フクラスズメ

幼少の頃と性格一変

 社会で生きてゆくには、時に本来の性格からの変革を迫られることがある。自分自身に周囲を都合のいいように変えられるだけの力量があれば、その必要もないのだが、往々にしてそうではないことが多い。だから自己改革セミナーなどが新興宗教やよからぬビジネスと結びついていることがわかっていながら、それに頼る人々が後を絶たない。ところが人間それほど簡単に本質を変えられるものではない。「三つ子の魂百までも」という格言はダテではない。「雀百まで、わしゃ九十九まで」というジョークもあるはあるが・・・。
 さて、その雀である。身体の小さな雀は厳しい冬の寒さを凌ぐ手段として、全身の羽毛を逆立てて、身体を膨らませるようにすることがあるという。この動作をフクラスズメと呼ぶらしい。自前のダウンジャケットである。ヤガ科の一種にフクラスズメがある。群れを成して越冬する様が、この雀の行為に似ていることからそう命名されたらしい。羽をたたんだ止まり方が、大きな鏃に似た、開帳7080mmの中型のガである。北海道から八重山島まで極普通に見られる種で、灯火にも寄ってきてじっと動かない様子はお馴染みである。だが、灰色がかった褐色と黒褐色の模様のとても地味なガであるので、人に与える印象は薄いかもしれない。典型的なガであり、一部の人には気味悪がられているかもしれない。
 このように生態からスズメの名がついているに過ぎず、スズメガとは無関係である。あのような尾がシャープに尖った流線型ではなく、ガとしてもかなり太く厚い胸、胴を持つ紡錘型を成す。スズメガの類は花から吸蜜するため、ハチドリのようなホバリング機能を持つ翅は特徴であるが、フクラスズメにはそういった気の利いた翅はない。
 ただ、晩秋から早春まで活動を休止して生き延びる長寿は、鱗翅目昆虫らしからぬ特長とも言える。成虫はカブトムシなどと同様、クヌギ、コナラ、ミズナラ等のブナ科植物の樹液を食糧としている。いわゆる樹液バーはテリトリ獲得競争が激烈な場でもあるが、小型のヨツボシケシキスイなどと同様、フクラスズメも木に止まってしまえば周囲の樹皮と見分けがつかないほど目立たない外見によって、隅の方でつましく栄養補給しているのだろう。活動的な印象はまるでないので、エネルギーもさして使う必要がないとも感じる。
 夏と秋の年二回発生。二化型である。秋型が越冬することになる。東南アジア、インド、中国、朝鮮半島、沿海地方など、分布はとても広い。

 このようにとても慎ましやかな昆虫なのであるが、幼虫は成虫とは似ても似つかないライフ・スタイルを持っている。
 まず、形態、色彩が全く違う。イラクサ、カラムシ、ヤブマオ、ラセイタソウなどのイラクサ科植物を主な食草とする幼虫は終令の体長が70mmにも及ぶ大型の毛虫で、毒々しいまでに派手な色彩を持つ。頭と肢が橙色、全身の地が淡いクリーム色がかった黄緑。体側の黒い線には六、七個の蛇の目が入っている。例によって鳥などの天敵をたじろがせるサインであろう。背中にも黒い横縞が細かくあしらわれている。生活形態によって色は異なってくるらしく、地が黒のヴァージョンもある。群れの密集度によって体色が異なるようだ。大発生することもあり、食草を茎を除いて皆貪りつくしてしまうことも珍しくはないらしい。イラクサはちょっとした藪になら普通に生えているので、フクラスズメが普通種であることも充分に頷ける。
 背に規則的に生えている毛は、いかにも毒々しいが、無害であるそうだ。刺激に際して、肢と上半身の義肢を掴まっている葉や茎から外して身体を反らせ、フリーになった上半身を左右に激しく振って威嚇する習性がある。また更なる攻撃には、口から緑色の体液を吐いて対抗する。色彩も華やかだが、示威行為も目に付く。これだけ派手なパフォーマンスを示しても、見かける個体数が多いということは、鳥などの天敵に対しても威嚇行動が有効に働いているのだろう。
 終令に達した幼虫は、やがて動きが鈍くなり、身体を少し萎めつつ蛹化する。地面に落ちた枯葉で繭を作るそうだ。この繭が一見脆そうで接合部などはかなり堅牢であるらしく、繊維を糸にも利用するイラクサを食草にしている理由が仄見える。
 ほどなく、蛹は羽化のときを迎え、幼虫時代からは想像も出来ない大人しく地味な姿のガとなるのである。非行に明け暮れた少年時代を恥じて、ひたすら品行方正に努める更正者の如きである。人間の場合はよほど大きな転機がない限り、こうも豹変は出来ない。人間は昆虫でいえば不完全変態であり、少なくとも形態から見れば大人が小型になったのが子供である。だが、鱗翅目昆虫は幼虫、蛹、成虫と全く独立しているかのような生活史を持つ。アリに甘い体液を振舞いながら、裏で卵や幼虫を貪る悪辣な侵入者である幼虫時代から、可憐な姿で吸蜜に花から花へと飛ぶクロシジミのように、この種の豹変は形態の差異に多く依存しているようにも見える。
 灯火に寄ってくるフクラスズメをよくよく観察してみると、翅の先がギザギザにささくれていたり、鱗粉が剥落していたりする個体が多い。一般に鱗翅目昆虫は羽化後長くは生きられない。せいぜいが十数日の寿命で、成虫になってから十日も過ぎれば、翅の傷みが目立ってくる。頑丈な身体の構造を持ち、そもそも鱗粉などという不要な厚化粧をしないアサギマダラは群れで長距離を移動する「渡り蝶」であり、長期間の風雪に耐えることが可能だ。同じく身体の構造が丈夫であることで知られるタテハチョウの類、例えばアカタテハ、キタテハ、クジャクチョウなども越冬する種だ。しかも、フクラスズメのように群れで冬眠するかのように活動を停止して寒さを凌ぐのではなく、単独で飛び回り、天気のいい昼下がりなど石の上で日光浴をしていたりする。冬を越えたこれらのチョウの翅はやはりボロボロであるが、マニア達はその頑健さを称え、尊重したりもする。
 フクラスズメはおそらくアサギマダラやタテハと違って、翅の強さは備えてはおらず、活動量をひたすら抑え効率化することで、長寿を永らえようとする性格を持つのだろう。灯火に寄ってはきても、他の昆虫のように光源の周りを旋回するようなことはせず、壁や天井に印象的な鏃の形でへばりついたたまま、死んででもいるかのように動かないことが多い。だから余計に気味悪がられもする。そういう不活性な行動に徹してすら、翅は自ずと磨耗してしまうのだ。
 こうしてみると、幼虫であろうと成虫であろうと、行動原理の源にあるものは同じように思えてくる。生き延びて生殖行為にまで辿り着くことだ。幼虫は無防備で何もしないと徒に鳥などの餌食になるだけだ。だから、派手な色彩で奇矯なパフォーマンスを試みてまで、敵を欺こうとする。翅という消極的な武器を持ちえた成虫は、ある程度敵を避ける術を持つようになるが、それを最小限の活用に留めることで細々と命脈を保とうとする。
 生物の生態を擬人的に捉えるのは妥当ではないと、何度も記しているが、人間に喩えるとこういうことではないだろうか? 世間というものを知らない子供の頃はさんざんイキがって悪さをし続けてきた人間が、社会の冷たさ、厳しさ、世知辛さなどの壁にブチ当たり、意のままに行動出来なくなって権力者や資産家に媚び諂わなければ生きられなくり、「オレも昔は悪かった」などと呟いてみても、周囲からはすっかりただのくたびれたオジサンにしか見えない。「オレもすっかり丸くなった」なり「昔はヤンチャしてた」などと言うモノイイほど空しいものはない。今はそうではないのだから。だが、フクラスズメには長い冬を生き長らえて再び春を見るという目標があるだけ、元気をなくした元不良少年のオヤジよりマシなのかもしれない。

 人間はなかなかいい方向に自分を変革して成長することが出来ない。どうしても生来の性質に行動、言動が依存してしまう。だが、変わらなければ生存すら脅かされたり、愛する者を失う羽目になったら、人間も必死に変わろうとするし、そうなることも多い。イスラム教の「法か、剣か、コーランか」である。構造解析でいう強制変位である。
 つまりはフクラスズメの極端なまでの豹変の正体がそこにある。



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