アゲハチョウ

並みッて誰が決めるのだろう?


 植木等の無責任男シリーズは、明朗で調子がいい(C調な)だけで他に突出した能力が見えない主人公が、超人的な活躍を示し、あれよあれよと出世してゆく一種のヒーロー物で、同じクレイジー・キャッツのリーダのハナ肇の力演とは一線を画していた。後年のザ・ドリフターズに付き纏うあざとさとも違った軽快さが魅力だった。ある作品では主人公の名が平 等(たいら ひとし)。平均である。今の若者は虐め時代を生き抜いて青年期に達している。その結果、他からの突出を恐れる傾向がある。だがその姿はかつての植木等の演じた青年達とは程遠い。今の若者が志向するのは、皆の平均値というヴァーチャルな存在であり、実体がない。だが植木の演じた平均は、主張がないだけで実体ありきの存在である。シリーズのある作品では、冒頭で三段跳でオリンピック出場を志した(時代が東京オリンピックを迎えつつあったことが窺われる)主人公が負傷して、競技を断念し、ビジネスの世界へ潜り込むことから始まる。平均なのは見かけだけで、実は高い能力を予め備えているのだ。だが、それを前面に出したのでは嫌味になる。あくまでもC調なだけという看板が、植木ヒーローの特徴だった。

 梅雨に入り、気温が一気に上がった。折からの湿気と相まって蒸し暑い。そういった気象条件に誘われたのか、様々なチョウが羽化して姿を見せ始めている。二階のベランダから階下の庭を見ると、定番のモンシロチョウ、ルリシジミやベニシジミといったシジミチョウがせわしなく舞っている。そして、アゲハチョウがその少し上空を優雅に飛んでいる姿が目立つ。縄張りでもあるのだろうか。お隣と併せ、コンスタントに三、四羽を同時に見ることが出来る。単なるアゲハチョウ。ナミアゲハとも言う。アイヴォリーにくっきり刻まれた黒い筋、後翅の紋には僅かに瑠璃色も掃かれている。オーソドックスなデザインが美しい。ステインド・グラスのような趣きがある。希少価値こそないが、王道を行っている。正にMOR、ミドル・オヴ・ザ・ロードだ。
 アゲハチョウの食樹の代表は、杜氏の子供の頃はカラタチとされていた。実際には柑橘類の木なら大概はアゲハチョウの守備範囲内だ。カラタチは「心で好きと叫んでも・・」の島倉千代子(からたち日記)から、「あなたから許された口紅の色は、カラタチの花よりも・・」の山口百恵(冬の色)と、一般的な柑橘類の代表のように言われているが、鋭い棘を生垣にして防犯用途に使うだけ立派な家が少なくなり、姿がめっきり見えなくなった気がする。生垣に使わないとすると、あの棘は鋭く長過ぎる。柑橘類の庭木の代表はカラタチからユズ、ナツミカンといった扱いの楽なものへシフトしている。だが依然として、かなりの都市部でもミカン科の植物は数多く見ることが出来る。アゲハチョウが生息場所に窮することはまずない。
 幼虫は羽化して四令までは黒を基調にしたゴツゴツした表面が目立つ。結果として鳥の糞への擬態となっている。五令から絵に描いたようなイモムシとなり、うって変わって食樹の葉と同じ黄緑色のすべすべした肌になる。捕食者を欺く、大きな目を擬した紋様が頭部にあったり、刺激すると角のような突起を出し、特殊な臭気を放つなど、鱗翅目昆虫の幼虫のいいとこ取りのような生態を備えている。子供にも育て易く、幼虫を飼育するための題材にはうってつけかもしれない。リスクは少ないが、飼育目的で捕獲した際に既に寄生虫(アゲハヒメバチなど)に侵されていた場合、せっかく蛹になっても、殻に穴を開けて出てくるのは小さな蜂だったりする。悲しい体験だが、子供にはそれも勉強になる。飼育に適しているのは、子供の興味が失せない程度の期間で成虫へと羽化することも要因となっている。概ね一ヶ月強程度だろうか。杜氏も一回飼育に成功しているが、庭で成長を観察する方が自然だと判断し、そういうことはしなくなった。
 大型のチョウの部類であるのに、ライフサイクルは短い。成虫としての活動期間はせいぜいが十数日。英名の通り、バターを厚く塗ったような見事な翅だが、それが長くは保たない。短い期間のうちに交尾を済ませ、柑橘類の木に産卵しなければならない。春型と夏型があるのもチョウの王道で、夏型の方がかなり大きい。今羽化し始めたのは春型の第二世代で、夏型第一世代を産卵する算段をしているところなのだろう。
 こういった何から何までオーソドックスな生態を見るに、旋盤で鋼を回転させて真球を実現した砲丸を思わせる。鋳型で半球をおにぎりのように合わせた砲丸とは性能が大きく違う。歪みや偏りが全くないので、押す力が効率的に伝わるのだ。ジャコウアゲハのように毒を持ったり、ギフチョウのように限られたニッチでしか棲息できないことなどない。いや、他のアゲハにはどこかしら生態に偏りがあるが、アゲハチョウにはそれがない。

 人間はなぜアゲハチョウを、プレインなアゲハチョウだと判断し、分類したのだろうか。個体数の多さや棲息地域の広範さからなのかもしれない。だが、それだけではあるまい。生態系の真ん中を特殊な条件を加えることなく、最適化を繰り返すとこうなるような気がする。そこには衒いや阿り、媚びのような歪みが見られない。自然淘汰を神の意思とすれば、虚心にそのブラック・ボックスへ身を真っ直ぐに投じたものが、最も神に愛される生態を持ちえたという結果。旋盤で見事に切られた真球だ。それを同じ生物(創造主の造形物)である人間も、自然に感じたのかもしれない。

 並みと言われて喜ぶ人間はいないかもしれない。現代の若者のように、突出を嫌う人達にとっても、それは少なくとも褒め言葉とは思えない。だが、アゲハチョウの場合、ナミアゲハであることは多くの利点をその生態に持ち、生存競争の勝利者であることを意味している。一つ一つの生態が平凡に見えて、とても有効に機能している。並みは並みでも、Averageという意味ではなく、普通に見えるということでしかない。優等生的という表現は、中途半端な優等生に用いれば揶揄的に響く。そして、世の優等生の殆どが中途半端であり、「優等生的」は揶揄としてしか使われない。アゲハチョウの並みは優等生的という表現に孕ませた毒ですら解毒してしまう。
 青島幸男が植木等を通じて表現したかったのは、風刺や揶揄ではなく、アゲハチョウの並みが持つような媚び、衒いのない天真爛漫な強さだったのかもしれない。だが、植木等(所ジョージでもいいが)が演じたような人間は、現実には残念ながら存在しない。



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