ムカシトンボ
生きた化石
似ているようで全く意味が違う言葉に「善戦健闘」と「悪戦苦闘」や「七転八倒」と「七転び八起き」などがあることは以前にも述べたことがある。シルベスター・スタローンの「ロッキー」がヒットした折に、日本の漫画でそのタイトルを「七転びロッキー」というパロディにしたヤツがいたが、それでは一回起きる数が足りないのでKOされることになる。「生ける屍」と「生きた化石」も似て非なるものである。前者は何らかの理由で生き続けるモティヴェーションを失った者だが、後者には他者からの評価などには無自覚に元気に生きている。
古代の生物に似ているがために、「生きた化石」などと人間から言われてしまった種は少なくない。文字通り、古代の化石生物に似ているものもある。その最も典型的なものが三葉虫に似ているとされるカブトガニであろう。確かに変わった形状をしているが、古代からタイムスリップしてきたワケでも、進化から取り残されたワケでもない。れっきとした現代に生きる生物である。希少種として保護されていると誤解される向きもあるようだが、カブトガニを食用にする習慣もあるらしい。案外美味らしいと聞いたことがあるが、流通に耐えうるほどの漁獲量も期待できないのだろう。産地のみの習慣に留まっているようだ。
ムカシトンボも化石で発掘されたトンボに似ているので、生きた化石と呼ばれる種のひとつだ。日本固有種で、世界でもインド(ヒマラヤ地方)で類似種がいるだけという日本が誇る(?)有名なトンボである。それというのも、インドでは成虫が見られた例はなく、幼虫だけが発見されたに留まるらしく、普通にそこいらを飛んでいるのは日本に限るかららしい。だが、シオカラトンボやオニヤンマのように全く普通に見られるということでもなく、やはり山地の渓流などの水がきれいで水温が低く、産卵に適した植物が岸辺に存在するような環境でなくては見られない。フキに似たキク科植物で防虫剤にもなるオタカラコウ(雄宝香)は、ムカシトンボが好んで産卵する植物であるらしい。ムカシトンボは極めて珍しいというものではなく、場所を選ぶが案外普通種という位置づけである。だが、日本にしかいない貴重な「生きた化石」というイメージが、誤った認識を招いているように思える。
杜氏は小学校六年生のときに、国語の時間の課題で小説を書かされたことがある。何も杜氏ばかりではなく、学年全員がこの課題を課せられたに過ぎないのだが・・・。杜氏は昆虫学者の師弟がヒマラヤの山中に幻のムカシトンボを求めて赴くが、当地で遭難しかけるような艱難辛苦の末に、「インドのムカシトンボの成虫」を発見するという「お話」を書いた。学校で一等賞となり、市のコンクールに回されたようだが、その行方は杳として知れない。おそらくあまりにマニアックなテーマだったので、アッサリとボツになったに違いない。杜氏とて学校の国語の時間に、小説などを書くという無理難題に困窮して、興味のあることについてヒョロンと書いたに過ぎない。だが、ヒマラヤ→登山→遭難という単純な連想と、志→障害→挫折→克服→達成という「NHK青年の主張コンクール」的な予定調和の構成が、今となっては笑わせてくれる。その原稿が押入れの奥かどこかから発掘されることを思うと恐ろしい。葬り去りたい過去の一部だ。
だが、ムカシトンボについては環境の激変が叫ばれる昨今においても、数を減らしているという情報が聞こえてこない。端から場所を選ぶ贅沢なヤツらなので、そういう場所は案外十年一日の如く、環境破壊の影響からは無縁なのかもしれない。形状から言えば、腹部はサナエトンボに代表される翅の翅脈が不規則な不均翅類の特徴を備えながら、翅はカワトンボ、イトトンボなどが代表格の均翅類と同じく規則的に整った翅脈を持つ。停まり方も、翅を拡げるでもなく、閉じるでもなく、その中間の半開き状態である。サナエトンボなら開いて停まるし、カワトンボなら閉じて停まる。その中間の遷移形態を示している。不均翅類と均翅類、どちらが進化論上、高等/下等なのかは判断できない。いや、それどころか、ダーウィン以後、新しい世界の常識となった進化論も非常に「確からしい」説ではあるものの、普遍の心理ではなく、有力な仮説に過ぎないと杜氏は捉えている。だから軽々に高等/下等の論議は出来ない。だが、ムカシトンボが均翅類から不均翅類へと向かう遷移状態のまま現代に姿を留めたのがムカシトンボであるとは言える。ムカシトンボのネーミングから想起されるような古代のトンボの祖先のようなものでも、先祖帰りでもない。両方の類の生きてゆく上での利点を現代の環境に残し、活用しているのがムカシトンボなのであろう。
シュレディンガーの猫という考え方というか、喩えがある。シュレディンガーは現代にも多大な貢献を及ぼす、波動方程式を発見した偉大な物理学者だ。猫をある閉空間に閉じ込めたとする。その空間に毒の瓶を置く。その瓶が倒れて空間に毒が広がる確率を50%とする。我々人間がその閉空間を開いて中の様子を確認するまで、猫は死んでいるか生きているのかわからない。観測できない以上、猫は半死半生の状態としか判断することが出来ない。量子力学を司る統計力学の考え方である。これに対してシュレディンガーよりは一般的に有名なアインシュタインは、「神はサイコロを振らない!」と猛烈に反論した。だが、人間という自然の一部に過ぎない存在が、他の生物に課す苛酷な生存条件を考えると、ある種が生き残って子孫を永続させるかどうかは、神ではなく人間の手に委ねられている。人間という極めて気まぐれで利己的な種が振るサイコロが、地球上の生物のあらゆる種に及ぼす影響は少なくない。何しろ、人間自身が、洪水(それはものの例えで火山活動にせよ、地球温暖化にせよ、壊滅的な災害なら何でも構わないのだが)で生き残る種を、ノアという一介の人間の手に託しているという説を唱えるほどなのであるから。
ムカシトンボはそういったサイコロの目の巡り合わせによる選別をくぐり抜けて種を維持できた、つまりは絶滅の危機を逃れて現存する生物のひとつに過ぎない。前述した通り、原始的であるワケでも、取り残されたワケでもない。生き残ったに過ぎぬ。
生きた化石という表現は、人間が勝手に自らの価値観に照らしてひねり出したロマンティックな概念なのかもしれない。だが、生きた化石と呼ばれる種にとって、そんなことなど与り知らぬことである。それらの種がしてきたことの全ては、必死に生きてきたという一事である。
「神はサイコロを振らない」といったアインシュタインは、神という概念を自分の理解でしか捉えていなかった偏狭さを責められるかもしれない。だが、今、ある種の特権階級を既得権として所有していると勘違いしている人種は、選挙という公共の大儀であるかに見えて実は究極の私欲のために、少なからぬ人口と古代からの営々と続く文化を持つ一国の行く末を私しようとしている。アインシュタインの偏狭さは、それに比べたらまだマシなのだと感じる。自らが敷いたレールを逸脱する主張に対して、「私の知らない人はこの世界に足を踏み入れてはいけない」とか「たかが選手ずれが・・」とか口走る人間と同じく、選挙のために戦争を起こすような輩は早晩自滅する。サダム・フセインを裁けるのは、民だけであり、それこそが神の声なのかもしれない。
自然の振るサイコロの選別を通り抜けてきたムカシトンボは、そういった人種とは対極の存在であるように思えてならない。
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