

私の出た高校は遊ぶこと、サボることが大好きな気質で、半日授業が週に二回もあった。土曜は無論だが、水曜の午後はロング・ホームルームに当てられていた。これは名目だけのことで実際には何も行われないことが殆ど。午前中の授業が終わると帰宅部の連中は皆一斉に帰った。クラブを持っていない教師も同様である。教師もサボりたかったに違いない。そのくせ、授業は大学の九〇分の講義に慣れる為と称して七〇分授業だった。半日が週二回もあるというのは運動部の連中には少しもありがたくない。長時間練習がそれだけ増えるに過ぎない。杜氏などたっぷり投げさせてもらうことが出来て有り難い限りだった。
修学旅行も七泊八日と通常より少し長かったと思う。おまけに一年のときには「修業旅行」などというワケのわかならいネーミングの旅行があり、これは蓼科高原に二泊ぐらいしたかもしれない。練習しようと思ってハンマーを持参したら、頭がおかしいという扱いをされた。
普通、修学旅行は九州なら九州、北海道なら北海道と明快に行く先が定まるだろうが、母校の場合、最初関西に立ち寄って、それから九州を一周し、オマケのように山口に渡って湯田温泉に一泊し、萩を周って帰ってくるという設定だった。そういう学校だから旅行先でもロクなことはしない。島原でストリップ小屋へ行ったり、行く先々で夜は宴会さながらの様相を呈した。熊本に投宿した際には、「家族への土産」として誰かが買った球磨焼酎が振る舞われることになるのが相場だった。杜氏はビール、清酒、ウィスキーは知っていたが、この地で初めて焼酎なるものを実際に飲んでみた。巷間言われているような臭みは感じなかった。ただ酔い方は清酒の比ではなく、焼酎を飲んだ後、仲間とホテルのロビーのゴミ箱に砂利を一杯に詰め込んで、容易には動かせなくするような悪さをした記憶がある。誰でも通り抜ける道であろう。ン? 違うって? 人それぞれである。
クマと称する生物は数多い。皆、普通よりサイズが大きめで大概色が猛々しく黒く、熊を連想させる外見を持っている。ところが、これらの殆どが熊ではなく球磨、久万から来ているのだという。つまり「九州の」という接頭語なのだ。なるほど、南方へ向かうほど、生物は大型になる傾向があるので、熊を連想しても無理はない。
ただ少し考えてみたら、球磨、久万の語源になったのかは知らないが、九州の原住民で日本武尊に滅ぼされたとされる一族はクマソであり、熊襲と綴られる。日本武尊もクマソを滅ぼした際に、その部族長であった熊襲健(クマソタケル)と戦ってこれを殺したことでタケルの名をもらったらしい。おそらく、人望にも武力にも優れた部族長だったのだろう。クマソに熊の字が含まれているということは、クマを冠する生物達が熊とは無縁と言い切るのも乱暴に過ぎるかもしれない。
クマバチはやはり大型のハチであるスズメバチと混同され、クマンバチなどとも呼ばれる。実際にはミツバチに属する。スズメバチが雑食性で発酵した樹液などの植物性の食糧も好む反面、獰猛な肉食性をも帯びるのに対して、クマバチはミツバチ同様専ら花の蜜を好む。英語でもミツバチの類はBee、スズメバチはHornetと明確に分けられている。クマバチは大きいだけで、スズメバチのように他の昆虫を襲ったりはしない。そういえばグリーン・ホーネットというナゾの覆面人物が活躍するTV番組があった。緑のスズメバチということか。
その助手役が確か日本人の加藤という設定で、若き日のブルース・リーが演じていたのだはなかったか? 欧米人は加藤を「ケイトウ」としか読めなかった。で、これをパロディーにしたピーター・セラーズの「ピンク・パンサー」で見当違いなことばかりする助手が「ケイトー」だったことを思い出す。新春隠し芸大会の英語劇で、ピーター・セラーズを井上順が演じており、「ケイトー」は加藤茶だった。加藤で辻褄が合っているのは偶然か?
かなり脱線してしまった。
杜氏は幼い頃を横須賀の北部、殆ど横浜の南部で過ごした。その当たりに棲息するセミはニイニイゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシだった。ところが時折、聞きなれぬ「シャー、シャー」という大きな鳴き声が混じった。住んでいた社員寮の庭に大きなケヤキの樹があり、そこにクマゼミが来ることがあったのだ。だがあくまで少数派でしかなかった。声は大きかったが、さほど耳にやかましくは感じなかった。
小学校三年の頃、横須賀の北郷地区から、南東部の外れに引っ越した。次の夏、稀少価値だったクマゼミの声が心なしか頻繁に聞こえるような気がした。クマゼミは大型のミンミンゼミ、アブラゼミと比較しても一回り大きく、しかも胸の真中が黒く盛り上がっており、いかにも頑丈そうな印象のセミだ。小学生の時分には仲間と競って獲った記憶がある。
就職して、一時、九州に赴任することになった。梅雨明けするかしないかの時期である。博多の繁華街の天神に歩いて行ける場所に住んだ。九州最大の都会だったのに、町中を蝙蝠が飛んでいた。大型の蝶でも中型の鳥でもない飛び方だったので、蝙蝠に間違いなかった。友人に電話しながら「今目の前を蝙蝠が飛んでるよ」と言うと「そンな所からすぐに帰ってこいよ」と言われた。でも、その一年後、転職して今の職に就くと勤務地は昔から果樹園の多い南武線沿線で果樹に大量にたかる蚊の雄を食糧にする蝙蝠がやはり飛んでいた。「青い鳥」の寓話のようなオチである。(少し違う)
九州では毎朝クマゼミの鳴き声に起された。首都圏の片隅で聞くような大人しいものではない。大音響の合唱だった。セミの鳴き声にはテリトリの主張という意味合いもあるから、数が多くなれば相乗効果で鳴き声も過剰になる。とても関東地方の幾分風情を感じさせるセミ時雨ではなかった。杜氏にとっては目覚ましそのものだった。九州での仕事が決して楽しいものだとは言えなかった分、クマゼミの印象点も杜氏にとっては暴落せざるを得なかった。今でも九州以外にも、沖縄や四国といった南国の地方に出張に出ると、夏はクマゼミが目覚ましになる。
ところが、最近では杜氏が子供の時分より遥かに頻繁にクマゼミの声を聞くようになった気がする。今、活動の本拠となっている市営陸上競技場は、自宅から七キロばかり北西に走った横須賀市街地の外れにあるが、そこにあるケヤキ並木には夏がかなり盛りを過ぎてからもクマゼミが鳴いている。明らかに他のセミを圧倒する勢いで、他のセミは影が薄いとすら感じる。横須賀の北に住んでいた頃もケヤキで鳴いていたことからしても、クマゼミはケヤキを好むのだろう。ただ、それだけではない気がする。
セミはおそらく環境の変化に鋭敏なのだろう。電灯が煌煌と点いている場所では、夜も鳴きやまないことが多くなった。東京を中心としたヒート・アイランド現象に呼応して、伊豆、三浦半島の南部でしか鳴かなかったクマゼミがその版図を北へ東へと広げていてもおかしくはない。事実、帰化昆虫で温暖を好むアオマツムシも、徐々に東北地方へ向かってテリトリを拡大中であるという。
日本武尊はおそらく国家理由に則って、クマソを退け東夷を撃退し続けた。伝説はその撃退の途上で、妻を亡くし、その妻の不在を嘆いた言葉が適地の総称(吾妻=東)となり、やがて撃退が完遂しまいまま倒れたことを物語る。しかし、その意思は「征夷大将軍」に継承される。夷を征す最高の位にある武人。坂上田村麻呂、源義家などはその名の通りの機能を果たすことになる。奇妙なのは、被征服者であるはずだった東夷そのものである東北の民が、ねぶた、ねぷたで彼らを軍神として崇め奉っていることである。
天皇制を崇め、未だ靖国参拝などを平気な顔で仕出かす「人種」は云う。日本は単一民族国家であると。そうだろうか? 蘇我氏対物部氏の抗争、壬申の乱など在来のものと大陸渡来のものとのカルチャー闘争そのものであり、源平という旗印(大義名分)に名を借りた東国武士団による武力闘争など日本古来のカルチャーの逆襲そのものであろう。後醍醐天皇が彼らを東夷と嫌ったのも、ある意味で正しい。本質的には源氏の勝利は、在来のものの革命だったのだから、反革命を掲げる後醍醐天皇にとっては、相容れぬものでしかなかったのも当然である。だが、今や東京は玉石混交の巨大な空白となり、関西人などが目くじら立てて敵対する価値などない存在にまで膨張し無意味化している。日本武尊が南と北の極地に追いこんだ日本在来の文化は、逆に渡来のものを呑み込み、消化し、長い時間を掛けて逆に侵略を遂げてしまった。
クマゼミ東征の図式も、南に封じ込められてしまった日本在来のものの逆襲を象徴しているようにも思える。いや、大陸だの、朝鮮半島だの、日本在来のものだの、そういった枝葉末節に拘泥していることの愚かさを、昆虫の生態系は無言で物語っているのかもしれない。だとしたら、侵略行為まで大きな胃袋で消化してしまうこの島国の在り方は、案外健全であるのかもしれない。
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