コクゾウムシ
知らず知らずのうちに食べているかも
世の中が健康ブームに飲み込まれてしまい、旗色が悪い食品が増えている。動物性脂肪、動物性蛋白質よりも植物性の方がベターであると皆思い込んでいる。「塩分控えめ」と称すれば、それだけで利用者の健康を気遣っているという意思表示となり、付加価値として機能する。だが、実際には動物性脂肪/蛋白質も塩分も生命活動には必要であり、過剰な摂取は控えた方が好ましいということに過ぎない。
野菜を摂れなどと、サラダドレッシングや野菜ジュースを製品として商売している業者がうるさく
CMで繰り返すのも、戦後日本人の食生活が欧米型にシフトし、野菜を摂る機会が減っているせいであろう。野菜ばかり摂っているとしたら、逆に「健康のため肉や魚もしっかり摂りましょう」などと、今度はハムのメーカがスローガンを打ち出すかもしれない。
JTのタバコのパッケージのネガティヴなメッセージ(色々バリエーションはあるものの、「あンた、これ吸ってると死ぬよ」の意)とは似て非なるものである。
藤原京が発掘されたときに、人糞の中にコクゾウムシの死骸が大量に見つかったという。コクゾウムシは
3.5〜
4mm程度の小型の鞘翅目昆虫で、その名の通りゾウムシの一種である。ゾウムシの多くは、朽木を食糧とするため、口吻があたかもゾウの鼻の如く発達したことは既に述べた。ゾウの鼻に似てはいても、その口吻は朽木を掘削するために硬く頑丈に出来ている。朽木は比較的どこにでもある存在で、生木と違って植物の生命力の抵抗なく安易に獲得することが出来る。だが、それだけでは何らかの理由で生きていけない種が、朽木以外の食糧に適応分散することにより、ゾウムシの多様化が進んでいる。
人間が食糧を栽培し、貯蔵する方法を定着させたとき、穀物を食糧してきた昆虫もそれについたまま、はからずも一緒に貯蔵されてしまったのだろう。そして、人間の庇護下で育成することによって、生存上の高いメリットを得て繁栄したと考えられる。その代表的な種がコクゾウムシである。世界各国で穀物の大害虫と指弾され、日本では主に精米を害する。だが、穀類全般に対応可能で、パスタなども好むらしい。つまりは、人間がターミナル・アニマルであるために、世界中のどこででも生存競争の勝者として繁栄するに足る習性を持った生物である。
杜氏も一再ならず、米櫃にコクゾウムシを発見したことがある。捕まえようにもとても小さく、米櫃の壁を伝って連中も必死に逃げようとするのだが、大概は落ちて米の中に潜り込んでしまうので埒が明かない。これを放置すると場合によっては大発生してトンでもないことになるらしい。
幼虫は米に穴を開けて、中に潜む。ウジ型の形状とされるが、カブトムシやコガネムシの幼虫と同じ白いイモムシが小型になったものと呼ぶ方が相応しい。潜入するために開けた穴は自身の分泌物で塞がれる。だから外からは容易に窺えない。吟醸酒という酒の種類がある。米の外側を削って雑味、エグ味などを除く手法を施した米を醸造する。吟醸香という独特な臭気を伴い、好きな人には人気を博している。杜氏は最初こそ感心したが、どこか人工的なもの(アサヒ・スーパードライに共通するもの)を感じあまり好まない。その吟醸米と逆のこと(コクゾウムシにとっては人間と同じこと)をコクゾウムシの幼虫は試みる。つまりは米の内部を自分が食べてしまい、外殻だけを残すのだ。人間が好む部分は、昆虫にとってもおいしいということだ。
恵まれた条件で育つためか、育成は早く、産卵から羽化までは一ヶ月足らずで済む。このライフサイクルの速さも、この昆虫が短期間で個体数を増やしやすい原因になっている。羽化といっても、翅を使って活発に活動するとは考えにくい。成虫は羽化後、やはり米櫃の中で、今度は外側から米粒を喰って生活することになるし、配偶者探しも同じ米櫃の中で行われるに違いない。少なくとも杜氏は、空間を翅による飛行を以て移動しているコクゾウムシを見たことがない。
米を研ごうとすると、必ず水に浮く、つまり軽い米がみられる。崩れてしまうものもある。これはコクゾウムシの幼虫に蝕まれた米である可能性を帯びている。成虫は黒褐色をしているので容易に見分けられるが、幼虫は米と同じ白さなので識別しにくい。もしかすると、知らず知らずのうちにコクゾウムシの幼虫ごと米飯を口にしていることもあるかもしれない。
藤原京での発掘結果は、事実その頃の人々はコクゾウムシもろとも穀物を摂取していたことを如実に示している。コクゾウムシが混入していることを承知の上、意図的に当時摂取が難しかった動物性蛋白質をそれによって補ったのではないかという説まで出ているらしい。
無洗米という商品がある。米を研ぐのは米飯を主食としている日本人の風習である。中国人も米は研ぐと、歩く中華思想、アグネス・チャン先生がノタまっていたから、韓国、朝鮮も同じなのかもしれない。無洗米というのは、その面倒な通過儀礼である米研ぎを省くことが出来るという優れものだ。だが、極東の人間が米を研ぐのには、表面をきれいにすること以外に、鼠の糞やコクゾウムシ、ニカメイガ、コクヌストのような昆虫、または昆虫に害された米を除去する機能も含まれている。
米にコクゾウムシなどがつくのも、その米がどうであるかよりも保存状態に依存する。いかに無洗米であろうと、代々コクゾウムシを飼っている米櫃で保存すればコクゾウムシの温床となってしまう。世の中便利になるのはありがたいが、横着には応分のリスクが伴うものだ。コクゾウムシを駆除する薬品(その名も「コクゾール」)もあるらしいが、そのままコクゾウムシを口にするより、その薬品が残留した米を食べる方が危険らしい。こうなると、何のための駆除だかわからない。
人は穀物の収穫を大地の恵みと称して、祭礼などで感謝を捧げる。だが、人間以外の生物も大地に生きており、その恩恵に浴す資格がある。少なくとも害虫などと呼んで忌み嫌ったり、憎んだりする資格は、人間にはないハズだ。それらを独占することこそが罪悪である。コクゾウムシは主に人間の住居の米櫃に棲むが、本来は大地に足をしっかり着けて生活している生物だ。人間は人口と自然を相対する対照的な価値として区別するが、昆虫にはそのような区別など存在しない。人間が考えた保存という大地の恵みの独占の方法など、コクゾウムシには生き延びて子孫を繁栄しやすい温床に過ぎない。コクゾウムシを招き入れ、飼育していることに、当の人間だけが気づかない。人家や米櫃など、コクゾウムシにとっては大地の一部でしかないのだ。
米というのはとても示唆に富んだ主食である。一回に人間が食する米の量を、何千何百何十何粒と表現するのが正確なのであろうが、ご飯何膳と表現した方が余程実感としてわかりやすい。元々がマクロで本質を示す食物なのである。中国人や東南アジア人と違って、日本人には昆虫を好んで食する習慣が、長野県の一部の地方を除いて存在しない。だが、もし米櫃に巣食っていたコクゾウムシを無意識に何百何十何粒のうちの一匹食べてしまったとしても、罪深い人間はそれを大地の恵み、人間自身が招き入れた自然の一部として受け容れても致し方ないと杜氏には感じられる。例によって極めて少数意見であるとは思うけれど。
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