ミスジチョウ

最後の一葉

 サブタイトルは樋口一葉のことではない。O.ヘンリーだ。

 陽の目を見ない芸術家が寄り添うように暮らすグリニッジ・ヴィレッジに肺炎が蔓延する。ある若い女性画家もそれに襲われるが、症状は重く、医師は彼女のルームメイトにかなり危険な状態で何か生きる希望がなければ救えない可能性の方が高いと告げる。一方、進む病状に絶望した彼女は、窓から見える壁に這っている蔦の葉が全部散ったとき、自分の命も尽きると嘆く。それをルームメイトから聞いたやはりグリニッジ・ヴィレッジに住む年老いて世に出る可能性にも残された時間にも乏しい絵描きは、若くて将来性のある画家がそのような妄想を抱くことに憤ってみせる。とうとう蔦の葉が最後の一枚となった夜、無常にも北風が強まり、やがて雨が窓を叩き始め、荒天となる。だが、一夜明けた壁に、葉は散らずに残り、彼女の症状も快方に向かい始める。一方で、その夜明けに壁の下で倒れている姿で発見された老人は、僅か二日でやはり肺炎で息を引き取る。ルームメイトが残った最後の一葉をよく見ると、それが亡くなった老人がいつも描きたいと切願していた最後の傑作であったことを知る。

 というお馴染みの一席、ではなかった短編小説である。太田裕美がこの小説をモティーフにした歌(作詞は松本隆か?)をヒットさせたこともあるので、小説を読まない人にも広く知られる作品かもしれない。

 この小説を地で演じるような昆虫がいる。ミスジチョウ。タテハチョウの類である。カエデの葉を食すこのチョウの幼虫は五齢まであるうちの四齢で越冬する。カエデの葉を散らないように糸で固定させてその葉裏で静止したまま寒さを凌ぐ。他の昆虫のように葉を巻いたり、複数枚を束ねたりはしない。殆ど吹きさらしと変わらぬ状態で冬を乗り切るらしい。落ちた枯葉を使うのではなく、木についた状態の枯葉を無理に縛りつけるので、ミスジチョウの幼虫が籠もる葉はいつまでも散らないのだ。
 冬を越えるめどを立てた幼虫は静止して何も養分補給をしない状態なのに、脱皮して五齢になった状態で春を迎え、芽吹いたカエデの若葉を囓ることから活動を再開する。この五齢が複雑な突起を備え、奇妙な凹凸に包まれた興味深い形状をしている。幼虫自体がモンシロチョウの蛹に近いような身体のデザインから成っている。だが蛹化に近づくに連れて、再びシンプルな色と形状に戻り、前蛹の段階を経由して蛹へと変わる。タテハチョウの常として、卵ではない状態で越冬をするせいか、世代交代は一年で、年二回発生するようなことはない。比較的寿命(卵以外の活動時期)が長いチョウである。

 ミスジチョウは開帳32mm程度の比較的大柄なチョウで、その名の通り、地上に停まっている場合、黒字に途切れ途切れの白い紋が三条の線を成して見える。それが派手さはないものの、翅のデザインがなかなかにお洒落に映る。林の梢から梢へと素早く飛ぶ。見かけよりはよほど敏捷だ。いつも高い位置で飛ぶので、下から見上げるとチョコレート色の裏地が鮮やかに映えて見える。木洩れ陽を浴びて、それを透かして飛ぶ姿が似合っている。杜氏が子供の頃には住まいの裏にあった山に登れば当たり前のように見られたが、今はさほど頻繁にはお目にかかれない種になっているらしい。意外な事実だ。タテハチョウの常として、翅を開いて停まるので、地味な面を見せることの方が多い。
 近似種で印象的なものにスミナガシがいる。やはりタテハチョウの類で、黒っぽい翅を持つが、よく見ると青みがかった縁や濃緑色の基調を持っており、宮中の雅な遊びであった水に墨を流して模様の変化を楽しんだ命名の由来とは違った印象を受ける。幼虫が奇妙な突起や角で変則的な形状をしているところには共通点が見られる。確か国蝶であるやはりタテハに分類されるオオムラサキも、幼虫は似たような形状を持つ。スミナガシも森林と集落の境辺りを徘徊するチョウだが、リヴァーシブルな翅は持っていない。
 ミスジチョウを捉えて標本にすると、展翅した状態では既に死んでいるので前翅と後翅を結ぶ仕掛けが切れており、これらの重なりの妙で三条に見えていた筋が再現できないという。ミスジというのは生きている状態限定なのだそうだ。この辺りにも洒落っ気を感じる。こういうことがあるから、杜氏は自然に生きているものを捕らえて命を奪い、標本にしてまで保存することが好きになれない。自然は容易に保存されるほど安易なものではない。ミイラはミイラでしかないのだ。

 同じタテハチョウでも、キタテハ、アカタテハ、ルリタテハなどの代表的なものは日だまりで身体を暖めている印象が強い。翅の色も華やかだし、光の世界が似合う類であると言える。一方のヒョウモンチョウ、ヒカゲチョウは翅の色柄が地味で、ともすると蛾と間違える人もいるほどだ。ヒカゲチョウの名の通り、森林の深い木立にひっそりと潜んでいることが多い。影の蝶と呼べるかもしれない。ミスジチョウは林を好むが日なたにも飛んでいることが多い。リヴァーシブルな翅の色柄といい、光と影の両面を具備している存在と言える。
 「青春の光と影」”Both side now”を唱ったのはジュディ・コリンズ。「意識3」「緑色革命」のテーマに祭り上げられた。今、セサミ・ストリートなどにたまに出演している彼女を見ると隔世の感がある。のどかな情景を創出する雲が荒天をもたらすような二面性を持つことに始まって、恋、人生に至るまでそこに「光と影」両面があることを説いている。恋愛の甘美な面(別離すらも)、青春の溌剌とした面ばかりを採り上げていたに過ぎない1960年代までのポップスとは、ジュディらが表現した世界は一線を画している。森は濃い緑で闇を懐に抱いている。森の緑はデュオニューソス的な人間の鬱勃たる感情を喚起する誘惑の色だ。木洩れ日を透かしたかと思うと闇に吸い込まれてゆくミスジチョウは、私達人間を深い闇へ誘っているようにも、逆に警告しているようにも見える。

 有為な未来をたかだが木の葉の落葉に託して閉ざそうとしている若い命が、先のない老人の一世一代の傑作で救われ、バトンを渡すようにしてひとつの生涯が幕を下ろす鮮やかな対比。光を受け、影に消えるという、あたかも死と生の交差点を自在に横切っているようなミスジチョウは、とうに落葉しているカエデの葉を木に留めるばかりではなく、その在りようからもO.ヘンリーの最も有名な短編のひとつを示唆している。

それは例によって人間の勝手な思い込みでしかないのだが。



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