
![]()
子供の頃、週末になると父にせがんで山頂まで連れていったもらった鷹取山のことは何度か紹介した。その山頂にはロッククライミングの練習に好都合な岩が聳えており、その下が休むのに適当な広場となっていた。昭和三十年代半ばであったから、ラジカセなどはなかったかもしれないが、当時の若者達が音楽をかけてフォークダンスなどを踊っていることもあった。やはり家からそう遠くない野島では、ベンチャーズのコピーをエレキ・ギターで演じる人達が出始める時代だったが、鷹取山山頂でそのような酔狂に及ぶ御仁はいなかった。適度に人出もあり、売店のようなものも出ていたような記憶がある。とはいっても、テキ屋絡みの屋台みたいなものであったろうが。つまりは商売が成立する程度の賑わいだったということを示す。
ロッククライミングの練習に適した巨大な岩は、ハーケンの穴でボコボコになっていた。一年に何人かは、そこを登攀中に落下して落命する者が出て、新聞を騒がせていた。岩自体が砂岩に近く、さほど丈夫ではなかったせいもあるのかもしれない。正面から登れば、ほとんど垂直に切り立った壁か板のような様相だったが、脇に道があり、険しくはあったが杜氏のような幼い子供でも安全に登ることが出来た。それだけに、あんなところで命を失うクライマーがあまり賢くはないと思った。
その山頂付近に大量に発生するちょっと困った昆虫がいた。マルカメムシである。
カメムシの類は意外と多い。日本だけでも八五〇種を数えるそうだ。無論、カメムシ然とした形状をしているカメムシ類以外にも、たとえばアメンボウやタガメ、ミズカマキリ、ツノゼミ、アザミウマ、ナンキンムシといった変わり種も含んでの話である。セミも同じ目に分類される。いわゆるカメムシは文字通りカメを連想させる翅、背中を持ち、何といっても危機を感じた際に発する臭気で知られる。草食のものも肉食を営むもののいるが、いずれも作物や人畜に著しい害を与えるほどではない。ただ大量に発生することが多く、婦人方にはその集落を目にしただけで恐怖を感じるだろうし、何しろ人間にとっては臭い。だから害虫としてカテゴライズされる。個人的にはヘッピリムシ(ミイデラゴミムシ(三井寺はいい迷惑?))やマイマイカブリよりはマシだと思う。カメムシの臭いは植物の青臭さを少し強力にした感じで、少なくともタンパク質が腐敗したような臭気ではない。
不快昆虫だそうだ。不快指数という言葉があるように、不快さの度合いを定量化するのは難しい。杜氏にはカメムシがどうしてそれほど不快とされるのかがよくわからない。ゴキブリの方が遙かに不快だ。よく見ればアカスジカメムシ、アカキンスジカメムシ、オオアカカメムシ、ナナホシキンアメムシのように美しい色彩を持つものも多い。バリエーションの豊富さは、人気の高いカミキリムシを思わせるところがある。臭気を発するといっても、それで人畜に害が及ぶワケでもない。
ただ、不運にも小ぎれいな庭でガーデニングに親しんでいるようなところに出没したカメムシの群は、哀れ殺虫剤の犠牲となる運命だ。実質的には殺虫剤などの虫にも人にも有毒な物質を撒き散らす方がよほど不快だし、有害だ。
実際には人などがカメムシにうっかり触れて臭気にたじろぐ場合が殆どで、鳥や補食性の昆虫(カマキリなど)に、あの臭気は効果がないらしい。それらは平気でカメムシを狩る。天敵を妨げる目的ではないとしたら、臭気は何のためにあるのだろう。セミやコオロギ、キリギリス類と同様、異性を誘引したり、テリトリを示す効果があるという仮説もあるらしい。また、集団で生活する場合、一匹のカメムシが臭気を発すると他の者もそれに呼応することも確認されている。警戒フェロモン、つまりは危機を察知して群にその情報をアラームとして伝達する信号だという説もある。面白いのは人間程度の身体の大きさの動物にあの臭気はさしたる毒とは働かないが、カメムシ自身には有毒なのだそうだ。掴まえて臭気を発したところを瓶などに閉じこめると、自分の臭気に当たって死んでしまうのだという。間の抜けた話だが、自然界にガラス瓶のような密閉容器などなく、カメムシの発する臭気は容易に大気に流れて消える。その意味からも罪はない。
さて、鷹取山山頂に戻ろう。マルカメムシは小型の丸い形状をしたカメムシで、草食。クズ、フジのような山に生えている豆科の植物をホストにする。クズもフジも鷹取山には豊富に蔓延していた。適地だったのだろう。色は濃い褐色で、採集して標本にするにはあまり妙味はない昆虫なのではないであろうか。飛翔力は身体の割には強いようだ。実際、杜氏がよく見ていたマルカメムシもよく飛んだ。臭いは他のカメムシと似たようなインパクトだが、身体の小ささを勘案すればかなりの強さなのかもしれない。
杜氏がこの虫の洗礼を受けたのは幼稚園児の頃だっただろうか。テントウムシよりひとまわり小さい虫が意外なほど強い臭気を発するのが新鮮な驚きであり、不快さなどあまり覚えなかった記憶がある。少なくとも鷹取山で遊ぶ楽しさを打ち消すようなシロモノとは思えなかった。思えば数あるカメムシの中で、杜氏が最初に臭気を覚えたのはマルカメムシが最初であった。
夏に灯火にも頻繁に寄ってくる。マルカメムシの訪問を受けたことはないが、クサギカメムシ、チャバネアオカメムシなどが多い。身体の割に羽音は大きく、網戸の隙を潜っていつの間にか室内に潜入したりする。ただ放置しておくと一晩か二晩で死んでしまうことが多い。だったら、大人しく外を飛んでいればいいのにといつも思ってしまう。実害はないが、部屋の中でもかなり活発に飛ぶので、仕事などをしているとややうるさい。
サシガメというのは肉食のカメムシである。そもそもカメムシの多くは草食とされているが、実は肉食性のものもかなり多いらしい。口吻が頑丈なので他の昆虫や小動物の体液を吸うのに適していることは確かだ。水棲の半翅目の場合、アメンボ、タガメ、タイコウチ、マツモムシ、ミズカマキリ、コオイムシと全部肉食、しかも吸血して養分摂取を行う。サシガメも同じで、しかも人間にも噛みつく。蚊のように抗体膠原反応を誘発するワケではないだろうが、確実に物理的には蚊に食われるよりは痛いだろう。カメムシの類はあまり臭気を発しない限り、あまり目立たず獰猛にも見えないが、意外に気は荒いと見える。
中島みゆきが書いて研ナオコに唄わせた曲に「振られても、振られても仕方ないけれど、そンなに嫌わなくていいじゃないか」という歌詞がある。いかにも中島みゆき節である。確かにカメムシが大量発生して一斉に臭気を発すると大変なことになるらしい。ただ、カメムシにしてみれば必然性があってそうなっているに過ぎない。それに一斉に発する臭気は前述の通り警戒信号らしいので、それを機に群は離散するとのことだ。そこに人家があっただけのことだ。「スパーカメムシジェット」というような、大量破壊兵器みたいなネーミングの殺虫剤で駆逐するのはどう考えても過剰防衛であろう。
鷹取山は追浜、田浦からの登山道が閉鎖され、かつて麓だった部分は湘南鷹取団地に分譲されて久しい。今は逗子市の神武寺側からしか登れない。山頂のロッククライミング練習用の岩とその下の広場は残った。無論、そこで音楽を流してフォークダンスに興じる青年達はいなくなった。そんな時代ではない。だが、同時に消えてしまったマルカメムシの大群は時代背景とは無関係に、その地に残る権利があったろうに。
Winery 〜Field noteへ戻る