

「もう森へなんか行かない」というシャンソンがあった。フランソワーズ・アルディの曲だったかもしれない。山田太一脚本のTVドラマだったようにも思うが、テーマ曲に使われていた。余談だがアルディの代表曲「さよならを教えて」は松任谷由実の「まちぶせ」と同じ曲である。松任谷が「アルディが好きだ」と公言していることを考え併せると、不思議な偶然である。松任谷はプロコル・ハルムの「青い影」と同じ曲も二度に渉って書いている。「ひこうき雲」と「翳りゆく部屋」である。しかも「プロコル・ハルムが好き」だそうである。ここまで来ると剽窃家というより、巨匠と呼ぶに相応しい。少なくとも確信犯であろう。
「もう森へなんか行かない」と悲しげに呟く少女の身に何が起こったのかは自明である。森は心地のいい木陰や心浮き立つ木洩れ陽や涼やかな清流を用意しているかもしれないが、人間の原初的欲望を喚起する深い闇を懐に抱えている。集落で本能とは相反する社会的ルールを遵守しているヒト、ホモサピエンスも森(=獣性、野性)の呼び声に僅かに残された本能を喚起されるのだ。赤頭巾ちゃんを襲った狼は単なる恐ろしい肉食獣のことを指しているのではあるまい。「もう森へなんか」と虚ろに繰り返す少女とて、緑の誘惑に駆り立てられたからこそ、手を引かれるままに森へと足を踏み入れたのかもしれない。そして森に足を踏み入れたまま帰ってこなかった人達が、人狼の伝説として語り継がれているのかもしれない。(帰ってくれば浦島太郎、リップ・バン・ウィンクル? いえ、今は千と千尋の神隠し)
石川さゆりではなく、松本清張の「天城越え」が映画化されたことがあった。スクリーンを被う伊豆の深い緑は、幼い主人公が蠱惑的な水商売の女に惹かれる情を掻き立て、通りすがりの無頼漢にその女を襲う劣情を喚起し、主人公に暴漢を殺害させる憎悪を支配する。彼らが緑のトンネルをくぐらなくては、事件は起こらなかった。そう考えると、この映画全体を包んでいる緑はやるせないほどに官能的だ。
デヴィッド・リンチの「ブルー・ヴェルヴェット」は題名こそ青が基調だが、デニス・ホッパーが演じる偏執的な犯罪者はじめ、主人公のカイル・マクラクランさえ、やがて飲む込んでしまう緑の欲望からの誘惑が色濃い。
杜氏は二歳から小学校三年の途中まで、山の懐に抱かれた電気機器メーカの社員寮で過ごした。山と言っても標高百数十メートルに過ぎず小高い丘の部類なのかも知れないが、その山が培っている動植物は多様で豊かだった。父の勤め先は誰でも知っている大きな電機メーカであるし、住まいも首都圏であったが、昭和三〇年代は田舎ではなくとも人々は自然と隣り合って生活を営んでいた。
寮の電灯には山から下りてくる様々な昆虫が乱舞していた。電灯に近い壁には夜ともなれば多種多様な蛾が壁画と化したようにへばりついて動かなかった。杜氏は蝶、蛾の鱗翅目の昆虫が、昆虫としては好きな方ではない。英語でバタフライであることは有名だが、意味を考えると「バターを塗りつけたような空飛ぶ昆虫(蠅)」ということになる。鱗粉のバターを塗った様子が好もしく思えないこともあるが、この夜の寮の壁面の、森からの闇を運んできたようなおどろおどろしさが、子供心に染みついてしまったこともある。夜中に共同トイレへ行かなくてはならないときなど、これらの壁の横を目を固く閉じて通らなければならなかった。実際に鱗粉で害を及ぼすのはドクガの類とモスラだけであるのだが。
寮への森からの訪問者は夜の蛾だけではなかった。初夏から梅雨、夏にかけてカミキリ、クワガタ、カブトムシ、コガネムシらの甲虫類も灯りに誘われて下りてきたし、フウセンムシなども水の入ったコップに飛びこんで愛嬌を振りまいていた。裏の堆肥にはゴミムシ、オサムシ、シデムシがたむろし、マイマイカブリもカタツムリの殻に頭を突っ込んでいる姿を見せてくれた。昆虫だけではなく、ガマガエルやアオダイショウ、ヤマカガシなどの両生類、爬虫類も訪問者に名を連ねていた。
その中にチョウも多様に含まれていた。モンシロチョウは無論、アゲハ、アオスジアゲハ、ジャコウアゲハ、モンキアゲハなどのアゲハ類、イチモンジセセリ、ダイコクセセリなどのセセリ類、ヤマトシジミ、アカシジミ、ウラギンシジミ、ルリシジミといったシジミチョウの類、アカタテハ、ルリタテハ、シータテハ、キタテハのタテハ類・・・。でも、数は多いのにあまり省みられないチョウもいた。チョウは必ずしも華やかな羽を持っているものではない。蛾に近い地味な羽しか持たぬものも少なくはない。
ジャノメチョウ、ヒカゲチョウという類がいる。科でいえばジャノメチョウ科にくくられる。ヒョウモンチョウはその名の通り豹に似た柄の羽を持つ。これも色彩からいえば黄褐色が基調で派手ではない。豹柄を纏ったヒョウモンチョウはタテハに属する。ヒョウモンチョウに似ているジャノメチョウ、ヒカゲチョウはやはりタテハに近い種族なのであろう。
タテハは他のチョウと分かたれる明瞭な相違点がある。留まり方である。多くの蛾のように羽を拡げて留まるのだ。羽の裏が木の葉そっくりであることで知られるコノハチョウはタテハの類なので、羽を拡げ、表を見せて留まる。せっかくの木の葉そっくりの模様は隠れてしまう。コノハチョウの模様が擬態とは見なされないのはこの理由による。普通、タテハチョウの類は山や森林にいることが多く、印象としてシロチョウやアゲハのような開放的な印象はない。「バタフライはフリー」という登場人物がアパート(マンション?)の隣同士の二人の男女しか出てこない有名な演劇があって、映画化された作品ではコメディエンヌの常としてよく見ると美しいゴールディ・ホーンが主演しているが、バタフライはバタフライでもホーンなら渋味が目立つタテハではなく、シロチョウやアゲハであろう。ただ、タテハチョウはただ渋いだけではなく、落ち着いた華やかさを秘めている。木洩れ陽に一瞬照らされたアカタテハ、ルリタテハなどには、山野草に出会って庭の花には見出せない野趣を覚えるのに似た印象がある。このタテハから華やかさを還元してしまったのが、ジャノメチョウ、ヒカゲチョウだと言ってもいい。
ジャノメチョウのジャノメは伊達や酔狂でそう呼ばれるのではない。また、雨の日に親の迎えを待っている幼子にさしかけられる傘とも無関係だ。大きな目に似た紋様を持つ昆虫は、共通したメリットを享受している。それらの補食者は襲おうとした瞬間に目の紋様を見て、自分より強大なものに襲いかかっている錯覚にとらわれて、たじろぐのだ。一瞬でもたじろいでくれれば、捕食者から逃れるチャンスは大きくなる。カカシ代わりによく大きな目を象った風船のようなものが田畑に張り巡らされているのを目にする。生活経験豊富なカラスまで、このような子供だましにたじろぐ習性を持つ。ジャノメチョウはそれを自前の羽で行っているのだ。
ヒカゲチョウの中でも、キマダラヒカゲはとても頻繁に人の居住領域に姿を見せる。食樹の関係もあるのかもしれない。山の麓に近い岩陰、木陰などを好む習性も影響しているのかもしれない。とにかく、夏の昼間、冷房もない部屋で窓を開け放っておくと、必ずと言っていいほどキマダラヒカゲが入ってきたものだった。セミの羽化後の寿命が一週間程度であることはよく知られているが、チョウも似たようなものであるらしい。だいたい、脆い羽に剥がれ易い鱗粉。チョウの最も特徴的な部分である羽だが、とても傷み易く出来ている。羽が傷めば移動にも支障を来すし、生殖相手を見つけることもままならない。部屋に紛れ込んだキマダラヒカゲは外敵に襲われることなく、安全ではあるが、時間を空費しているように感じる。ハチやゴキブリなら血相を変えた人間に退治されるか追い払われるが、何しろ役に立たない代わりに無害なキマダラヒカゲは大概そのまま放置される。稀に昆虫に対する知識を持たぬご婦人方や子供が、「蛾だ、蛾だ」などと気味悪がって追い回す(逃げ回る)かもしれない。そしてカーテンの影で干からびて息絶えているキマダラヒカゲを掃除のときに初めて発見されたりする。
掃除のとき発見されたキマダラヒカゲの羽を改めて見ると、やはりジャノメチョウに分類されるだけのことはあり、目に似た紋様が鏤められている。西洋の妖怪に当てはめれば、百眼の巨人アーガス(ウルグス)といったところだろうか。それはそれで捕食者に恐怖感を喚起するかもしれない。
このように特別な武器も持たず、際立った特徴もない、冴えないキマダラヒカゲであるが、繁殖力が弱いということは決してないと思われる。毎年あれだけ頻繁に姿を見せるのだから、生物としてはかなりのしたたかな面も持っているのだ。
キマダラヒカゲにしてみれば、人家は居心地のいい森の入り口に近い日陰に過ぎないのかもしれない。でも、杜氏にはこの何の変哲もないように見えるチョウが、森からの誘いの使者であるように感じることがある。ヒカゲチョウを追っていたのが、やがてとても似ているヒョウモンチョウにすり替わり、タテハチョウの味わい深い姿に変わる。そして、環境破壊に対応する能力に欠けるために山奥に引き籠もってしまった日本の国蝶にして、世界最大級のタテハチョウであるオオムラサキの華々しい美しさに視線を奪われてしまえば、人間はもう森から出られなくなってしまうかもしれない。その段階に至って「もう森へなんか行かない」と叫んでも、あなたの声は誰にも届かないまま森林に反響するだけかもしれない。
キマダラヒカゲの姿に季節感と郷愁と親近感を覚える杜氏ではあるが、森からの使者として尊重してあげなくてはならないとも感じてしまう。キマダラヒカゲの紋様には、かすかではあるが、森の深い緑が秘める狂気が刻まれているように見える。おそらく、見つめれば見つめるほどに・・・・。
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