カヤコオロギ

おそらくはそれも必然


 会社でよくこういうことがある。「乾坤一擲の新機軸」などと称して、それまでの方針とは異なる全く新しい試みが実行に移されることになる。今までの業務は安定的な収入源であるから、何かをやめることで余った人員を当てることなどしない。そのプロジェクトのためだけに複数の部署が少しずつ人員を捻出することになる。時には「社運を賭けた」などという仰々しい形容詞がつくこともあり、普通はいい加減な人材は出さない。ただ、本当の主力は現業に縛りつけられているハズなので、やはり出てこない。ただ、保守的な中間管理職がその新規プロジェクトへの要員捻出を判断する場合、現業を重んじる余りに、お荷物でしかない人間を出してくる場合がある。お荷物を押し付けられることになった新規プロジェクト関係者としては堪らない。やるべきことは山ほどあるのに、押し付けられたお荷物のお守りにまで力を割かなければならない。「社運を賭けた新規プロジェクト」は大概、こういった未必の悪意のようなものから破綻を来たす。
 成り行きが当初の予定と変わってきたりする。体制が変わり、上に立つ者が変わる。変わった者はそれまでの経緯を聞かされていないか、もしくは理解できていない者だったりして、責任の所在が曖昧になる。当然、やるべき業務も変わってくる。自社判断で自主的に進めるハズだったものが、下働きの下流工程となったり、技術コンサルテーションのハズが単なる営業に変わったりもする。そして、ひどいケースでは、ある日突然、別会社へ出向の事例が下ったりする。年限は二年とか、口頭で言われたりもするが、公式なコメントではない。企業にとって二年先など、遥か未来である。その間に何が起こるかなど、誰にも予測などつかない。かくして、正当な理由を以て入社した会社がいつの間にか別会社になっていたことなど、枚挙に暇がない。
 梯子を指差して「昇れ」と命じられ、不安を質すと「自分たちがしっかり梯子を支えているから」などと言われる。その言を信じて屋根の上に昇ってみると、いつの間にか梯子は外され、降りることもままらならくなっている。かく言う杜氏にも、梯子を外された経験がある。仕方がないと思うしかない。運不運はつきもので、幸運ばかりに恵まれている者が必ずしも成功するとも限らない。適度にひどい目に遭うのは、サラリーマン・ライフにはかえって貴重な経験であったりもする。そこで再起不能なまでにダメージを受けないことが大切だ。壊れてしまっては修復不能なものもある。

 生態系の個別のシステムのひとつに退化がある。退の字が入っているから、ネガティヴなイメージがあるかもしれないが、そうとばかりは限らない。人間の体表は毛皮には覆われていないが、これは寒さをしのぐ方法をプロメテウスの助言によって確立してきたからである。嗅覚も聴覚も、人間は他の哺乳類に比較して退化している。いや、人間を人間たらしめている二足歩行さえ、退化の一種であると杜氏には思える。
 オサムシ、ゴミムシにとって、後翅には意味がない。前翅が閉ざされてしまい、飛ぶための機能は損なわれている。だが、地上を這うことができれば、彼らの生活は保証される。ハエ、アブの後翅は極小さなものへと退化した。だが、Flyの名詞形はハエを示す。ハエは飛翔する昆虫の象徴でもある。退化した後翅は平均痕と呼ばれ、飛翔のバランスに大きな役割を果たしている。見た目は退化でも、実質的には進化なのだ。
 直翅目昆虫の特徴は翅に顕著であることが多い。コオロギ、キリギリスは雄の鳴き音が生殖、テリトリ確保に果たす役割が大きい。バッタは飛翔に長けた昆虫で、時にトノサマバッタの飛蝗化のように長距離飛行による移動にも耐えうる。だが一方で、翅自体を退化させた種もある。カヤコオロギもそのひとつだ。別名カヤスズとも言うが、スズムシの美声とは無縁だ。翅は極短く、胸部を覆う程度で、発音器を持たない。鳴かないコオロギである。体長は個体差があるが概ね10mm程度。決して小さくはない。ただ、体型がスリムなので、小さく見える。イトトンボが小さく感じるのと同じ理屈である。
 黒褐色でズングリした体型のエンマコオロギ以下のコオロギとは趣きを異にしている。黄褐色で細長い。体型は寧ろ、小型の草食のキリギリス、例えばツユムシに近いかもしれない。身体の両脇にはやや濃い褐色のストライプが入る。なかなかニートな外見である。カヤは茅、萱である。ススキに代表されるイネ科の植物だ。地上の藁や枯れ草、枯葉の中に潜むコオロギと違って、カヤコオロギはこれらの植物の葉の上の空間に棲む。成虫として人間の目に触れるのは8〜10月。越冬は卵で行う。年一化の律儀な生活史だ。
 このカヤコオロギ、杜氏などには特別珍しい昆虫という印象などないのだが、インターネット検索などしてみると、「激レア」などと書かれている。確かに宅地造成などでニッチは圧迫されているだろうが、イネ科の植物が減っているという話は聞かない。ススキの原などもそこかしこに健在である。カヤコオロギが本当に減っているとしたら、他に何か原因があるように思えてならない。
 多分、カヤコオロギが翅を退化させ、発音器を持たなくなったのには必然的な理由があったに違いない。逆に言えば、飛翔という移動による天敵からの逃避や音というシグナルによる情報交換に必然がなくなったのだろう。メリットの裏にはデメリットも付き纏う。飛翔によるエネルギー消費は、小さな昆虫にとっては無視できないダメージにつながるだろうし、音の発信は同種の相手に情報を伝えると同時に、天敵に所在を教えてしまう効果まで持つ。そういうことをしなくてもいいのがカヤコオロギの生活なのだろう。ところが、その無手勝流ライフスタイルのメリットが今損なわれつつあるのだろう。人間はある種の個体数が減れば、それだけでレッド・データ・ブックへ掲載し、絶滅を危惧する。だが、カヤコオロギのように、何が原因で数を減らしているのか、把握されていない種も多いのではあるまいか。これでは何を危惧しているのかさっぱりわからない。ニッチの減少といった一面的な問題ではおそらくない。食糧、天敵との兼ね合い、ニッチを同じにする昆虫との相互作用、気候風土・・・etc. 考えられる要因は多い。また、これらが複合的に絡み合っていることも考えられる。
 カヤコオロギは退化という合理的な効率化を、後戻りできない形にまで高めた上で、おそらく梯子を外されたのだ。ここ数百年の自然界の変化の要因は人間の存在そのものだと言っていい。それとは意識せずに、カヤコオロギが昇った梯子を外したのは人間の所業なのかもしれない。ただ、原因が特定できない以上、そうとも断言できない。
 レッド・データ・ブックを作って人間は滅び行く動物を庇護しようとする。だが、滅びるべくして滅びる種だってある。ノアが方舟に載る動物のつがいを決めたのは、人間が許されていない神の所業である。ある動物の絶滅をたかだが人間が危惧したとて無意味でしかない。このように一旦昇った梯子を外され、下に戻ることなく滅びていった種など、千種や二千種ではきかないだろう。それも必然だったのだ。梯子は何ものかが作為的に外したのではなく、外れたに過ぎない。

 梯子を外された人間はどうすべきなのだろうか? 誰かサンのように飛んで、水平距離十二メートル先の物干しか何かに落下し、奇跡的に生還を遂げるか、そのまま「屋根の上のバイオリン弾き」になってしまうか・・・・。言えるのは、その状態でも生き続ける算段をするべきということだ。



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