ゴマダラチョウ
存在の耐えられない・・・
「セカチュー」などと聞いて、映画のタイトルにもなった小説の名を正確に連想することが出来る割合は、今、八割方を占めるかもしれない。過半数を超えたとき、多数派が少数派を圧倒するようになるのは、人間の宜しくない性質のひとつだ。意味の通らぬ省略など上品な振る舞いとは言えない。今年は万年不況業種である出版業界も上向き傾向を示しているという。その「セカチュー」や「蹴りたい背中」などのベスト・セラー主導の現象らしい。「ノルウェイの森」が売れたときと似た現象だ。そもそも「ノルウェイの森」というのは誤訳で、Norwegian
woodsはノルウェイ製の家具を指す。森林の多い彼の国は木製家具が特産品であり、自分の許を去っていった恋人が遺していったノルウェイ製の家具を眺めながら彼女を想うのが、ビートルズの曲の内容だった。それが村上春樹の「ノルウェイの森」のモチーフに正確に反映されているのか、杜氏は知らない。杜氏は「本読み」であるかもしれないが、「ノルウェイの森」のあまりのヒットぶりに、買って読む気が起こらなくなってしまった。
音楽でも顕著だが、文学でも今日性を追及する余りに普遍的な価値がなおざりにされている。今ウケるものは明日は誰も憶えていなかったりする。「セカチュー」の認知度は今100%に近くても、五年後は確実に50%以下になっているだろう。いや、それでも高く見積もり過ぎなのかもしれない。例えば「存在の耐えられない軽さ」という映画が数年前にヒットしたが、「ソンカル」と言って何割の人がその作品を思い浮かべるだろうか。そう考えると、村上春樹の貢献によって何棟も建った「ノルウェイの森ビル」の存在も空しい。正に存在の耐えられない軽さだ。
オオムラサキは国蝶として認知度が高い。見た目が美しく、立派で、日本中どこにでもいるという理由で国蝶に選定されたこのチョウも、環境の変化からなのか、めっきり姿を見なくなった。今では希少価値が付いて回るようになってしまった。食樹であるエノキは今でもありふれた植物に過ぎないのに、オオムラサキの方が圧迫を受けている。同じエノキを食樹とするタテハチョウにゴマダラチョウがいる。生態、形態がオオムラサキによく似ており、明らかに近似種と言える。ゴマダラチョウの方が一回り小さく、翅にも華やかな色彩に恵まれてはいない。ゴマダラチョウの名の通り、黒地に白い紋が施されただけのシンプルなカラーリングである。モノクロの世界に迷い込んだやや小ぶりのオオムラサキとも言える昆虫である。だがそのシンプルさがよく見ると味わい深く、オレンジ色がかった複眼がワンポイントになっておりそれなりに美しい。だが、オオムラサキとの比較もあり、国蝶からは最も近くて遠い存在なのだろう。従姉妹にミス・ユニヴァース日本代表を持つ、単独ならとても艶やかな女性のような存在と言えるかもしれない。
幼虫同士もよく似ている。一言で表現すれば、角張ったナメクジのような形態を採る。尾の方がすぼまった流線型で、頭には角状の左右一対の突起を持つ。目立たないが尾にも二本の突起があり、これも共通している。背中にも凹凸めいた突起があるが、その数がオオムラサキでは4個、ゴマダラチョウでは3個であるので、見分けの目安になっている。ただ、ゴマダラチョウが春型と夏型の二化性であるのに対して、オオムラサキは同じく幼虫越冬をするが一化性である。その分、大きさに差があるのかもしれない。二化性の方が繁殖には有利なのであろうか? 一概にそうとも言えないだろう。だが現状の出現率を見ると、繁殖においてはゴマダラチョウに一日の長がありそうである。
同じエノキを棲家にしていても、日照条件、風当たり、周囲の植生など、オオムラサキの方がストライクゾーンが狭いような気もする。例えばオオムラサキはカブトムシ、クワガタムシ、カナブンなどが寄ってくる樹液スポットを持つ植物であるクヌギ、コナラ、ミズナラ等がなければ産卵しないようだ。贅沢をしているうちにニッチを狭めてしまった感がある。
ゴマダラチョウとて強い幼虫ではなく、特に天敵である寄生バチの類に害される率が高いという。寄生バチの生存競争も熾烈で、頑健なゴマダラチョウの幼虫に寄生しないと羽化にまでは至らないらしい。終令に近い幼虫から寄生バチの幼虫が脱出して蛹化することも多いが、それらは殆ど羽化しないまま死ぬらしい。蛹化したゴマダラチョウの体内に留まり、宿主を食い尽くしたものだけが羽化できるようだ。寄生された蛹の残骸はガランドウになっており見るからに痛ましいが、寄生バチとて生き残りを賭けた厳しい戦いを続けているのだ。
鱗翅目昆虫の場合、脱皮の度に大きな危険が伴うが、ゴマダラチョウ、オオムラサキもご多分にもれないらしい。いや繊細な形態をしているので、そのリスクは他の鱗翅目昆虫より大きいかもしれない。
夏型は春型の雌が産卵したものが二ヵ月ほどの短期で羽化に漕ぎ着けたものであろうが、どうも生育には個体差が激しいらしく、また気温を支配的要因とする気象条件によっては、晩秋に羽化してしまう個体まであるらしく、どうもはっきりとしない。いずれにしても、羽化してはみても、配偶者が見当たらなければ生殖に及ぶことは不可能であるので、5〜6月の初夏と盛夏から初秋にかけての二つの時期に繁殖期が存在すると考えた方が良さそうだ。夏型の方が白い紋様がはっきりしている傾向があるらしい。幼虫時の生育条件の影響か、はたまた恋の勝利者となるための競争率が激しいのかなどと、要らぬ想像をしてみたくなる。
夏に羽化するものは幼虫の期間、明るい緑色で過ごすが、幼虫越冬するものは越冬が近づくに連れて褐色を帯び、やがては枯葉そっくりの体色となる。エノキの根に落ちた枯葉に潜り、葉裏で冬を越す。冬にエノキの根元の枯葉を裏返すと、幼虫を見つけられることが多い。普通、昆虫は卵か蛹で越冬するものが主流であるが、安全な隠れ場所が確保できれば、動けない卵や蛹よりも幼虫の方が生き残りに有利なのかもしれない。これも脈々と世代を重ねるうちに磨かれた種独自の戦略であり、ゴマダラチョウには最適なシステムなのであろう。一化性ではあるが、オオムラサキも同様に幼虫越冬を行う。
進化論をこういったケースに何の抵抗もなく仮定してしまう人がいる。それは安易であるばかりか、アンフェアだと思う。最高に進化した類人猿、例えばボノボような猿を何代も飼育したところで人間に進化することなどない。進化論は「こう考えるとうまく説明がつく」という公理に過ぎず、キリスト教的価値観の滑稽さを覆す機能を果たしたものに過ぎない。それが普遍の真理とは言えない。ゴマダラチョウとオオムラサキの対比において、現代においてはゴマダラチョウの生態システムの方が環境に合致しているからといって、ゴマダラチョウの方が高等で、オオムラサキから進化した種であるなどと断定するのはナンセンスである。そうであるかもしれないし、ないかもしれない。あるいは、相互に可逆性があり、行きつ戻りつしながら、最適化の過程を辿っている最中なのかもしれない。
人間はなまじ社会などという擬似ルールを定めているものだから、存在理由を求め、それを自分なりに規定し、アイデンティティが揺らげば生きていけないなどと考えてしまう。杜氏などもその口であることは否めない。だが、一個の生物として自らを捉えれば、その存在理由など思ったほど複雑な要件ではないのかもしれない。オオムラサキが、自分は国蝶なのだから、誇り高く生きて行かなければならないなどと考えるはずもない。存在は耐えられないほど軽いのではなく、本質的に軽いのかもしれない。国蝶に似ていながらそれとは違う生き方をさりげなく送っているゴマダラチョウを見ていると、余計なことで片意地を張って生きている自分を思い知らされる。
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