

オシドリ夫婦などという表現がある。実際に仲睦まじい夫婦は世に多いことだろう。だが、芸能人などが殊更に夫婦仲をアピールする際に使われるこの言葉には胡散臭さとあざとさを微かに感じてしまう。そう思わせることで、双方に利益があるパートナーシップなのであり、実際の情愛がどうであるかは無関係であるのではないか、と。ご本家のオシドリとて、夫婦仲が睦まじい鳥であるのは結果であり、そういう生活を営む必然なり因果関係がそういう習性を導いている。人間がそれに何を感じるのかは自由だが、少なくとも情愛が支配的な要因ではないことは確かだ。
だからといって、生きとし生けるもの全ての動機が、利己的な遺伝子継承に衝き動かされていると決め付けるのは如何なものかと思うが・・・。便利な考え方ではあるものの。
つい昨年だったか、「ファインディング・ニモ」というアニメ映画が大ヒットした。カクレクマノミが子育てをするかどうかは疑わしいし(しないとも言い切れないのだが)、雌が集落にいなくなると雄が性転換して雌になる習性を持つので、父性愛というものが存在しない種である。杜氏から見ると許容範囲を逸脱した設定があまりに多く、荒唐無稽以前の問題なのだが、親子連れで映画館に足を運ばせるには格好のテーマなのだろう。昆虫や魚類の多くは生殖/産卵でその任を全うするので、卵は産みっ放しであることが多い。それに小さく弱い存在の幼虫は主により大きな肉食昆虫、鳥、哺乳動物の食糧となり、計算上、一つがいから成虫として次の世代へと遺伝子を継承して天寿を全うする個体がたかだか2でなければ辻褄が合わなくなる。ひとつひとつの個体に愛情を注ぐなど土台とても無理な話であるし、一部の昆虫を除けばそもそもそこまで寿命が保てない。
だが、ハサミムシは雌が産卵後もカビやアリなどの外敵から卵を守り、卵から孵った幼虫の最初の食糧としてその身を提供する。コオイムシも生殖/産卵後も卵と深く関わる昆虫として知られている。
ガムシが間違えて水に入ったままのコガネムシなら、コオイムシは水に落ちたカメムシの様相だ。他の水棲半翅目昆虫、タガメ、タイコウチ、ミズカマキリ、マツモムシなどと比較すると、水中に適した流線形なり紡錘形なりの形をとらない。典型的なカメムシの形状のまま、水棲する。泳ぎはガムシ同様あまり上手いとは言えない。だが、水中でも肢を使って敏捷に動く。肉食性で、ミズスマシのような素速い獲物でも捕らえることが出来る。どこかバランスが取れていない印象がある。水に棲みながら水に慣れきっていない感じだ。タガメ同様、獲物を捕らえたら口から消化液を出して獲物に注入し、肉を溶かして流動食化してから食べる。タガメのように巨大だったり、ミズカマキリ、タイコウチのような奇抜なデザインでも持っていたのなら、もう少し注目を集めたのかもしれない。だが、体長2cm程度のこの昆虫は、水棲の半翅目としてもかなり小型であるし、地味な部類に属する。
進化論を絶対無二のルールである前提にモノゴトを論じるのに、杜氏は常に躊躇いを禁じ得ないのだが、コオイムシは水に親しみ始めたカメムシのプロトタイプなのかもしれない。だから素朴なカメムシの形状をしており、タガメ、ミズカマキリ、タイコウチへと水棲に適した体型へ移行する前の段階だったのかもしれない。
ただ一点、次世代への種の継承においてこの昆虫はユニークな生態を持つ。名の由来にもなっている「子負い」の習性である。雌はつがいの雄の背にびっしりと産卵する。びっしりととは言っても、小さなコオイムシの背中での話で、合計二十数個にしかならない。肉食性でもあり、コオイムシは比較的強い(生き残りの歩留まりがいい)昆虫なのであろう。雌は自分の背中には卵を産めないので、雄の背中に産卵するのは合理的である。
タガメは水草の茎を周回するような産卵を行うが、コオイムシの産卵も卵の形状といい、産卵場所から突き出した卵の様子といい、タガメに似ているところがある。だが、コオイムシの卵は少なくとも孵化するまでは確実にタガメよりも少ないリスクで生き延びることができるだろう。他の水棲カメムシ同様、コオイムシも適宜水中から陸へと上がって、甲羅干しをする習性があるらしい。だがコオイムシの雄に限っては、甲羅干しは単なる甲羅干しに留まらず、背中の卵を水中で窒息させないという効果があるらしい。それを意思と呼ぶのかどうかは別としても、コオイムシの雄には卵を守る意識はあるようだ。ある必然に応じて、ある者はタガメ、タイコウチ、またある者はマツモムシの形を採る方向へ進んだのだとしても、コオイムシの素朴なカメムシの形状と他には類を見ない卵を守る性質が、淘汰される運命にはなかったからコオイムシは今でも存在し続けるのだろう。種の絶滅は必然に基づくものであって、たかだか一生物の種に過ぎない人間が危惧すべきものでも、ノアの箱舟に招待すべきか否かを決めるのは人間ではないだろう。
コオイムシの変わった姿に、母性愛ならぬ父性愛を感じたりするのは人間の勝手だが、著しく見当外れである。オシドリ夫婦のごとく、父親が子育てを主に担当するカップルをコオイムシ夫婦、そういった傾向をコオイムシ族などと呼ぶことがないのは、ただ単にマイナーな現象で顕在化しないだけのことに過ぎないにせよ、コオイムシにとっても人間にとっても幸いであるのかもしれない。
コオイムシの素朴な形状とたどたどしいとも表現できる水中での振舞いは、水がそこにあるからカメムシの類が淡水域をニッチとして分散したことを人間にも痛感させてくれる効果を呈している。「俺達ゃ、街には棲めないからに」である。
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