マツモムシ

全身これテクノロジィ


 スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のラスト近くで、延々と繰り広げられるのはスター・チャイルド誕生の映像と共に、人類(というより類人猿、いや類猿人か?)が如何に道具を持つに至ったかという経緯である。道具を用いる動物は人間だけとは限らず、ボノボなどの人間に極めて近い種に及ぶ。ボノボは直接的な木の枝、石といった原始的な道具に留まらず、人間の高等な道具とも言える言tまで解する能力を持つ。だが、通常動物にとって恐怖の対象でしかなかった火は人間のみしか使えないだろう。プロメテウスが重罪に処せられているのも道理かも知れない。もっとも、プロメテウスは人間に火をもたらしたのではなく、ゼウスが元々人間が使っていた火を取り上げたところを策略を以て取り返したのだそうだ。

 「フランケンシュタイン」を書いた詩人シェリーの夫人であるメアリ・シェリーも、その副題として「現在のプロメテウス」としていることから、誤解をしていると思われるが、まぁここまで一般的に「プロメテウスが人間に火を与えた」とされているのだから、そう解釈しても構わないだろう。

 だが昆虫の中には身体の部位を本来の目的以外にあたかも道具化しているかのように自在に使う種も多い。カマキリ、タガメ、ミズカマキリ、タイコウチなどの前肢は移動よりも食糧の捕獲を主に司る。コオロギ、キリギリス、セミの雄の翅は無論飛翔にも機能するが、テリトリのアピールや生殖に有効な器官である。ハチの産卵管の如きは、完全に武器と化し、ミツバチ、スズメバチ、アシナガバチといった集団生活を営む種の大多数の雌が生殖機能を持たぬ為、産卵する器官ですらなくなってしまった。

 単一の器官に留まらず、ほぼ全身の器官をマルチに簡便なツールとして活かしている昆虫がいる。マツモムシという昆虫をご存知だろうか? 体調2cmにも満たない小さな虫だが、これがまた多彩な能力の持ち主なのだ。

 マツモムシは藻の生えているような止水域で、水質がある程度以上きれいな水上、水中で生活する。マツモが生えているような場所によく見られたことから、この名がある。ミズスマシと同じような場所にいると見ても間違いない。英名はBackswimmer、通称Boatmanとも言う。これから想起されるように背を上にして泳ぐのではなく、背泳しかしないのだ。後肢は身体との相対において大きく長く発達し、ボートのオールのように機能する。

 普通人間が背泳をするのは、競技を除けば、楽に泳ぎたいからだ。クロール、バタフライと違って顔は常に水上に露出しており、鼻であろうと口であろう・$BF%(B・由に呼吸が出来る。クロール、バタフライでは常に頑張っていないと沈んでしまいそうだが、背泳なら身体を伸び伸び保ったまま、ゆっくりとしたストロークで進むことが出来る。ただ、マツモムシには、楽に泳ぐ必然などない。水棲昆虫には不適切な表現かも知れないが泳ぎはとても達者だし、相当に敏捷である。

 想像に過ぎないが、マツモムシの背泳は食糧の捕獲と関連があるのではあるまいか。マツモムシは水面を滑りながら、そこに伝わる振動を観測している。獲物となる水に落ちた昆虫、水に降り立ったアメンボなどの動きを察知すると、持ち前の敏捷さで水面を走って襲いかかる。その際に仰臥した姿勢の方が獲物を視界に捉えやすいのではないかという仮説が考えられる。

 蜘蛛のうち多くの種が自前の網を張って、そこにかかる獲物を待つが、マツモムシの場合、水面全体が蜘蛛の網の役割を果たしている。ここでも水面が道具になっている。自然の地形、条件を利用するのだから巣を営む労力が節約できて、効率的だ。
 獲物は前肢でがっちり抑えつけられる。タガメ、タイコウチほどの明確な武器として発達はしていないが、かなり強力なものであるらしい。そして鋭い口吻で獲物の身体を突き刺し、そこから消化液を送り込み、獲物の身体の内部を溶かして吸うらしい。水棲の多くの半翅目昆虫とは違って、この口吻が栄養摂取に留まらぬ威力を発揮する。敵に襲われとらわれたマツモムシは敵の身体を口吻で刺すのだ。これが相当痛いらしい。どれぐらい痛いかと言えば、ハチに刺されたのに匹敵するという。刺された部位が数日に渉って痛むらしい。これは身体の大きさを勘案すると大変な武器と言える。残念ながら杜氏はマツモムシが刺すという知$B%C(Bを、幼い頃から仕入れていたので警戒心が先に立って、刺された経験はない。ただ毒はないので、蚊、虻、蜂のようにケミカルな抗原抗体反応を起こすことはない。ただ物理的な刺激だけで痛いのだから相当である。手痛い経験をした捕食者達が懲りるだけで手に触れるのを避けるようになるのだろうから、毒を持つ必要まではないということなのかもしれない。

 マツモムシも襲われれば、いきなり噛みつこうとはせずにまず逃げようとする。アメンボは肢の裏からロウを分泌して軽い体を浮かせているだけであり、水中にはいられないから空に飛び立つしかない。無論、マツモムシも飛翔が得意だが、水中に潜ることも出来る。この場合、前翅と胴の隙間に空気を貯えてから潜水する。そしてその空気を吸う。アクアラングである。これもまた良くできた仕組みである。通常は水面に浮いて背泳をしているマツモムシがどうして空気を携えた状態で潜水できるかも不思議である。人間ですら、泳ぐのよりは潜る方が難しい。比重が水より軽いからだ。もしかすると、マツモムシの比重は水より高く、アメンボ同様、表面張力を利用して普段は浮いているのかもしれない。そしていざとなると表面張力で形成された水の幕を破って潜るのかもしれない。だとすると、マツモムシの身体自体、スキューバ・ダイヴィングの重りとして機能しているという仮説も浮かぶ。荒唐無稽かもしれないが。

 飛び立つときは身体を反転させ、普通の昆虫と同じく背中を上にした状態で羽ばたく。前述の通り飛ぶのも達者で、灯火にも寄ってくる。

 そしてこの昆虫は成虫で越冬までしてみせる。活動する姿は見られないから、葉陰などの暗い場所でじっと静止しているのだろう。「アクアラング」なしには水中には棲めないのだから、水中で活動を停めて生きているとは考えにくい。ということは、翅や身体は寒さをしのぐコートにもなっているのだろうか。

 水が温む頃になると活動を再開し、ここでようやく生殖をするらしい。マツモムシの幼虫は他の半翅目同様、不完全変態を辿るので、幼虫は身体が小さく翅のない成虫の形態をしている。

 このように全身の器官のほとんどが、道具として有効な働きをしているマツモムシは、人間から見ても機能美に満ちたニートな姿をしている。どこかで「裏返したアメンボ」という表現を見たが、水面を滑る忍$B%a(B然としたアメンボの数倍は器用な昆虫だと感じる。ざっと確かなところを挙げても、ボートのオール、剣、アクアラング、コートに準えることができる器官を持っている。水面全体を網として利用する効率的なシステムを持ち合わせる。俊敏にして、獰猛。流麗にして奇妙。水陸に縦横無尽。そして越冬に耐えうる頑健さ。ジェームズ・ボンド顔負けである。
 マツモムシは昆虫の中でも、ゼウスに罰せられることを免れたプロメテウスのような存在に思える。


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