

とても普通に見ることができるのに、なかなか手が届かないものが世の中にはある。ヤマユリは神奈川県の県花にも指定されている。夏休み前にとても香しく妖艶な大輪の花を咲かせるが、どれも切り立った崖の天辺辺りから人間を見下ろすような佇まいで首を風に揺すっている。目に着くような場所に咲いているような花は、たちまちその美しさと香気に魅せられた人間が伐って生け花にしてしまう。急斜面をよじ登って花を手にするのは余りに危険だ。
一般に最も普通に見られるトンボはシオカラトンボだと言われる。ムギワラトンボではないかと仰る向きもあるだろうが、ムギワラトンボはシオカラトンボの雌に過ぎない。これらが番いながらタンデム状態で飛ぶのを、杜氏達子供は「ゲッツー」と呼んだものだった。”Get two”である。野球のダブル・プレイのことだ。いっぺんに二頭捕らえることが出来ることからそう言う俗称が定着したのかもしれない。だが、確か野球の本場、アメリカではダブル・プレイのことを” Get two”などと言っても通用しないと聞いたことがある。日本だと実況アナウンサーや解説者もそう呼んでいたような記憶があるが。
トンボは甲虫類やチョウと比べて捕獲が困難である。俗に止まっているところを指で円を描きながら注意を寄せ付けて(目を回させて)、捕らえるという方法が提唱されているが、実際にそれを試した経験がある人は、それが殆ど効果を呈さないことを思い知らされたことだろう。杜氏もその一人だ。ヤンマは自分が強い昆虫であることを認識しているのか、ヤンマ道と呼ばれる補食対象が飛びそうな空間を直線的に飛び、外敵を避けるような方向転換などをあまりしない。巨大なオニヤンマ、優美なギンヤンマなどは見た目に立派で美しいし、捕らえたときの歓びも大きいかもしれないが、中型のトンボよりはかえって捕らえやすい。
コシアキトンボはもしかすると、シオカラトンボより普通に見られるトンボなのかもしれない。場所によっては確実にそう言える。水質汚濁にも強く、他の水棲昆虫を市街地から追放する原因となった河川の護岸化にも対応しうる適応能力の高さを見せる。その割には子供達の目に留まる可能性がシオカラトンボよりは低く、捕らえるのが困難であるのは、後述するこのトンボの習性によるところが大きい。
コシアキトンボの特徴は何と言っても、腹部の第三、四節は黄白色であることだ。帯のように見える。羽化し立ての頃は黄色味が強いが、成熟に連れて白色に近づく。ただし雌はクリーム色のままで推移する。これを見た人間が腰の部分が欠落したように思い、コシアキトンボ、つまり腰が空いたように見えるトンボと命名したのだろう。実際には昆虫には頭部、胸部、腹部しかないので、腰ではなく腹が空いた模様である。翅の付け根付近は黒っぽく、帯以外の部分は黒一色に見えるシックなデザインだが、よく見ると体色の基調は黒ではなく、濃い赤紫を帯びたメタリックに光っている。渋好みな配色だ。だが、その配色を確かめるのは非常に難しい。また、成虫にも幼虫にも肢に目立たないが横縞のストライプが入っているのもお洒落だ。
成虫が活動するのも、初夏の5月から秋深い11月にも及び、とても長く見ることが出来るトンボである。このために、シオカラトンボ同様、日本人には馴染み深い種となっている。北海道には見られないが、本州、四国、九州に広く繁殖している。
そもそもがこのトンボ、殆ど止まることがない。いつ見てもせわしなく飛んでいる。だからその味わい深い体色にしても、黒に鮮やかな白い帯としか認識できない。たまに止まっても、沼や池の真ん中から突き出た杭や草の茎であり、手を延ばそうにも届かない。グルグル指で円を描いて幻惑するような悠長なことに付き合ってはくれないのだ。
コシアキトンボが飛行したまま地上に降りようとせず、しかもかなり俊敏な飛行に明け暮れるのは、テリトリの確保にあるらしい。トンボにとってテリトリは食糧の確保以外にもパートナーに巡り会う率を高め、少しでも自分の遺伝子を効率よく時代に遺すという非常に重要な意味を持っている。普段、比較的低い位置を高速で巡回しているのは、テリトリへの闖入者を見張るパトロールであるらしい。そしてひとたび闖入者に会うと、戦闘モードに突入する。争っている同士の二頭で空高く舞い上がって空中戦を展開する。戦闘モードに入ったら、生身の人間が網などを使っても到底届かない高みに上ってしまう。
闖入者は案外多いらしい。これもコシアキトンボが普通種であるせいだろう。人間で言えば人口密度が多く、過密状態なのに違いない。従ってこの縄張り争いは頻繁に発生しているらしい。大概は元から領地を所有していた側が勝つと聞く。だが、闖入者は次から次へと現れ、賽の河原の石積みのように際限なくバトルが繰り返される。つまりはコシアキトンボは飛んでばかりで止まらないのではなく、休みたくとも休めない状態へ同胞から常に追い込まれていることになる。同時に同胞を生存競争へと追い込んでもいる。
賽の河原の石積みも、シーシュポス(シジフォス)の苦役も、プロメテウスに与えられた罰も、際限ない徒労の喩えである。完遂したと思った瞬間に、全てが水泡に帰すことになっている。だが、コシアキトンボが他のトンボと比較して繁栄しているのも、縄張りを守って首尾良く雌をゲットしているか、縄張りを奪うのに成功していい目を見ているからである。どう転んでも種全体にとってはうまく行くように出来ている。また、俊敏であること、飛翔が巧みであることは、テリトリを奪う(または守る)ための差別化要因となるから、これらの形質は種を自ずと強化する。より敏捷で飛翔力の強い個体が生き残り、次世代へ遺伝子を継承すれば、その形質は世代を追うごとに強まってゆく。そしてパトロールとバトルは益々激化してゆくだろう。
数々の故事のように徒労を前提としたものではなく、種全体の繁栄が約束されている構造なのだが、これがエスカレートする程に益々コシアキトンボは休むことを許されぬ種へと追い込まれてゆく。まるで死の舞踏を見るかのようだ。トンボは本来、極楽トンボなどと評されるように、気楽そうに空を自在に舞っているのどかな存在で、人間の目を和ませてくれる存在だ。だが、すべからく肉食で気性の激しいトンボの世界では生存競争も厳しい。中でもコシアキトンボの生態はこちらが気の毒になるほどのいたちごっこぶりである。
コシアキトンボは普通種であることがわかっていても、なかなか掴まえることが出来ないので、「高嶺の花」「憧れのトンボ」だったと、子供時代を振り返って語る人は多い。目に見えているからこそ、そして手が届かないからこその憧れが強くなるというのも人間の心理だ。近所のお屋敷の二階から聞こえてくるピアノの弾き手である令嬢に恋い焦がれるけれど、概してその思いは届かないといったようなものかもしれない。
もっとも、杜氏の子供の頃には、ピアノの音が聞こえてくるような豪邸すら、近所にはなかったが・・・。