
![]()
五月みどりがあンなふうなオバサンになってしまったのには伏線がある。彼女は元々流行歌手だったが、とても若い頃、おそらく二〇代前半かひょっとして二十歳前から「水っぽい歌」しか歌わせてもらえなかった。当時「清純派」という言葉がなかったワケではない。「一週間に十日来い」という理不尽なタイトルの曲があるが、ザ・ビートルズがEight
days a weekなる同じ意味の曲を演じても、五月の一種庶民的な、一歩間違えると下世話な性の臭気は醸すことができない。彼女の出身地である湯河原という温泉街が培った体質なのだろうか。
「エマニュエル夫人」というのはフランスの匿名作家が上梓したという設定からして淫靡な「文学」だが、一時期日本の映画界もこれに対抗してか、五月や高田美和、大信田礼子といったかつてはビッグネームだったかもしれないが、今更映画で肌を晒してもキャリアにさしたる影響がないような女性達をポルノ仕立ての映画出演に駆り立てたことがある。ただし、エマニュエル坊や夫人は設定からしてとても若く、本人の意思とは別に周囲がほとんど自分達の身勝手によって性遍歴を積ませることにより、本人はさしたる抵抗もなくそれらを受け止め、周囲の(読者の)都合のいいように成長させるという構造になっている。その構造自体とても猥雑で、何でも下ネタに持っていこうとするフランス人らしい。それに対してわが国の年増連中は、おねェさん(客観的にはオバサン)が何でも教えてアゲルといった風情で、どこかカラッと衝き抜けたところがある。
その五月の出演作品に「カマキリ夫人」がある。カマキリが交尾しながら雄を食糧にしてしまい、産卵のタシにするという性質から、性(生殖)に貪欲な女性を描くことをタイトルでも意識させたかったのだろう。または食われてもいいから一度お相手したいということか。あるいは単なる見込み客の「怖いもの見たさ」の気持ちをかき立てるものだったのか。
とにかく、あのテの映画としては、そこそこヒットしたような記憶がある。日活の崩壊を多少なりとも延命したのは確かだろう。
ただ、カマキリのために弁明しておくが、カマキリは生殖に貪欲であるがゆえに雄を食うのだはない。動くものは全て食べようとする習性によって反応しているに過ぎないのだ。カマキリの雄のアプローチはしたがって決死のものとなる。生殖を遂げる前に「動くもの」と雌に認識されてしまったら、その時点で御陀仏なのだ。彼らは慎重の上にも慎重を重ねて辛抱強く接近を図る。だがひとたび目的に辿り着いたとき、自ら動く生物として雌に認識されざるを得ない。カマキリの雄は健気ですらある。少なくとも処女雌しかターゲットにしない。生殖済みの雌の生殖器から、前に交尾した雄の精巣を掻き出して、自分のものと差しかえるトンボのような悪行は働かない。
ナナフシの項で述べたような「蟷螂の斧」の気の強さも、この習性が現れているに過ぎない。五月みどりの持ち味とカマキリは、どうもそぐわない印象がある。
カマキリはゴキブリ同様、下北半島か、津軽海峡にある生態系の臨界線であるブランキストン線を北に越えることが出来ないらしい。ゴキブリは暖房の効いた船や飛行機を伝い、常温が本州並みの北海道の室内にまんまと忍び込むこともあろうが、屋外でしか活動しないカマキリはそうもいかない。杜氏は会社の同僚がカマキリを見て「生まれて初めて」と感嘆するのを見たことがある。寒さに敏感なことの現れなのか、カマキリは保温器を自ら紡ぎ、その中に産卵する。産卵時はアワフキムシの巣のようにメレンゲ状の泡に過ぎないが、ほどなく固まって発泡スチロールのような様相を呈する。種類によってその形状は微妙に異なるが、冬の野にカマキリの卵を見出すのは、他に見るべきものも少ないことも手伝ってか、なかなか風情のあるものである。
杜氏が小学校低学年の頃、その風情に駆られて、色々な種類のカマキリの卵を集めたことがある。多少厚みのあるボール紙の箱に数十個の保温器が並んだだろうか。蓋には千枚通しでいくつもの穴を開けておいた。昆虫を飼う際の鉄則である。昆虫には休眠中でも酸素が必要なのだ。
話題は唐突に飛躍するが、「グレムリン」という映画があった。グレムリンとは元々、欧米の小鬼の概念である。TVシリーズのトワイライト・ゾーンでは、飛行中の飛行機の翼を破壊しようと活躍するグレムリンが描かれている有名なエピソードがある。配給当時、「ゴジラ」(復刻第一作版)、「ゴースト・バスターズ」と並んで3G対決と呼ばれていた。対決の勝者は「ゴースト・バスターズ」で、グレムリンは滓とケナされたゴジラにも興行的には及ばなかったと思われる。可憐なのに作品に恵まれない、フィービー・ケイツの不運が惜しまれる。今では英会話教材のおねェさんだ。
グレムリンが日本で受けなかったのは、明らかに可愛らしいペットから変容して大暴れするグレムリン達が日本の暗喩(とも呼べぬほどロコツな比喩)だったからだ。グレムリンに悪意はない。罪があるとしたら、可愛い彼の国の民を哀れんで恣意的に意のままに方向付けしようとする某超大国の傲慢さだ。それは性懲りもなく繰り返されている。ベトナム、イラク、アフガニスタン。これを称して心ある人は「マッチ・ポンプ」と呼ぶ。サダム・フセインもビンラディンも自分達が育てたンじゃンかよォ! グレムリンになぞらえられる日本など真の意味で可愛いものかもしれない。
さて、話題は数十年前の横須賀のとある家に戻る。
寒い冬を追いたてるかのようなポカポカと暖かな陽射しが戻ってきたある日の午後、横須賀市在住の主婦Aさん三七歳(推定)は部屋の掃除の最中に異変を覚えた。目を凝らさなければ気づかぬほどの微小な昆虫が掃除を終えてすがすがしくなったハズの畳の上を歩いているのを見出した。それを退治したAさんは虫が一匹ではないことに気づく。数匹、いや数十匹、ことによると・・・。Aさんは長男B君の勉強机から、無数の同種と見られる微小な昆虫が群れをなして這い出してくるのを見て絶句した。それは小さいながらも成虫と同じ形をしており、Aさんにとって決して気持ちのいいモノではなかった。カマキリだった。
カマキリは不完全変態。未成熟なエッチな人という意味ではない。幼虫、蛹、成虫と、全く異なった形状を採るのが完全変態。そうではなく、蛹の期間がなかったり、孵化したときから成虫と同じ姿をしているのが不完全変態だ。春になって集めていた卵から孵ったカマキリ達は親と同じカッコをしており、ナマイキに鎌まで備えていたのだ。
無数のカマキリが這い出てくるようすは、正に啓蟄とう言葉を連想させた。生命の存在を感じさせなかった造形物の収集は、それが生物そのものであるという証明を以て終焉を迎えたのだ。最早それは奇妙で一種魅力的だった卵ではなく、グレムリンの群れだった。
よくTVの自然番組で司会者が数万匹の魚類の幼生の孵化などを見て、頭の悪いタレントに「このウチ何匹が成長して帰ってくるか?」などと訊ねることがある。愚問だ。ひとつがいの親から生まれた次世代の種は親と同じ数かそれプラス一程度しか成長することを許されない。それ以上でも以下でも、自然界のバランスは崩れてしまうだろう。
蟷螂の斧は力がない者が巨大な相手に見境なく挑むことを示すが、実際にはカマキリは捕獲能力に優れた強い昆虫だ。そのカマキリにして、ひとつの卵からはこれほど無数の幼虫が孵化するのだ。つまり、その大半はカマキリにとっての次世代の種というよりは、他の肉食昆虫にとっての食糧源に過ぎないのだ。杜氏は母に叱られながらも、その事実を図鑑などによる知識ではなく、実感として目の当たりにして感動を覚えていた。
杜氏がキープしていた卵から孵ったカマキリの大半が、母の箒の犠牲になった。だが、その三分の一程度が外の世界に旅立ったと思われる。カマキリにとってもその捕食者にとっても罪なことをしたかもしれない。ただ、三つの禁を侵さずとも、グレムリンはグレムリンとしての本来の姿になっていった。自然を勉強机の中で飼い慣らすことは所詮不可能だったのだ。それがわかっただけで、一見意味がなかったカマキリの卵の収集は杜氏の心に実りを残した。
教訓1「姿形が可愛いからといって、無闇に自分の都合だけで可愛がっても、後で武装戦力として仇を為すことが多い」
教訓2「エマニュエル夫人を十年、二十年育てても五月みどりには成長しない」