カネタタキ

人が与える住環境


 春秋戦国時代の中国を舞台にした歴史小説を読んでいると、食客という人々が頻繁に登場する。威信を既に獲得した大人よりもむしろ、将来大きく成長しそうな人物のところに押しかけてほとんど勝手に居候を決めこんでいるような人種だ。大概は人から秀でた一芸を持っており、それを売りこんで認められる形で人の家に潜り込む。主従関係は厳密には結ばない。対等な人間同士の結びつきである。中には主人の盛名を頼っての無頼漢もいたことだろう。だが、食客を寛大に受け容れ、養ってやることも器の大きさにつながる。主従は一種の契約であるが、家主と食客の関係は不明確であるがゆえに計り知れぬ人間同士の気持ちで結ばれている。食いつぶれたところを養ってもらうと言う甘えに対して、才能の発揮を以て恩義に報いてもらうというなまぐさいカケヒキも含めて。
 白髪三千丈の国だから、眉に唾をつけながら読まなくてはならないが、食客がその荒唐無稽な特技で養い手を救ったり、食客から身を起こして位人臣を極めた例は枚挙に暇がない。

 人間の為した業は自然界に大きな影響を与えている。ようやくそれに気づいて環境保護などに乗り出したのがホンの数十年前のこと。しかも、水俣病などの疾病が環境変化でもたらされるのが顕在化した後のことだった。そもそも公害という言葉自体に、「ある程度は致し方なかった不具合」といったニュアンスが感じられ、性懲りもない人間の習性を思わせる響きがある。自然がネイチュアであるのに対して、人の為せる業はアート。これを対語と認識していることに、人類の傲慢さが見てとれる。自然は既に人の行状を一部飲み込んでいる。
 カラスのワルサがよく取り沙汰されるが、カラスにしてみれば、主な居住場所である都市部の環境に順応しているに過ぎない。家畜だった犬や猫の再野生化だって、生き物としては人に飼われているよりは自然な姿に戻ったに過ぎない。本来日本にはいないはずのブラックバス、カミツキガメなどの野生化が問題となっているが、日本の風土にそれらが順応できるのなら、それも新しい自然の形であろう。たかだかイグアナ一頭が逃げたぐらいで、ニュースになるほどの大騒ぎとなるが、そういう認識自体が病的に思える。コモドオオトカゲでないだけマシであろう。そもそも誰が悪いのかといえば、動物ではなく人間が悪いのだ。
 昆虫にしても、ゴミムシなどは人が出すゴミなくては住環境の確保がままならないだろう。寒さとは一年中無縁な人家の室内に馴らされてしまったゴキブリも、もし人がいなくなったら、かなりの習性の変化を強いられるだろう。カブトムシにしたところで、人里離れた山奥ではいられないという。幼虫が堆肥の中のような環境でで育つためだ。動物にとって人間の作った環境であるかどうかは問題ではない。自分がそこに適しているかのみが住環境のキーとなる。

 秋の鳴く虫は古くから人間の愛玩対象となり、商品として扱われていたらしい。ラフカディオ・ハーンの「怪談」にクサヒバリ(Grass lark)という作品が採用されているが、明治時代に日本に在住したカーンによれば江戸時代から鳴く虫の売買がされていたことが窺われる。最近では見かけなくなったが、スズムシは勿論、キリギリス、マツムシなどは籠着きで売られていたものだった。(スズムシは甕かな?)
 秋の虫の音に風情を感じるのは東洋人だけらしい。欧米人には雑音にしか感じられないとか。何でも右脳、左脳の使い方の相違によるらしい。そういえば、オーストラリアの砂漠地帯の草原で、蝉を見かけたことがあったが、「チッ、チッ、チ」というような恐ろしく無愛想な鳴き方だった。昆虫の方も聞く耳を持たぬ人間のセンスに鳴き声を合わせているワケではあるまいが。
 秋の虫、つまりコオロギの類が鳴くのは雄だけで、蝉と同じくその目的はテリトリーの主張と雌を呼び寄せること。鳴く方法も蝉と類似しており、羽の摩擦音を反響させる器官を以て増幅させる。身体の大きさと音に多少は関係もあるのかもしれないが、小型のコオロギが驚くほど大きな音で鳴く。
 秋の夜、学校や会社から疲れ切って帰宅し、入浴しながら人心地ついていると、澄んだ高音で鳴く虫の声を至近距離に感じることがある。どう聴いても家の中としか思えないと感じて捜してみると、一センチにも満たない薄い褐色のスリムな体型の羽が退化しかけたコオロギに行き当たる。カネタタキである。鐘を叩いているかのような音から、その名がある。これもその音と比較して、驚くほど小さな昆虫である。
 人の気配に驚いて敏捷に逃げるワケでもない。また、ゴキブリのように台所でワルサをするのでもなく、病原菌を媒介することもない。それに夜ともなれば美しい音で疲れを癒してくれる。どこか人懐こく愛らしい昆虫である。
 彼らがどういう理由で人家に迷い込み、どういう経緯で毎年毎年人の家を訪れるようになったのかはわからない。ただ、カネタタキにしてみれば明確な必然があってのことだろう。食糧の問題か、生殖の都合か・・・。事実、彼らは家に入りこみ、誰の住処であるかなど問題にせず、自分のテリトリを主張する音を発しているのだ。それを住居不法侵入の廉でとがめだてすることは出来ない。

 人が衣食住を営めば、そこにゴミが発生し、居住空間が生まれ、作物が育つ。軒下に何だか種類のわからない蝶か蛾の蛹が止まっていたり、壁や物干し竿に狩人バチが幼虫の床を作ったり、軒先にアシナガバチが巣を掛けたりすることは当たり前のことだった。草刈をすればモグラの一匹、ニ匹は必ず姿を見せたもので、誰もそンなことを騒ぎ立てはしなかった。さすがにシロアリに柱を食われていたのは黙認できなかったが・・・。

 商業主義が発展し、様々なものが商品となる昨今である。「アリは不快な外注です」という殺虫剤のCMキャッチコピーを耳にしたのには驚かされた。自然は大いなる力で人工を飲み込もうとしている。それに対して、無害な者達との共存共栄も拒んで、自然が介入できない空間を作ろうとしている人類の在り方に強い疑問を覚えざるを得ない。

 愛らしい姿と声をもたらしてくれていたカネタタキを、ここ数年目にしていない気がする。自然を拒んでいるウチはまだしも、自然から拒まれるようになったとき、生物としてのホモ・サピエンスの存亡に黄信号が灯るように感じる。



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