニイゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシが入れ替わり立ち代わり蝉時雨を奏でている。住宅地ではある程度の高さの樹さえあれば、そこには必ずといっていいほど数匹のセミが停まっている。林でもあろうものなら、下手をすると深夜に及ぶまで時間感覚を人家の灯火で狂わされたと思しきセミが合唱を続けている。市街地は言うに及ばず、工場地帯、オフィス街でも街路樹には容易に見つけられるほどのセミが確実におり、鳴き音を響かせている。そのありさまはB.G.M.に近い。首都圏の子供達にとって、セミ採りは安易な遊びであり、杜氏には無用な殺生に思える。もう少し見つけ出す歓び、捕らえ難いものを捕らえたときの感動がなければ、いい遊びとは思えない。あれでは殺戮に近い。
 ところが、札幌でも函館でも、市街地でセミの鳴き音を聞くことはなかった。少なくともあって当然のB.G.M.のようには聞こえてこなかった。札幌では平地でアブラゼミやエゾゼミも鳴くそうなのだが、7月の下旬、JR札幌駅から大通り公園にかけての広い道を歩く限りでは、セミの鳴き音はやはり聞こえてこなかった。多分、少し郊外へ出ればそのようなことはないのかもしれない。だが、それではニッチを探せば見つけることが出来る首都圏のカブトムシ、クワガタムシと変わらない。北海道の人にとって、繁華街でも大企業のビルの横でも平気でセミが鳴いていることの方が異常に感じられるのだろうか。

 さて、エゾゼミである。エゾというネーミングは、インディアン、エスキモー、ホッテントット、シナ、バカ、チョンと同様、非常にまずいものに思える。アイヌ、クマソほどではないにせよ。インディアンがネイティヴ・アメリカン、エスキモーがイヌイットに代わったように、本来言い換えが必要なのだろう。だが、シナチクがあるとき突然にメンマに変身したようにはいかないところがあるのだろう。エゾと名のつく生物は多岐に渉っており、足並みを揃えてエイヤで改名するワケにもいかないのだろう。だが、このエゾゼミ、ネーミングに反して、本州、四国、九州にまで棲息している。沖縄には多分いないと思われるが、北は北海道から南は九州まで網羅しているのだ。看板に偽りありである。
 多分、地球が今より寒かった氷河期に近い頃、エゾゼミは日本列島どこにでもいる昆虫だったに違いない。そして氷河期が完全に終わったとき、北海道、東北以外の平地に棲息していたエゾゼミは死滅するか、気温の低い高地へ追いやられ、結果として取り残されることになったのだろう。西日本では標高500m以上の山地でなければエゾゼミの姿は観測できないようだ。関東地方でも同様である。本州などに取り残されたエゾゼミがブランキストン線を越えようとしても、移動が可能なのは成虫の姿のみで、ご承知の通りセミの成虫のライフサイクルは短い。それに高地から低地へ降りた時点でお陀仏である。取り残されたエゾゼミは取り残されたまま過ごすしかない。
 クマゼミは本来九州中心に棲息していた種だが、こちらは地球温暖化の影響で関東地方まではかなり広範囲に活動している。南方系の昆虫にとって、今の日本はパラダイスと言えるかもしれない。個体数の増加と版図の北上が著しいアオマツムシもクマゼミと同じ恩恵がもたらされているに違いない。
 エゾゼミはセミの中でもかなりの大型種である。クマゼミより僅かに小さいが、翅端まで6.5cmにも及ぶ。関東地方の標準的な大型種であるアブラゼミ、ミンミンゼミを遥かに上回るものだ。本州の平地に展開したこれらの種は、鳥やスズメバチ、人間などの天敵に対処する敏捷さを身につける必然から、小型の個体の生存率が高かったのかもしれない。だが、山地に取り残されたエゾゼミには小型化する必然がなかった。北方系でありながら大型であるのは、太古のセミの姿を物語っているのかもしれない。
 翅は透明だ。同じく透明なミンミンゼミと比較しても、脈の網目が大型種で粗いためか、透明感はより高い。黒褐色の地に胸のオレンジの縁取り、胸の中央のW型、もしくはω型のやはりオレンジの紋様、朱色を帯びた頭部の色彩が鮮やかだ。大きさと併せて風格を感じさせる姿である。
 だが、実を言うと杜氏はこのセミを見たこともなければ、鳴き音を聞いたこともない。それもそのはず。神奈川県では箱根か丹沢にしか棲息していないようだ。箱根にも丹沢にもキャンプには訪れたことがあるが、それと特定できる鳴き音は聞かなかった。杜氏の田舎は函館だが、どうも函館の平地の市街地では滅多に鳴くものではないらしい。
 鳴き音はカタカナにしてしまうと、ギー、ギーなる身も蓋もないものと化してしまう。セミの秋の鳴く虫も、鳴き音のカタカタから実態を想像するのは至難の業で、鳴き音を知っていて初めて、カナ表記に納得するという性格のものに思える。エゾゼミの鳴き音の微妙なヴィヴラートを伴う味のあるものであるらしい。

 確かにエゾゼミは取り残された種であるのかもしれない。地理的、物理的のみならず、小型軽量化といった時代の流れからも。かつてはオーソドックスなセミの典型であったと思われる姿は、落魄してしまった世が世なら名家の令嬢の気品を想起させる。だが、セミがインターネットでボーダレス化した世界を股に掛けるワケでもない。取り残されたエゾゼミにとっては、山地が世界の全てであり、大きな姿でも充分に生き延びていけるのだ。同情したり、上記のような妙に擬人的な比喩にその生態を準えるのは、人間の勝手にほかならない。
 それにしても、北海道の夏に蝉時雨は降らないものなのだろうか。清涼感に安堵して一息つくと、寂寥感のようなものに見舞われる杜氏なのであった。



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