ミドリカミキリ
なぜ杜氏は「虫屋」なるものにならないのか?
人が事物を見て、自分の発想から何か別の事象を想像するのは勝手である。だが、その思いは当の事物には何ら関係がない。事物を擬人化して論じることはしばしば罪作りなことでもあったりする。
山口百恵の「さよならのかわりに」の冒頭で、「何億光年続いた星にも終わりがあると教えてくれたのはあなたでした・・」云々が歌われている。光年というのは時間ではなく距離の単位なので、「続いた」なり「終わる」という動詞で受けるのは誤謬でしかない。おそらくは何億光年と離れた星は実際に地上の人間が光として認識している頃には、既に消滅している可能性があるということを、「あなた」は主人公に教えたに違いない。頭の悪い女である。
星座なども、実際には三次元位相幾何学的には近くもなければ関連もない恒星を、地上から人間が観測した二次元投影図から勝手に線で結んでいるに過ぎない。その形状にさそりだ、白鳥だ、小熊だと妄想を抱くのは勝手だが、人の生まれつきに関連付けて占いに転用するのは勘弁して欲しいものだ。杜氏などふたご座生まれということで、血液型のBと相俟って、「二重人格(双子からの連想?)の性格異常者」扱いを受けている。血液型は本来占いのためにあるのではなく、人間という生物を構成する要素であるので何らかの共通因子が見出せるのかもしれないが、杜氏は二重人格でも二面性が顕著なワケでもなく、一貫した人間性を以て生活している。アストロジーなど、体型付けられた学問であるかのような大仰なネーミングがされているが、ガセであることは疑う余地もない。大いに迷惑している。
鞘翅目昆虫は概して魅力的であるが、カミキリムシが人気を博している理由はいくつか考えられる。前にも述べたが天牛に擬えられる立派でバランスのいい形状、大きさ、体色、紋様のデザインの多様さ、美しさ、加えて人間の生活圏の比較的身近に活動している親しみ安さ、etc. 一言で言えば、カミキリムシの多くはカッコイイのだ。しかも、ルリボシカミキリ、ハンノアオカミキリのような、宝石と見まごうような飽きの来ない美しさを有している種も数多い。シロスジカミキリ、ウスバカミキリ、ノコギリカミキリ等の大型種には、カブトムシ、クワガタムシに劣らない風格さえ感じられる。
ミドリカミキリもそういった宝石にも似た美しさを持っている。名の由来であるやや濃い緑の体色は、金属光に輝いている。肢が長く、特に後肢は長く発達している。体型はカミキリムシの中でも特に細長くスリムである。当然、触覚も見事に長い。シンプルにカッコイイ種類である。体長は20mm足らずで小型の部類である。ハナカミキリの多くが好むウツギ、ガマズミといった小型の花が集合した蜜の多い植物に吸蜜する。幼虫はシロスジカミキリ同様、コナラ、ミズナラ、クヌギの幹に穴を穿って暮らす。典型的なカミキリムシのニッチに出没するので、美麗種ではあるが希少種ではない。普通種とされている。
夏の比較的早い時期に羽化し、活発に活動する。飛翔にも長けるが、脅かすと長い肢を巧く使ってよく走る。特徴的なのは交尾で、交尾が終わっても雄は配偶者を一晩中抱きかかえたままで過ごす。他の雄に配偶者を奪われないための行為であろう。それだけ個体数が多く、生殖行為が過当競争の様相を呈しているということなのだろう。こういったところに情の深さなどを感じてしまうのが、擬人的見方の底の浅さである。
コレクター達の気持ちはよくわかる。宝石のようなカミキリムシを手許に種々あれこれ取り寄せて、身近に置きたいのだろう。誰にでも理解できる貴重さではないだけに、余計貴重であるとも思う。だが、それはカミキリムシの死骸に過ぎず、駆け回ったり精力的に飛翔したりするミドリカミキリの変わり果てた姿である。ミドリカミキリはそうではないかもしれないが、死後色変わりが著しい種も数多い。生きているもの、いずれは死ぬものだからこそ、生命は尊い。死骸には死骸として以上の意味はないと、杜氏は考える。
だから、種々のカミキリムシをもし蒐集するのだったら、生きたままの姿を愛でるにしくはない。ガマズミの株でも庭に植えて、毎年花を訪れる色とりどりのカミキリムシを見ているなど、金では買えない至福かもしれない。今度、ガマズミを植木屋で探してみようと思う。本来野生種だが、ウチの庭にある植物は、元々そこいらの野山から拾ってきた草木ばかりである。
こういうのは虫屋の発想ではないだろう。虫屋というのは杜氏からみれば何の価値もない死骸である標本に血道を上げる。いかなる労苦も出費も問わない。また、種類によって彼らの宝物の価値にも軽重があり、喉から手が出るほど欲しい種であるのなら、それまでの宝を手放して交換するような取引にも応じる。
だから普通種などという身の蓋もないようなモノイイが横行する。あるいは雑虫などという侮蔑的な名称も。昆虫にしてみれば普通種も雑虫もヘッタクレもない。普通種でも美麗ならそれでいいではないか。それを希少種を希少だからというだけの理由で珍重するものだから、虫屋にしか通用しない、逆に言えば虫屋にとっては意味を持つ奇妙な市場と市場価値が発生する。正に昆虫の側では与り知らぬミョーチクリンな基準が発生しており、笑止千万である。生物学としての確証という意味での標本の意味? そンなもの知らない。生物学も大いなる自然の営みの前ではさしたる意味など持ち得ない。
そもそも屋などを自称して、士農工商最下層の商を名乗ることで謙遜しているのか、謙遜していると見せかけて自分達以外の存在からの差別化を強調したいのか、衒いと屈折に塗れた姿勢に大きな違和感を感じる。だが、杜氏が虫屋ではない理由は、死骸に興味はなく、殺生も好まないし、昆虫は自然に棲息している姿でしか昆虫でありえないと考えるからである。美麗なものは美麗であり、希少であるか普通であるかとは別の基準でしかない。そンなものを経済的価値に換算するのは、自然に対する冒涜ですらあると思う。罰当たりだ。死骸を奪い合うなど、アルフレッド・ヒッチコックの「ハリーの災難」のようなドタバタ劇に思える。
虫屋の思いがどのようなものであろうとも、自然はおかまいなしに悠久の呼吸を繰り返すだけである。
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