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古くは別の呼称で呼ばれていた動植物は案外数多い。昔はキリギリスがコオロギでコオロギがキリギリスだったという。また、アサガオと言えば加賀千代女が「つるべ取られてもらい水」していた頃は現在のアサガオだったようだが、その昔は桔梗のことを指していたらしい。
最近では在来種を押し退ける外国産種も土着化している。会社の生産用水処理用の池に悪名高いカミツキガメを見た。飼いきれなくなった近所の住民が捨てたのだろう。怪獣ガメラのモデルとなった異常な形状はいかにも獰猛そうだった。同じ噛みつく生態を持つカメでも、スッポンのように食べて旨そうにも見えなかった。食糧の少ない池を所在なげに泳ぐ姿はそぞろ哀れでもあった。
だが、野生の条件ではそんなことも言っていられない。野生のクワガタに異変が見られるという本来在来種にはない性質を持つ個体が増えているのだという。外国産のクワガタが放たれ、在来種の雌を手込めにすることが多く、元々類似した種類であるから交配が可能らしいのだ。混血のクワガタがあちこちで観察されているらしい。昆虫の世界にも、どこぞの基地勤務の兵士みたいなことをする輩がいるとみえる。マツヨイグサなども在来種よりも舶来のオオマツヨイグサが主流になっている。竹下夢二の「待てど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ」といった「やるせなさ」は、セイタカアワダチソウ並みの猛々しさをみせるオオマツヨイグサには見出せない。
タンポポならセイヨウタンポポ、センダングサならアメリカセンダングサ、ザリガニならアメリカザリガニ、ヤマトゴキブリならクロゴキブリ・・・etc. 在来種受難の時代と言える。
そういった中でセミの世界はせいぜい元々が九州に棲息していたクマゼミ(球磨蝉)が、都会の高温化に連れて徐々に東へと版図を広げているといった在来種の中での勢力地図の塗り替えに留まっている。豪州・西オーストラリア州で、砂漠地帯に残る草原にセミを見つけたことがある。欧米人は日本人と違って虫の音を右脳で感知するらしく、それらに情緒を覚えないらしい。それを知ってか知らずか、オーストラリアのセミは「ケッケッケ」といった具合に、恐ろしく情感に欠けた鳴き声を短く発して、すぐに杜氏の視界から消えた。
芭蕉や一茶はその句の中に小動物の姿を数多く歌っている。特に一茶はそれらに向ける温かな視線が句の持ち味となっている。「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」「やれ打つな蠅が手を擦る足を擦る」 「古池や蛙飛びこむ水の音」などに見られる芭蕉の深遠さはそこにはない。擬人に陥っているところなど、自然観察者の視点とはいえない。ただこれはこれで心を和ませる独自の視点である。
芭蕉の「閑けさや岩にしみいる蝉の声」のセミが何の種類であるかで大論争が起きたことがあるらしい。昭和初期のことだったと聞く。当時すでに歌人として確乎たる名声を確立していた斎藤茂吉と島木赤彦の間に起きたことだった。赤彦が芭蕉の句のセミをニイニイゼミと推察したのに対して、アブラゼミだと主張したのが茂吉。茂吉の力強い言語表現からして、アブラゼミを仮定するのも頷ける。ただ、静寂の中を静謐に流れ、岩肌に吸い込まれてゆくような鳴き声から察するに赤彦の方が分がいい印象がある。
この辺りの経緯は茂吉の息子である宗吉、つまりは北杜夫の著作でも触れられている。茂吉は赤彦とそりが合わなかったらしい。だから多分、気に入らないヤツに言いがかりをつけるようなノリで、食ってかかったらしい。それほど深刻な不仲ではなかったらしいので、騒ぎになるなどとは思っていなかったのだろう。だが、途中から引っ込みがつかなくなってしまったフシがある。この論争は芭蕉がこの句を詠んだ季節やその地方の気象条件などを調査した上で、赤彦の勝ちとなったらしい。茂吉は大変な悔しがりようだったろう。
茂吉の肩を持つ訳では決してないが、「そンなことどっちでもいいじゃン」と思う。芭蕉の耳に響いた静寂の音(サウンド・オヴ・サイレンス)が実際にはどのセミであっても、作品は一人歩きし鑑賞者の解釈に身を委ねるしかない。ミンミンゼミでもクマゼミでも、エゾハルゼミであろうと、解釈は許されるのだ。それをその道の専門家同士がムキになって論争し、果ては勝って快哉を挙げ、負けて悔しがるなど俳句の本質を著しく逸脱している。控え目に言っても、双方とも大人げない。だから桑原武夫あたりから「第二芸術」などと揶揄されてしまうのだろう。
ニイニイゼミは杜氏の住む辺りでは最も早く鳴き始めるセミである。ハルゼミを夏のセミと見なさなければの話ではあるが。梅雨の末期、夏の訪れが待ち遠しくなる時分から、夏を先取りするように鳴く。確かに静寂に紛れて地面に染み込むような繊細で穏便な鳴き声ではある。だが、あまりにさり気ない音であるがゆえに、聞き逃すことも多い。いや聞いていても心に強く認識しにくい音色と言える。これが小学生の夏休みに入るあたりから鳴き始めるヒグラシだったら、まず耳にした途端にヒグラシと認識せざるを得ない。ミンミンゼミ、クマゼミ、ツクツクホウシでも同じであろう。これらは「音」というより、人間の言葉に置き換えが可能な「声」に近いものがある。
論争のもう一方のダシにされたアブラゼミも、ニイニイゼミ同様、声より音に近い音色でなく。ただ、音量が大きいのでニイニイゼミよりは遙かに認知度は大きいかもしれない。だが蝉時雨に混じって聞こえるアブラゼミの音に、閑けさを喚起されることはあまりないかもしれない。
セミは翅を摺り合わせた振動を腹部で増幅させて音を出す。他の声と呼ぶに相応しいセミも翅が透明であるのに対して、ニイニイゼミもアブラゼミも褐色に濁った翅を持つ。音色の質と翅の色に相関はあるのだろうか。多分偶然に過ぎないのだろうが興味深い。
ニイニイゼミは後発のヒグラシとは鳴く時刻や場所の面で競合しないが、更にそれに続くミンミンゼミ、アブラゼミのけたたましい音の洪水にその音をかき消され、やがて静かに姿を消してゆく。姿形も小型で、セミ採りに興じる子供達にはさほどアピールしないかもしれない。いつの間にか消えているという印象が濃厚だ。アブラゼミ、ミンミンゼミが夏の終わりに力尽きて亡骸を路上に晒しているのをみると、イソップ童話の「アリとセミ」を彷彿とさせるものがあるが、ニイニイゼミはそれと対称的である。
その姿は第二芸術を蔑まれながらも依然市井に手掛ける人間が退きも切らない俳句と似ているのかもしれない。
いくら他の昆虫に外国産種からの在来種圧迫の傾向が強まっても、セミだけは在来種に生き延びてもらいたいと感じる。英語の俳句もあるにはあるが、やはり日本語の持つ情緒、言葉自体が発するリズム、旋律には及ばないのと同様に。
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