カッコウムシ

トリヴィアルなものを侮ること勿れ


 小学校の全市の学校が参加する合奏コンクールのようなものがあった。六年生の中から「音楽が得意な者」四〜五〇名が選抜されて、毎日放課後練習をさせられていた。杜氏は担任と極端に折り合いが悪く、また音楽は不得手とも思わなかったが、歌は一人前以上に歌えても、楽器演奏は生来の不器用からか評価が低かったらしく、そのメンバにはお声が掛からなかった。お声が掛からなかったこと自体はWelcomeだった。そンなつまらぬことで時間を浪費するのはナンセンスだ。ほかにやることはいくらでもあった。ところが、途中からその合奏団に呼ばれた。想像するに、他のクラスの担任や学級主任から、「kuraを使わないのはマズイだろ」という声が、担任に浴びせられたに違いない。杜氏がその会合に参加して自分の意思を表示出来たのなら、「マズくない、マズくない!」と必死でせっかくメンバから漏れた僥倖を損ねるのを回避しただろう。だが、仕方なくその列に入ることになった。
 カッコ悪いこと夥しい。そのままやり過ごしてくれれば、杜氏の存在など皆意識しなかっただろう。途中から付け足されるなど、初期メンバから漏れたことを改めて皆に認識させているような仕打ちだ。思えば鼓笛隊でも、鼓隊には選抜メンバが居並び、笛隊はその他大勢でなぜか身体が大きい順に並ぶので、杜氏は列の先頭でその他大勢代表のテイで笛を吹かされていた。今思うと、杜氏の担任だった教師は杜氏によほど含むところがあったに違いない。
 そのときの演奏曲がモーツァルト作曲の「おもちゃのシンフォニー」だった。モーツァルトはモーツァルトでも、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトではなく、その父のレオポルト・モーツァルトである。しかも、この曲は長い間ハイドン作曲だと思われていた。で、杜氏が持たさせた楽器は長さ10cmほどの竹の輪切りに7cmほどの長細い吹き口がついた、それまで見たこともないシロモノだった。見慣れないモノだが、取るに足らない楽器であることだけは直感した。「おもちゃのシンフォニー」の由来通りのおもちゃであった。「カッコー笛だ」と言われた。竹の下の開口部から手を離して吹くと「カッ」と鳴り、塞ぐと「コー」と鳴った。全曲で四回だけ、その「カッコー」を鳴らすのが役目だった。あとは他のメンバが懸命に演奏している脇で、ボーッと立っているだけだった。
 考えようによっては、ピアノとかの花形楽器でもないのに、一瞬でもソロが取れるパートなのかもしれなかったが、そンな芸のない楽器で目立つのは、無能を強調しているようで余計にカッコ悪かった。なので、わざと開口部を塞ぐ際に掌をズラして音を外したりして反抗していたのだが、誰もそれには気づかなかった。要するに、あってもなくてもいい存在だった。「ならば途中から呼ぶなよ!」と言いたかった。で、もう一曲の「会津磐梯山」では、ものの見事にその他大勢の笛を持たされた。
 カッコウという鳥は、同属のホトトギスと共に日本では毀誉褒貶の多い存在である。美声のホトトギスと同様、その鳴き声は高原や高山の清浄な空気と安らかさを象徴するような癒しを孕んでいる。また音程、リズムが明瞭で親しみ易いことなら、時計の時報やジングルのようなものにも多用される。おもちゃのカッコー笛もそのシリーズかもしれない。だが一方で他の鳥の巣に卵を産みつけ、託卵を行い、本来の雛を殺害して育つことから、狡賢い鳥の代表扱いされる。映画「カッコーの巣の上で」や、ベスト・セラーの「カッコウはコンピュータに卵を産む」は、その習性のダーク・サイドを引き合いにされたものだ。
 カッコウの身体の構造は極めて原始的な鳥類のものに近く、恒温性に乏しいらしい。つまりは外気温が落ちると体温を奪われ易い。自分で卵を温めて孵すには向いていないらしいのだ。カッコウも最初は自分で卵を温めていたに違いない。だが、恒温性を確保してより確実に卵を孵す他の鳥類が増えて、自ずとそれを利用する方向へ走ったに違いない。無論、カッコウに悪意や狡賢さなどあるワケではない。自然の帰着だったのだ。託卵される側は、一旦そうなってしまったら、カッコウの雛を育てるハメになるのだが、唯々諾々と託卵されているだけでもないらしい。カッコウが巣の近くを徘徊すれば攻撃を仕掛けるし、巣の中に著しく大きさや模様が異なるカッコウの卵を見つけたら、未然にそれを排除することも多いそうだ。カッコウはカッコウで、託卵する鳥によく似た卵を産むように進化するらしい。託卵する側、される側、双方とも経験と遺伝の両面から、激しい生存競争を繰り広げているのだ。それを人間の側から狡猾だの浅ましいだの批判するのは僭越なのである。
 東洋人と西洋人では犬や猫、鶏など、ことごとく鳴き声に対する擬声語が異なっているが、カッコウは英語でも"Cuckoo"であり、珍しくほぼ一致している。それだけ明瞭な鳴き音なのだと言えるだろう。

 さて、カッコウムシである。
 鞘翅目昆虫はカブトムシ、クワガタムシに代表されるように、身体が立派で堂々としている種が多いが、反面、微小なものも少なくはない。タマムシ、ハンミョウ、オサムシなど美麗なものも多ければ、そうでないものもたくさんいる。見映えのいいものは「虫屋」と自称する人種から珍重され、コレクションの対象となる。「虫屋」達はその興味の対象によって、更に「〜屋」を自称する。カミキリムシなどは姿がカッコよく、ヴァリエーションも豊富だ。「カミキリ屋」を称する人間も多い。だが雄大でも美麗でも変化に富んでもいない昆虫は、「雑虫」などとひどい俗称で括られる。昆虫が好きな人間の八割方が、こうした累計と分類による差別を進んで行う性癖を持つ。杜氏にはそれがどうも受け入れられない。「虫愛ずる姫君」は世の中の標準から好奇の目で扱われているが、古今の「虫愛ずる人々」は世間の標準の逆側から普通の人々を蔑んでいるように見受ける。それは言い過ぎだとしても、「自分達は世間の人とは違うンだ」というカンチガイが、その妙な屋号から窺われる。
 中には雑虫と呼ばれる種に限って好きだという人種もおり、蓼食う虫の世界は二重三重構造を呈している。厄介なことだ。
 カッコウムシは鞘翅目、カッコウムシ亜科、カッコウムシ科の昆虫の総称で、日本ではシロオビカッコウムシ、アリガタカッコウムシなどが普通種として見られる。以前、キクイムシの項で、在来種であるヒラタキクイムシを特定することをしなかったところ、その道のプロ(害虫駆除業者の方)からご指摘を頂いたので、一応断っておく。いずれも体長は1cmにも満たず、美麗でもない。正に雑虫と呼ばれるに相応しい種かもしれない。インターネット検索しても、なぜカッコウムシと呼ばれたかの由来すらわからない。どこかカッコウを思わせる形態、色、生態を示しているのか、カッコいいからなのか、カッコつけているからなのか、不明である。そンなこと、わからなくてもいいのかもしれない。今はカッコいい男のことを一様にイケメンなどと、言うようになったが、杜氏達は決して市民権を獲得していない限定的な表現で「カッコマン」と呼んでいた。カッコイイことへの憧憬のみではなく、「自分でもカッコイイと思ってるかもしれないけど、それカッコ悪いゾ」といった揶揄が入り混じった輻輳した表現だった。イケメンで済ませていると、こういった含蓄とまでは言えないものの複雑な価値観が反映されない。困った現象だ。
 だが、カッコウムシの外見や在り方を見ていると、カッコイイからカッコウムシというセンは可能性が薄い。やはりカッコウと何らかの関係があるに違いない。ひょっとすると、カッコウの餌になりやすいということも考えられる。
 身体に似ず、肉食性である。ジョウカイボンヒラタムシ、コメツキムシなどに近いのかもしれない。朽木などに済む。朽木というのは昆虫のワンダーランドだったりする。生きている植物は生存のため、食害を及ぼす昆虫に対して何らかの防御策を講じる。だから枝葉末節の言葉通り、安全に植物から栄養を得たい昆虫は葉や枝を食うに留める。だが鞘翅目昆虫の中にはカミキリムシのように、文字通り植物の基幹である幹を害する種族もいる。これらの昆虫の目指すものは、ハイリスク・ハイリターンなのだろう。だが、そういったリスクを回避した昆虫は、抵抗を受ける心配のない朽木を好む。その中間がタマムシで、未だ復活の可能性を帯びた切り株で幼虫時代を過ごす。
 そしてなぜか、朽木を好む昆虫、朽木に集まる昆虫を好む昆虫には、鞘翅目昆虫が多い。前述したキクイムシ、じゃなかったヒラタキクイムシなどはその代表で、カッコウムシはこの昆虫の天敵とされる。ヒラタキクイムシは微小な昆虫の常として集団行動を取ることが多いが、それを可能にするのはカメムシの悪臭の原因にもなっている集合フェロモンである。キクイムシの行動に不可欠なこの集合フェロモンは天敵でもあるカッコウムシすら誘引してしまうらしい。カッコウムシにとっては安定的な食糧源確保の信号が、キクイムシの集合フェロモンなのだろう。
 カッコウムシとて小さな獲物だけ安全にモノにしているワケではない。小型のカミキリムシの類がカッコウムシの犠牲となることも多いと聞く。ただ小型とはいっても、カミキリムシは十数ミリの体長は持っている。カッコウムシは自分より遥かに大型な昆虫を仕留める攻撃力の持ち主であることがわかる。とても獰猛なハンターには見えないのだが。
 日本には材木を荒らす廉で害虫呼ばわりされている昆虫が多い。朽木にしてもシイタケ栽培業者などにとっては重要な資源であるし、キクイムシの項でも触れたが、木造住宅など昆虫にしてみれば朽木が組み合わさったものに過ぎない。朽木を好む昆虫だけを食糧とするならば、カッコウムシも単なる益虫扱いされるのだろうが、そこは肉食の悲しさ、カッコウムシ科のアカクビホシカムシなどは乾物を好んで食べてしまう。干物、鰹節のタグイだ。ホシカというのは干鰯を示すらしい。出汁になるものを好むとは、究極のグルメ昆虫と言えるかもしれない。なので、カッコウムシも人間の手によれば、あえなく害虫となってしまう。我儘なことだ。
 カッコウムシは人間が普通の生活をしている限り、まずお目にかからない存在だ。朽木を漁る人間などまずいない。いたとしても、微小で体色も目立たないカッコウムシになどまず目がいかない。ゴキブリのように人間の生理を逆なでするような形態や動きをしているワケでもない。多くの昆虫のように灯火に寄ってくるという話も聞かない。あるのかもしれないが、いても目立たないだろう。一見、全くトリヴィアルな存在と言える。唯一、カミキリ屋と称する人種が外道で捕まえたり、雑虫大好きという奇特な御仁達には貴重な存在となるのかもしれない。もし、環境の変化によって個体数が減少したとしても、レッドブックにすら載らないほど注目度が低いのではないかと懸念してしまう。だが、見かけによらず、大量の昆虫を捕食するハンター、自然界にはなくてはならない存在であることは確かなのだ。
 人間は人間の視線の高さでしかモノを考えられない。だが、1cmにも満たないカッコウムシが大量に自然界で活躍しているとしたら、そのインパクトは人間が考えるよりは遥かに大きいのだ。目に留まりにくいからと言って、それをトリヴィアルな存在と見なすのは実は妥当ではない。雑虫などと呼んで、偏屈な愛情を注ぐのも如何なものかと思う。トリヴィアルかどうかを決めるのは人間サマ如きではないのだ。

 もし、あなたが小学校の音楽会でカッコー笛などというケッタイなシロモノを吹かされている少年に遭遇しても、指差して笑ったり、石を投げたりしてはいけない。もしかして、そのカッコウムシのような少年が後々大物になって、あなたを竜宮城に連れて行ってくれるかもしれないのだ。(そンなハズァないか)



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