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どこにでも不器用なヤツというのは存在する。小学校の図画工作で、一人だけ皆と同じように出来なかったり、右向け右で一人だけ無意識に左を向いていたり、幼稚園のお遊戯でどうしても保母さんの真似が出来なかったり・・・・。ヤケに詳しいッて? 私がそういう子供だったからだ。
たとえば幼稚園で皆と弁当を食べているときでも、杜氏はボォッとしていた。で、何を考えているかと言えば、「ボク達はものを考えたり自分が誰かを意識して行動するけど、この机や椅子や弁当箱はそうじゃない。いったいどうして人間は(動物は)タマシイみたいなモノを持っていて、それはどこから来たンだろう?」 無限の疑問符が杜氏の頭に渦を巻いていたのだ。でも、外から客観的に見れば、食べている弁当を前掛けにポロポロこぼしている注意力に欠けるバカそうな幼児に過ぎなかった。学芸会などでそういう劣等児に回ってくる役は「へいたいその3」ぐらいなものだ。でも、杜氏は自宅で劇全体の台本を諳んじられるほどの(ムダな)力を示していた。内弁慶ならぬ内神童。
でも顧られることなどない。
水棲昆虫は意外と数が多く、多様な性質を見せてくれて観察するに楽しい。水中に順応するために呼吸、泳法、食餌獲得などで陸にはない変わった習性が求められるのかもしれない。コオイムシの雄の背中での卵の保持やアメンボの水上歩行、マツモムシの高速な背泳などを思い浮かべて頂くとわかりやすいだろう。
有名で象徴的な水棲昆虫といったら、タガメかゲンゴロウだろうか。タガメは水中の殺戮者として名高く、大きな蛙も捕らえて血を吸ってしまうほど捕獲能力が高いが、昨今棲息地を狭められ数を減らしていると聞く。ゲンゴロウはとても姿形がよく、見るからに泳ぎが巧みそうだ。種類のバリエーションも豊富で、その体型が水棲にとても適していたことを証明いている。当時が小学生の頃、プールで泳いでいると水面ギリギリの空中を滑走してプールに飛び込み、私達の泳いでいるプールで共に遊ぶことも多かった。これは高い飛翔能力と自在に移動可能な機能性を示している。
ところが、ゲンゴロウと極めて近い同じ甲虫類で同じような黒い昆虫なのに、なぜこれが水棲昆虫なのか訝らざるを得ない種もいる。ガムシである。杜氏はある大きな電機メーカの社員寮に住んでいた。賃貸料は月五百円。当時はラーメンが一杯五〇円くらいだったろうか。それにしても破格に安かった。その寮の広い庭の片隅に「防火用水」があった。火事があった際に放水する水を貯えた大きな水槽を想像してもらえればいい。火が出て初めて消火に使われるのであり、火を防ぎはしないのだが・・・。
とにかく、その防火用水が本来の目的に使われることは幸いにしてなく、周囲にはいつも草が生い茂り、水槽自体は水草や水棲昆虫、蛙などの動物の棲息地を提供していた。鉄格子で取り囲まれていたが、鉄格子など子供達にとって「乗り越えてください」という信号のようなものだ。杜氏達はそこに忍び入っては「水中でも爆発する火薬」という触れこみの2B弾などの実験を行っていた。
当時の消防法では、何百人以上の集合住宅には消火用の水槽が必要という規定でもあったのかもしれない。無用の長物とはこのことだが、杜氏達には格好の遊び場だった。
ある日、杜氏はたまたま一人で防火用水の鉄格子を乗り越え中に入った。足を下ろした叢に何かががさごそとうごめいている。黒い。「これはカブトムシか、クワガタか!」 杜氏は色めき立った。ところが叢から出てきたのは大型のコガネムシとしか思えない、見知らぬあまり格好が良くない甲虫だった。何か陸を歩くのもドタバタした感じで、控え目に言っても器用そうではない。図鑑に精通していた杜氏はしばらくして、それがガムシであることに思い当たった。だとしたら危険はない。私は不器用に歩くソイツを難なく掴まえ、シゲシゲと見た。ゲンゴロウなら肉食昆虫であるから、捕食の為に大顎が発達しており、人が噛まれることもある。なるほど、手に取ったガムシはバタバタ逃れようと暴れるものの武器らしい器官を持っていない。ガムシは明らかに水棲昆虫であるという知識を、杜氏は持っていた。だったら、水の中でこの虫はどう振舞うのだろう。
杜氏はガムシを防火用水に離してみた。ソイツは陸上と同じように非効率に足を動かして泳ぎ始めた。泳いでいるというより溺れかけているようにすら見えた。そしてゆっくり姿を消していった。水に落ちたコガネムシとしか思えなかった。
ガムシは多くの昆虫同様、灯りに集まってくるという。だとしたら、飛ぶことも出来るだろうが、歩行、水泳同様、飛翔もあまり得意とは思えなかった。
進化の過程で本当にコガネムシが水に落ち、水の中にいることに大きなメリットを見出し、ガムシとなったのだろうか。また、あのスマートなゲンゴロウは水で生活するためにガムシが最適な形状を得た姿なのだろうか。つまりガムシは水に落ちたコガネムシからゲンゴロウに推移する過渡的な姿なのだろうか。しかし、ガムシを何十、何百世代も育て続けたところでゲンゴロウに姿を変えるワケではない。どう見ても歩きも、泳ぎも、飛翔にも適してはいなくても、ガムシにはガムシの姿でいる必然があるのだ。
醜いアヒルの子の寓話は有名だが、大概の醜いアヒルの子は醜いアヒルの親にしかならない。トンビが鷹を産むことだってそうはない。あるとしたら、親が自分がトンビだと思っている鷹だっただけのことだ。
冒頭に触れた不器用一直線の深遠なことなかり考えていた幼稚園児のなれの果てがこの杜氏である。内神童の成長した姿としては不足だろうが、幼稚園の保母達が見ていた低能児としたら充分な成長かもしれない。世の中は案外公平に出来ている。
不器用でしかないガムシにもガムシなりの存在価値があるのだ。今にガムシがゲンゴロウにとって代わる時代も・・・・来ないだろうなァ。でもガムシだって捨てたモンじゃない。
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