ハッチョウトンボ

最小というメリット

 名前には馴染みがあるのに実像には縁遠いことが縷々ある。俳優などで、よくドラマのタイトル・バックのクレジットで目にする名前なのに、実際の顔かたちが浮かばないというようなケースに思い当たることはないだろうか? それともトシを食って、さして興味のないことに関しては忘れっぽくなっているということだろうか?
 八丁味噌というのは、徳川家康の生誕の地である岡崎の名産で、岡崎城から八丁(一丁は200m)隔てた八町村で生産が始まったのが命名の起源であるらしい。岡崎にある国家研究機関に人を派遣して仕事を取ったことがあるが、彼の地の名物といえば、この八丁味噌以外にはなかった記憶がある。
 家康が美方ヶ原の合戦で武田信玄の軍に完膚なきまでに蹴散らされて逃走する際に、乗馬したまま恐怖に駆られて脱糞したことを家臣の本田平八郎に看破され、面罵されたのに応えて「焼き味噌じゃ」と負け惜しみを言ったのは、多分八丁味噌を意識してのことだったのだろう。イキナリ尾篭な話になったが、八丁味噌には罪はない。連続テレビ小説で、八丁味噌の老舗に嫁いだ設定の宮崎あおい嬢にも。
 ハッチョウトンボというのはよく耳にする名前であるが、杜氏にとって実像には馴染みのない昆虫だった。この昆虫の命名起源も名古屋付近に縁があるらしかったので、八丁味噌との関連を何となく連想していたのだが、実際には何の関係もないらしい。名古屋市千種区の矢田八丁目で江戸時代に初めて確認されたことから、その名があるという。千種と言えば名古屋の中心に近い。当時は市街地にも普通に繁殖していた種であることが窺える。
 八丁味噌との共通点は、あえて言えば名古屋文化によるネーミングであることで、彼の地の人々にとって、八丁という言葉の持つ響きが特別な意味を持っている可能性もある。
 ハッチョウトンボの最大の特徴は、日本最小のトンボであるということだ。開帳15ミリ、腹長1015ミリほどしかない。ただ、成熟した雄のカラーリングはとても鮮やかで、クリムゾンと呼んでいいほどの強烈な赤色の胴体を持つ。未成熟な雄、雌の胴体は黄色に黒い縞が入っており、ムギワラトンボ(シオカラトンボの雌)に近い。アカトンボ(ナツアカネ、アキアカネ)よりは明らかに小さく、色鮮やかである。
 決して普通種ではないが、いるところには群生しているらしい。清冽な湧き水を持つ湿地帯というニッチの条件は、首都圏では満たす地域が滅多にない。ゲンジボタルと並んで環境指標動物に指定されているのは、その小ささと目立つ体色に起因しているのだろう。
 トンボの類は、翅を羽ばたかせるよりも、グライダーのように翅を正視させたまま、空間を滑空することが多い。だが、このハッチョウトンボが飛ぶ場合、振動音が「ブン、ブン」と立つらしい。これもトンボらしくない特徴である。スズメガやハチドリのようにホバリングを行うのであろうか。このため、飛翔時はアブと間違えられることも多いらしい。
 湿原の草の茎などに止まって休むことが多いようだが、人が近づいても容易には逃げないらしい。トンボといえば、敏捷で、人の気配がしようものなら素早く飛び立ってしまい、捉えるのが難しいイメージがあるが、ハッチョウトンボは例外だという。その特徴が示す通り、移動性は低く、繁殖状況はニッチの環境が永続するかどうかに依存する。
 成虫としての活動は510月と長いようだが、実際にはその年によって出現期間には幅があるだけのことで、短期間にしか見られないらしい。しかも、時期が過ぎると雌ばかりが多く見られ、色鮮やかな赤を期待していると的外れに陥ってしまう。小さいが堅牢な身体と安定した生活ぶりが窺われる。幼虫は体長9ミリ程度の非常に小さなヤゴで、泥に塗れていることが多い。越冬はこの幼虫の形態で行われれるため、卵で越冬する他のトンボとは違い、冬であっても水の存在が不可欠である。
 逆に日本最大のトンボはオニヤンマである。長大で飛翔力に長け、肉食性が強く獰猛であるために、強大であるとも言える。体色も自然界においては危険信号を意味する黄色に黒で、トラやスズメバチ、アシナガバチと同様、「自分は強いぞ、危険だぞ」とのメッセージを語っている。それに対してハッチョウトンボは目立つ赤色をしていながら、その小ささのためか、なかなか目に付きにくいと聞く。小ささが生存競争にとっての最大の武器になる好例といえる。
 ニッチが食虫植物のモウセンゴケと一致していることが多く、もしかすると最大の脅威はモウセンゴケなのかもしれない。ただ、モウセンゴケの粘着性のある葉の乾いた部分に巧みに止まり、大胆にもそこで休息を取るハッチョウトンボの写真を見かけたこともある。

 ハード・ロックの一分野を示すヘヴィ・メタルの本来の意味は、重工業である。戦後日本の経済復興を支えたのは、産業であり、それは主に重工業に依存していた。高度経済成長真っ盛りの1960年代後半に、「大きいことはいいことだ」なる菓子屋のキャッチ・コピーが流行語になったことがそれを物語っている。N産自動車がTヨタを揶揄したCMの「隣の車が小さく見えます」も、そのデンであった。
 その重厚長大信仰は、1980年代に入って半導体の普及に伴い軽薄短小へと苦もなく置き換わった。鉄鋼、造船といった産業立国の象徴だった幾多の産業が長い構造不況にあえぐこととなった。
 自然界では恐竜や巨大哺乳類が繁栄の後に滅亡の憂き目に遭っている。トンボの世界でもオニヤンマの優位性は揺るぎそうにないが、独自路線を歩むハッチョウトンボもまた、人間を代表とする外敵に目につかないだけに、今のところは永続しそうな種ではある。



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