オオムラサキに劣るのか?

 その昔、高度経済成長があまねく庶民にまで行き渡っていなかった頃のオハナシ。メロンは大病でも患って入院でもしない限り、一般庶民には手が届かない高級品だった。今でも高価かもしれないが、高嶺の花感は当時と今では比較にならなかった。メロンと単に言えば、それはマスク・メロンを指す。網目のマスクをしているからそう呼ばれるのではなく、麝香、つまりフランス語ならムスクの香りが漂うという意味である。当時庶民の食べる瓜はスイカであり、キュウリであり、カボチャであった。フルーツとしての瓜はマクワウリであった。小粒で形もメロンとは異なるが、それしか知らないので杜氏のようなビンボー人のコセガレはマクワウリに満足していた。しかし、マクワウリは品種改良され、やがてプリンス・メロンと名を変えて史上を賑わすことになる。メロンのひとつのヴァリエーションであることを名乗っても、所詮はマクワウリである。だが、名前が変わっただけで、大層なものになった気に、一瞬させられたものだ。だが、味の方は大して変わらなかった気がする。今、思い出したが、マクワウリは地方によってはアジウリと呼ばれ、北海道出身の亡父もそう呼んでいた記憶がある。
 プリンスというのは、キングに及ばないことを示す。マスク・メロンがキングと呼ばれていたワケではないのだが、味も大きさもマスク・メロンには及ばないこと、プリンスといえども高貴で可愛い印象があるので、肯定的なイメージを示したかったことなどから、こう命名されたに違いない。生物の種にも、一般的で大きいメジャーな種類に対して、身体が小さかったり、特徴が印象的ではないものに対して形容詞を前に振ることがある。「コ」とか、「ヒメ」とかがそれに当たる。後置の「モドキ」や「ダマシ」とはニュアンスが少し異なる。だが、オオスカシバとかオオミズアオのように、スカシバなりコスカシバ、ミズアオなりコミズアオといった対応する小さなまたは普通の種が存在せず、大きなことを強調するためにオオなる形容を冠している種もある。「コ」とか「ヒメ」が振られた昆虫は、コカマキリ、コスズメ、ヒメギフチョウ、ヒメシロチョウ、コミスジ、コエゾゼミ、コミミズク、コオニヤンマなど数多い。
 大政、小政といえば、どうしても大政の方が立派な呼び名に思えてしまう。だが、コクワガタのように個体差が大きく、場合によっては普通種を上回る大きさを示すものもある。また名古屋地方にしか見られないヒメタイコウチは、当地でも珍しいらしく、本家のタイコウチを付加価値の面で凌駕している。一概に「コ」や「ヒメ」がネガティヴな形容であるとは言えない。
 大相撲の小錦は巨大な体躯とスマートな頭脳の回転で人気を博したが、その前に大錦という四股名の力士もいた。相撲協会理事長となった横綱・北の湖の同期である。大器と期待されながら、大錦の方はさしてパッとしないまま(少なくとも大関には昇進しないまま)現役生活を終えている。どうも、過去の力士からの四股名の継承が行われる大相撲の世界においては、小錦の方が大錦よりも格上の存在であるらしい。どう見ても杜氏達が知っている小錦は小さいと言えるような体格ではなかったが。
 倉本聡脚本、萩原健一主演で人気を博したドラマ「前略おふくろ様」で、主人公が勤める高級料亭の名は「分田上」であった。「ブンデンジョウ」ではない。「ワケタガミ」である。下町ながら庶民には手が届きそうにない名店という舞台設定だった。これなど、元々は「田上」から暖簾分けされたことを意味するのだろう。無論、本家の「田上」が格式の高い店で、それに対して遜る意味合いもあるのだろうが、「本家に負けない味」といった出藍の誉れの意識も仄見えたりする。

 コムラサキは日本の国蝶として大変名高いオオムラサキと非常に近いタテハチョウ類の鱗翅目昆虫である。コムラサキには後述するオオムラサキにはない特長もあるのだが、どうもオオムラサキに対して影が薄い。「コムラサキ」をキー・ワードにインターネット検索をかけると、三種類のコムラサキが引っかかる。ひとつは鹿児島だか熊本だか、とにかく南九州系統のラーメンの名店。この場合の「コ」は謙譲の美徳を示したものだろうか。もうひとつはクマツズラ科の植物、ムラサキシキブの近似種。単純にコムラサキを漢字変換すると、濃紫と表示される。植物のコムラサキは濃紫である可能性が高い。因みにこれが三種類のコムラサキでは最も言及されている例が多い。もうひとつが昆虫のコムラサキ。どうもやはり影が薄いようだ。
 オオムラサキがエノキを植樹とするのに対して、コムラサキはヤナギの類に広く寄食する。「昔恋しい銀座の柳」と東京行進曲に詠われたように、昔の日本には東京のど真ん中である銀座にすらヤナギがあった。川ッ縁には必ずといっていいほどヤナギが川面に枝を垂れていたものだ。怠惰な暮らしに堕ちていた小野道風を書に専心するよう動機付けたカエルも、日本古来の脚がない幽霊達も、活動場所には事欠かなかった。だが、最近は河川を護岸化して水害を防ぐ傾向が強いことから、川辺のヤナギも消えてしまった。コムラサキもカエルや幽霊同様、さぞニッチを圧迫されているかと思うのだが、どうも個体数は相当多い普通種であり続け、絶滅などは危惧されていないようだ。エノキの方が普通に見られる印象があるのだが、コムラサキはどうやら広く様々なヤナギに対応しうるらしい。オオムラサキよりは遥かにコムラサキの方が個体数は多い。
 だが、なかなか人目につくことが少ないのは、コムラサキが敏捷で人の気配に素早く反応し、グライダー型の効率のいい飛翔方法で迅速に逃げることや、ヤナギの高い枝の方を達者に飛ぶからであるらしい。幼虫の形態は紡錘形のナメクジ・タイプであり、頭に一対の突起を持っていることからもナメクジを想起させる。オオムラサキもやはり同じようにナメクジ・タイプを採る。卵も釣鐘型の単独で産み付けられることから、コムラサキ、オオムラサキに共通した特徴を示す。
 コムラサキで最も目につく特長は成虫の翅の色彩である。日光が当たらない日陰ではくすんだ褐色に過ぎないのだが、光を受けると角度によって、美しい紫に輝くのだ。その美しさはオオムラサキには決して見られないものだ。一見地味にしか見えないチョウが、突然光り輝くのも、意表を衝いていて面白い。これは構造色と呼ばれ、タマムシが虹色に輝く仕組みと似ている。ただタマムシの翅が偏光板のような一枚板であるのに対して、コムラサキは鱗粉のひとつひとつが偏光を呈する。タマムシのようなタマムシ色にならないのは、鱗粉の偏光率のせいなのであろうか。専攻が物理である杜氏にもわからない。翅の縁近くや中央には縞状にオレンジの斑紋も刻まれており、これもまたオオムラサキの風格とは違った趣きで味がある。ただ、こうした形質は雄だけのもので、雌の翅はこういった輝きを持たないという。雄が雌に示す、ディスプレイ行動のひとつなのだろうか?
 夏からかなり深まった秋にかけて二化から四化ほどライフ・サイクルを回すとされているが、その回数は気候の温暖さに依存する。当然温暖な地方ほど、ライフ・サイクルは活発である。越冬は幼虫でする。食樹であるヤナギの木の皮の切れこみや枝の股に糸で囲いを作って冬眠する。三月のお彼岸の頃目ざめて、木を登って活動を再開するらしい。よくしたもので、冬眠中は周囲に合わせて褐色だった身体が、食餌を始めるとヤナギの若芽の色素で再び緑に変色するらしい。
 サナギは胸部、頭部が膨れた形で、これも特徴的である。羽化した成虫は花からは全くといっていいほど吸蜜はせず、オオムラサキ同様、クヌギなどの樹液を吸いに樹液バーを訪れる。キマダラヒカゲやヒョウモンチョウのような自分より小さなチョウには攻撃を仕掛けて排除するらしいが、オオムラサキが現れるとスゴスゴ退散するらしい。開帳は70mm程度。オオムラサキより2cmほど下回る。
 また獣糞にも好んで寄ってくる。これは多くのチョウに共通する特徴で、ミネラルを補っていると考えられる。チョウの個体数が多く、美麗種が多い台湾では、チョウを採集するために連れていた自分の子供に脱糞させ、寄ってくるチョウを捕らえる風習があるという。美麗なものの正体を見る思いだが、チョウにしてみれば、貴重なミネラル源で死活問題であるのだ。
 飛翔しているときとはうって変わって、吸汁しているときのコムラサキは動きが緩慢どころか、放置しておけば何時間でも静止したまま動かないという。捕らえるとしたら、吸汁の間がチャンスであるらしい。

 「コ」とか「ヒメ」を接頭語に振って、昆虫にネガティヴなイメージを植えつけるのは人間の勝手なフルマイに過ぎない。事実、「ヒメ」と名づけられた昆虫にはどうしても女性的なイメージが付き纏ってしまうが、「ヒメ」と命名された昆虫にも雄はいる。コムラサキはこれほどに魅力に富んだ昆虫であり、オオムラサキとは近似種ではあるものの、切り離して扱うべき独立した種である。それがあまりにもオオムラサキが国蝶として有名な分、余計にネガティヴなイメージを背負ってしまう。
 ただ、そういった宿命的な影の薄さのようなものは、コムラサキの種としての繁殖力、生命力とは無縁である。自然界におけるターミナル・アニマルとしての人間の影響力は決して少ないものではないが、個々の種にとっては「コ」と名付けられようが、「ヒメ」と呼ばれようが、さしたる影響などないということだ。人間はこの辺りの事情を弁え、謙虚に振舞わなければならない。



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