ゲンゴロウ

水、陸、空の元気者

 小学生時代、国語の教科書に源五郎鮒の由来のエピソードが載っていた。源五郎という男が鮒になってしまう寓話だった。ユーモラスな寓意がこめられているとはいえ、人間が他の動植物にメタモルフォーゼして(されて)しまうエピソードは恐ろしかった。ギリシア神話あたりではいくらでも変身譚には事欠かないが、たとえば水仙になったナルシスの話だって、杜氏には恐ろしかった。
 昆虫のゲンゴロウと源五郎鮒に関連があるのかどうかはしらない。同じ水棲の生物なのだからきっとあるのだろう。鮒にされた源五郎と虫に変わった源五郎では、別人なのかもしれない。ゲンゴロウの類は比較的繁殖力が強いとみえて、人の生活圏の近くでも容易に見られる。杜氏が幼かった頃、プールで泳いでいても、縁取りや斑点がついた小型のゲンゴロウがどこからともなく飛んで来て、子供達と一緒に泳いでいた。同じ水棲昆虫で、ゲンゴロウよりはよほど強そうな外見を持つタガメが生活圏を極端に圧迫されているのとは好対照だ。プールの消毒用の塩素がきつい水にも、ゲンゴロウ類は簡単に順応する。
 ただ杜氏達がよく目にしたのは二センチにも満たないような小型のハイイロゲンゴロウやヒメゲンゴロウであることが常で、ゲンゴロウの中でも世界最大と言われる5センチ近くにもなる普通のゲンゴロウには滅多にお目にかかれなかった。ゲンゴロウはゲンゴロウの中でも偉容を示しており、プールなどには軽々しく飛び込んでは来なかったのだ。

 分類上、鞘翅目の中でも食肉亜目に属する。その名の通り肉食で他の水棲昆虫、オタマジャクシ、カエル、メダカなどかなりの広範囲の生物を補食する。死肉も漁る。飼育する場合、煮干しやシラス干しなども食べるらしい。流線型のいかにも泳ぎに適した体型を持ち、実際に大変な運動量を誇るらしい。従って食欲も旺盛だという。似たような黒い鞘翅目の水棲昆虫であるガムシが徹底して鈍重で不器用で草食性であるのとは対照的である。
 他の水棲昆虫によく見られるように、お尻を水面に出して呼吸も出来る。また後ろ脚はマツモムシ(英米名、ボートマン)のように、水を掻くオールのような形状と機能を持っている。とても洗練された水棲昆虫と言うことができるだろう。
 水中での活動も活発であるが、夜になればよく飛ぶし、陸上でも活動する。水中はゲンゴロウにとっても豊かな食糧の宝庫であると同時に、微生物や黴などにとっても棲息の適地である。ゲンゴロウは羽の内側に着いてしまったそれらを虫干しするらしいのだ。虫にも虫干しが必要と言うことだ。日光消毒の効能なのだろう。また、夜電灯などに飛来するのは、天敵であるサギ類などの水鳥から逃れる効果もあるらしい。
 セミの「短命」に象徴されるように、大抵の昆虫にとって成虫とは自分達に準えて大人になった姿との推察は人間の勝手な見方に過ぎず、実際には婚姻(生殖)を目的とした姿である。従って、多くの昆虫は生殖/産卵を終えると死んでしまう。成虫の姿は寧ろ花嫁(花婿)衣装であると同時に死装束なのである。ところが、ゲンゴロウは長命である。一シーズンで死ぬことはない。成虫の姿で少なくとも一回は越冬する。2〜4年の寿命があるそうである。これは陸に棲息する鞘翅目で、やはり頑丈な身体と屈強さを身に着けた大型のクワガタも同じである。生殖の機会も多くなる訳で、明らかに進化した形態の甲虫と言えるだろう。

 やはり棲息地を圧迫されているのは事実のようである。ゲンゴロウが繁殖するには、川床がコンクリートではない湖沼が必要である。卵を育むのは水底に根を張った水草の温床であるべきだからだ。都市部の河川はほとんど氾濫を未然に防ぐ為に護岸化されてしまった。いや、それどころか、町中の川は殆ど下水道化され、どぶ川すら目にすることができなくなっている。側溝やマンホールの下の暗い地下を水は巡っている。昔はきたなく見えようとも、どぶ川は人間にとって可視な状態で存在しており、ザリガニや淡水性のカニ程度は住んでいたものだった。そして川は夏の過熱した町並みを冷却する役割を果たしていた。ゲンゴロウが棲めないばかりではなく、人間は居住空間を安全に確保する浅薄な対策により、自分達に降りかかる根本的な環境破壊を平気で続けている。
 都心には意外と自然が残されていると言われる。確かに航空写真で見れば緑の多さが目立つに違いない。それには理由がある。皇居、外苑、明治神宮、新宿御苑の存在である。つまりは不可侵領域があるから緑が確保されている。だとしたら、皇居の濠はどうだろうか? 杜氏は飯田橋駅近くの大学に通っており、飯田堀から市ヶ谷に掛けて中央線沿いの外濠には白鷺が群れていた。しかし、都市再開発の展開は急で、飯田橋から水道橋に掛けての濠は地元住民の反対運動空しく商店街へと化していった。そこに連なる神田川もお茶の水近辺では完全な護岸となっているようだ。北の丸公園などの内濠の底が土であるかは定かではないが、おそらく違うだろう。これでは都心にゲンゴロウの姿が見られないのも無理はない。

 人間にしても昆虫にしても、他の動物にしても、陸で生きることが出来るのは魚類でないものには普通のことだ。そこを更に水中で生きられることは生物としての差別化ポイントであるはずだった。それを人間の浅薄な利己主義が破綻させてしまった。いや、破綻などしていないのかもしれない。自分達の目に触れることが少なくなったことから、人間はゲンゴロウの不在を惜しむが、それまでも人類の傲慢なのではないかと思える。ゲンゴロウは人間によって生活環境を脅かされたものの、普通に生活できる人の棲まない地域に一時的に疎開しているだけなのかもしれない。そして、ジッとそこから人間が自滅するのを待っているのではないか。一時的というには長過ぎる疎開期間ではあるが、悠久の地球史からすれば、恐竜時代にせよ、中国ン千年の歴史にせよ、一瞬のことに過ぎない。
 ゲンゴロウのニートな姿形はファンが多く、飼育種としても珍重される。煮干しかシラス干しをやっていればいいのだから、餌にも困らないし、長く楽しむことができる。何代か続けて育てることも容易い。だが、杜氏には自然の湖沼を敏捷に動き回り、精力的に飛翔し、陸でも活発に活動するゲンゴロウに優るものはないと思っている。

 もし、ゲンゴロウが人間のメタモルフォーゼしたものだとしたら、元は陽気で元気のいいおにいさん、おねえさんだったろう。そして空気のいい土地の恵み豊かな水の中で人間の愚考に同情しながら、泳ぎ回っているのかもしれない。



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