キチョウ

チョウと言えばキチョウ?


 胡蝶という言い方がある。胡、つまりエビス、外国の蝶ということか? だが、一般的なチョウに対して、胡蝶と呼ぶような気もする。バタフライはバターを塗り込めたような飛ぶ昆虫。チョウは元々バタ臭い存在であるということだろうか。そういえば、確かにアゲハなどはエキゾティックな装いであるようにも見える。
 織田信長の正室は斉藤道三の娘だ。時代劇や歴史ドラマなどでは「お濃」「濃姫」などと呼ばれるが、それは固有名詞ではない。美濃から娶ったので、信長がそう呼んだとされる。歴史小説家達が、織田信長のブッキラボーなパーソナリティを肉付けするために利用したエピソードであろう。天下を睥睨するようになる人物の正室が、「美濃から嫁いだ女」などと一般的に呼ばれていたとは思えない。信長が怖くてそのようなことは誰にも出来ないだろう。一説には彼女の名は胡蝶であったともされている。現代女性で蝶の名が付く女性といえば、ミヤコ蝶々、飯田蝶子(双方とも故人で、現代女性とは言い難い)が想起されるが、リアルで自然な名前が流行りの時代なので、コメディアンでもない限り、名前負けしてしまうのだろう。戦国の梟雄・斉藤道三の親バカぶりが窺われて微笑ましい。きっと蝶よ花よと育てた愛娘だったのだろう。

 胡蝶と呼ぶより日本在来の蝶に相応しいのは、シロチョウの類だろう。モンシロチョウならおそらく日本各地の温暖な季節には必ず見ることが出来る。シロチョウといいながらも、シロチョウの類には黄色い翅を持つものが少なくない。モンシロチョウと同じように翅に目に付く紋を持ち、地が黄色のモンキチョウ、翅全体が黄色いキチョウ、上翅の上端(褄)が黒いツマグロキチョウ、やや高地に棲むヤマキチョウ、スジホソヤマキチョウなどで、寧ろ白い種を上回っているかもしれない。 
 色素が抜けてしまったアルビノ(白子)が畸形であることが示すように、自然界で白い色を呈した種類というのは存続が難しいように思える。花の色も白よりは黄色を基調とした方が多い。花粉を媒介する昆虫の視界に目に付きやすいということもあるらしい。そういうこともあってか、黄色いチョウは白いチョウよりも、遥かに据わりがいいように見受けられる。
 シロチョウの類が日本で隆盛している大きな理由のひとつに食草の選択がある。アブラナ科、マメ科といった極ありふれた、どこにでもあるような植物を糧としている。モンシロチョウはキャベツ畑を荒らすことで有名であり、アブラナ科の植物を専ら食糧とする。それに対してキチョウは、レンゲ、ネムノキ、クサフジ、ハギ、ヤハズソウといったマメ科の植物で育つ。ストライク・ゾーンもかなり広く、今の日本では都市部でも充分に旺盛な繁殖が可能だ。
 普通に見られるのは夏型だが、開帳45mm程度と、モンシロチョウ、モンキチョウより一回り小さい。飛んでいる様子はかなり頼りなげな印象がある。モンシロチョウの幼虫は典型的なアオムシであるが、キチョウの幼虫は細長く、かなり繊細な感じがする。形状だけなら緑色のシャクトリムシに近いかもしれない。これがかなり頻繁な脱皮を繰り返し、五,六令程度で終令に達するらしい。孵化から蛹化まで二十日弱、蛹の期間が五日程度といったところか。モンシロチョウよりはじっくりと成長する印象だが、せわしないことには変わりはない。
 ライフサイクルは短い。年に五〜六化もするという。チョウは人間の目には美しい翅を持っているように見えるかもしれないが、その翅は傷みやすく、羽化後、決して長寿の昆虫ではない。成虫として短命な昆虫として、セミやカゲロウが知られているが、チョウとて大差がない。十数日で翅はボロボロになり、程なく力尽きる。こういった個体の脆弱さを補うのが、種としての数の戦略なのであろう。
 夏型と春型には明確な違いがある。翅、特に上翅に黒褐色の縁取りがはっきりしているのが夏型である。春型はのっぺりした黄色の地ばかりが目立つ。実はこの春型というのは、前年の晩秋に出たもので、越冬して春先の三月頃に活動を再開した世代である。頼りなげなキチョウが成虫で越冬するというのは以外である。草の葉の裏などにじっとしているらしい。この世代だけ長寿ということか。
 よく父が就寝する際に、「目を閉じたらもう明日か」などと嘆いていた。大病を患った父はこの先いくら生きられるのかに明るい希望が持てないと考えていた。それだけに時間を大切にしたかったに違いない。夜の就寝時間は、父にとって単なる空白に過ぎず、有効な時間はそれをスキップして、夜眠りに就く前から朝の目醒めに連続していた。一見、長寿に見えるキチョウの越冬する世代にも同じことが言えるのかもしれない。冬に活動を停止している時間は、キチョウにとっても長い時間の途絶に過ぎず、生きている時間への実感は、他の世代と変わらないのかもしれない。
 一般の人から寄せられた短歌を講評するTV番組で、チョウが一組じゃれ合っていたのが、ふと目を離した瞬間に空に吸い込まれて視界から消えたというような歌を取り上げていた。秋の澄んだ空の高さを効果的に表現しているとのことだった。杜氏はそれがキチョウのつがいで、求愛行動か交尾の前段階を踏んでいる最中だったのではないかと想像していた。選者は上昇気流にでも煽られたのだろうかと言っていたが、求愛された側の雌が雄の気をはぐらかすかのように逃れるような行動を取ることもある。また、秋のチョウは弱いとも言っていた。果たしてそうだろうか。求愛行動が営まれていたとすれば、それに続く産卵も近々行われたハズで、越冬する世代ではない。だが、秋のキチョウは越冬して翌春まで生き延びるだけの強さを持っているのだ。弱々しくは見えても、弱いということはない。歌を詠み、人の作品を評価する立場であるのなら、生物学とまでは言わぬまでも、通り一遍の博物学的常識は備えていて欲しいものだ。
 日本人の春は年度が改まる四月を以て本格化する。四月ののどかな陽光にはまっさらのランドセルや板についていないスーツや、穢れを寄せ付けないモンシロチョウの白や潔く散る桜の花が良く似合う。だが、季節の移ろいの中で、ふと安らぎを感じるのはキチョウの黄であると感じるのは杜氏だけだろうか。未だ寒さの残る三月に姿を現し、他のチョウが死に絶えた十一月にまで居残ってシロチョウの季節に幕を引くキチョウこそが、日本を代表するチョウなのかもしれない。



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