
![]()
読者の一人(といっても常にオフラインで会える人なのだが)から、杜氏のような見解だと人の為せる業はすべからく自然に反することで、最早人間は自然のシステムに回帰することなど不可能なのではないかというご指摘を承った。ある意味でもっともである。現実的な考え方でもある。だが、杜氏は人の為せる業、つまりアートが、自然の営みと対峙するという一般的な立場を採っていない。人間がこの地上で生きる生物である以上、それは人間の生命活動も自然に包含されるということを意味する。アートはネイチュアから切り離して互いに拮抗するワケではなく、アートもネイチュアの部分集合に過ぎないということだ。例えば花粉症は本来針葉樹の受粉に与らなかった花粉が地面に吸収されるべきところを、人間がそこかしこを舗装して土を覆ってしまったために起きた現象だが、これも人間と言う環境に大きな影響を及ぼす生物がもたらした自然条件の災害と捉えることが出来る。HIVウィルス感染も古代ギリシア時代に遡ってプラトンが唱えているホモセクシュアルよりヘテロセクシュアルな恋愛こそ妥当というプラトニック・ラヴに現代の風俗習慣がそぐわなかった結果だ。だからといってプラトン先生のように、同性愛者が悪いなどと言うつもりはない。それは繁栄し過ぎた人間という生物が生殖以外の目的で性交渉を持つに至ったことなどが嵩じて生じた自然のフィードバックなのかもしれない。BSD、狂牛病も草食獣の食欲の赴くままの食生活を奪ったことの報いであろう。自然から逸脱すれば、巡り巡って因果が人間に戻ってくる。その因果も含めて自然なのだ。人工が自然を駆逐していると考えているのは人間の傲慢である。
ただ、現代人はあまりに文明の恩恵に依存しているので、最早それなしでは生活が成り立たない。因果応報を覚悟で突っ走るしかないのだろう。それに対して下される因果も自然の一部である。可笑しいのは、人間が「バベルの塔」などの寓話で、そういったことの本質をかなり的確に理解していることが明らかなのに、バベルの塔に登場する人間達と同じ所業を目先の私利に捉われて容易に愚行を冒していることである。自然のフィードバック機能に対して、人間のそれは明らかに劣る。だが、冒頭で述べたように、人間の生活に視点を据えれば、自然の営みが確かに妨げとなることは明らかである。
コアオハナムグリは最も数多く日本に分布しているハナムグリかもしれない。花蜜を求めて多様に渉る花を訪れる。アオハナムグリに似るが、かなり小型で体調は10〜15mm程度である。明るめの銅緑色の地に細かな黄色の紋が鏤められており、全くの普通種ではあるものの、なかなか華やかな雰囲気を醸している。カナブンと同じく、前翅を閉じた状態で身体を頑丈な甲冑で守りながら飛ぶことが出来る。メタリックな質感の体表面ではあるが、細かな産毛のようなものに覆われており、柔らかな印象を受ける。春ののどかな日差しが似合う昆虫といえる。集団で競って花に集まっている様子は、正に花に潜っていると表現するに相応しい。
繁殖力の旺盛さは、好みはあるにせよ、特に食糧とする花の種類を選ばないことに起因するのかもしれない。食糧の多様さはどこにいても逞しく生きてゆくことを可能とする。しかし個体数が多いことはかえって徒になることもある。コアオハナムグリは柑橘類の花も好む。本来なら雄蘂から雌蘂へ花粉を媒介する昆虫は植物の繁栄にとって、なくてはならない協力者である。花を訪れてもらうために、植物は葉の一部を変形させて雄蘂、雌蘂を包み、蜜と芳香で昆虫の来訪を誘うようになった。ハナムグリの類は鱗翅目昆虫とは違い、花の奥まで入り込んで花粉まみれになっていたりする。花にとってありがたい存在に思える。ところが栽培という人間独自の行為から考えると、ハナムグリは歓迎するワケにはいかない昆虫となる。
ご承知の通り、コガネムシ類の肢は頑丈で、しかも力強い。果実となる部分を傷つけてしまうことが多いという。コアオハナムグリに傷つけられた柑橘の花は、傷ついたままで結実するらしい。へたの部分から放射状に走る傷が残った実は、商品にはならない。またコアオハナムグリの大量発生に見舞われたミカン畑は結実率自体も落ちるらしい。だがこれは完全に栽培を行う人間から見た被害だ。ミカンは本来人間に食われるために実を付けるのではない。鳥や動物に食べてもらい、種子を遠くへ運んでもらうのが目的で、人間に食われたところで、種子は日の目を見ない。鳥、動物ならミカンに商品としての価値があろうがなかろうが、へた付近に傷があろうとも平気で食べる。また、一種類の植物を栽培用に不自然な形で一箇所に集めているから、結実率も落ちるのであって、周囲に他の種類の樹も分散している環境だったら、選り好みの少ないコアオハナムグリは柑橘類ばかりを訪れるとは思えない。リスクは適度に分散されるハズだ。
こうしてコアオハナムグリはミカン畑の厄介な虫として駆除されることが多い。ところが、ハナムグリとケシキスイの類を退治した地域で、ミツバチが大量に死に、養蜂家が頭を抱える事態が発生することがあったらしい。これらの甲虫の駆除に使った農薬が、ミツバチにも効いてしまうのだ。ミカン農家も養蜂家も、栽培や飼育を行うからこそ、生産性を挙げようとするが、反面甚大な被害が発生する。ミカン畑という特殊で閉鎖された空間にも、ある特定の昆虫のみを排除しようとしても、周囲への影響は避けられない。昆虫の生態系はそれほど単純には出来ていない。人間にとって畑は「害虫」から守るべき人工の土地であっても、ハナムグリやミツバチにとっては自然の一部でしかない。
コアオハナムグリが柑橘類の実を損なうことからなのか、「花にとって厄介な昆虫」などという言及も見られる。花(植物)でない身で、どうして迷惑であるなどと断定することができるのだろうか。傷ついた実は傷から放つ芳香によって、種子の運搬者となる鳥や動物を呼び寄せているのかもしれないのに。人間のみの利害に捉われてしまうと、自然が下している最適な解を「害虫が為せる邪悪な業」としか見えなくなる。「風の谷のナウシカ」の腐海、王蟲のスタン・ピートは、杜氏の知る限り、自然のフィードバックの一見災害としか見えない浄化作用を最も鮮やかに表現したものである。その原型は母なるナイルの氾濫であり、パ−ル・バックの「大地」の飛蝗の大移動であろう。
自然に帰れ、と叫んだのはジャン・ジャック・ルソーだった。ルソーがどういうことを意図していたのかを、最早窺い知ることは出来ない。だが、ルソーの「エミール」などを読むとき、対峙するものへと歩を進めて戻るイメージを持つのは妥当とは思えない。対峙していると考えていたものが、実は自分達を包み込んでいると視点の持ち方を変えることこそ、「帰る」ことであり、物理的な移動など必要ない。天動説から地動説への視点の転換のような働きかけが必要であろう。つまりは、「鯨は可愛い生物であるから捕鯨は罪悪だ」とか「犬を食べるのは野蛮な習慣だ」などと、皮相な理由からデモを張るようなものとは違う。このありふれた昆虫のありふれた生態が及ぼす人間の連鎖的な矛盾は、人間が真の意味で自然に帰ることの困難さを物語っているように思える。
Winery 〜Field noteへ戻る