オバボタル

目的がわからぬこともこの世にはある


 世の中には何のために存在しているのかわからないものもある。人の作った構造物や道具にもそういうものがあるが、調べると謎が氷解したりもする。だが、風習ともなると、その必然がとうに薄れ、知っている人も稀になってしまっていたりする。雷に遭うと「くわばら、くわばら」と唱えるという類のものである。桑、當麻といった桑科の植物には雷を遠ざける性質があるらしく、やんごとなき人が他人と接するときに使われる御簾など、當麻で出来ていたらしい。そういった科学では解明しきれないものは、単なる風俗習慣として風化してしまうが、もしかすると人類は大変な損失を見過ごしているのかもしれない。
 動物の姿形が美しかったり、奇矯な行動を示したり、美しい音で鳴いたりすることには大概意味が見出されている。ひとつには外敵から身を守ることで、目立つ色彩とそれを食べたときの不味さ、または毒による被害が外敵の記憶に刷り込まれ、警戒色として作用する。というより、酷い目に遭った体験の記憶と結びつく色彩、模様が動物を守る。それに似た外見を持つ別の動物の生存率も自ずと高くなる。そして美しい色彩、模様の遺伝子は世代を重ねるごとに濃厚になってゆく。また、奇矯な行動、鳴き声などは生殖と生活圏の維持に大きく関わっていることが多い。ダンスのうまい雄は雌に受け容れられ易いとか、鳴き声で雌が引き寄せられるといった類の性質である。また、安定したテリトリを確立しておくには、そこに侵入しようとする別の雄との戦闘を示すと同時に、より多くの雌との出会いの場を確保することにつながる。カブトムシの雄が角突合わせて同種同士で戦うのも、餌場であるクヌギ、ナラなどの樹液スポットが食糧確保の場であると同時に出会いの社交場だからである。
 「光る」という作用も同じなのだろうか。光はエネルギーであるので、それを得て保つには大変な労力を要する。決して効率のいい習性であるとは言い難い。チョウチンアンコウ、ホタルイカ、夜光虫、ヒカリゴケ、・・・そしてホタル。生存や縄張り主張、生殖といった一般的なディスプレイと、必ずしも合致しない印象もあり、そこがまた人間に神秘性を感じさせるようだ。
 海には発光性の動物が多い。メルヴィルの「白鯨」にセント・エルモスの火というのが出てくる。荒れ狂う海から船を救い導くと言われる正体不明の灯火だ。これなどの発光生物の存在を感じさせる。その名も「セント・エルモス・ファイアー」と題した映画もあり、名門大学を卒業した七人の若者のその後の人生を描いている。若者達の溜まり場だったのが「セント・エルモ」という店だったと記憶している。それぞれの人生の波風を経て、新たなスタートといったときに、「最早セント・エルモスの火などという幻想は不要だ」と気づくのがオチだった気がする。主人公の一人を演じていたロブ・ロウ、デミ・ムーアなどのその後を見るに、未だその時点ではセント・エルモス・ファイアーは必要だったように感じる。自然の導きを軽んじてはいけない。
 日本ではあるトレンディ・ドラマがこの映画のプロットをマンマ・パクリしてしまい、視聴者の顰蹙を買った。

 さて、光る昆虫と言えば、ホタルである。野坂昭如のデビュー作にして悲しく美しい小説「火垂るの墓」が示す通り、ホタルは火垂るである。英語の俗称ではFire flyとも言うらしい。蛍だと蛍光灯を連想してしまいがちだ。だがその熱源は物理的な燃焼、つまり火ではない。火だったらホタルは生きていられない。ケミカルな作用から発生する光であるらしい。複数の物質の化学反応なのだが、明るい時間帯では光らないし、自在に点滅も出来るホタルはこの反応を完全に制御しているのだろう。嘘か本当かわからないが、ルシフェリン(有機化合物)とルシフェラーゼ(酵素)、マグネシウム、アデノシン3リン酸(有名なATP)等の反応と書いてある文献もある。ルシファは堕天使にして、大悪魔。ルシフェリンとルシフェラーゼとは中世の錬金術の香りもするこれまた神秘的なネーミングである。
 成虫になって光を発するのは実はホタルの中でも少数派で、ゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルの三種に過ぎない。この中でもゲンジボタルが群を抜いて大きな身体をしており、発光能力も高いのか、人間に大事に保護されている。ヒメボタルも金色めいた色彩が魅力的なので珍重されるが、個体数は少ない。平家とは何の縁もなく、ただ小さいだけでそう命名されたヘイケボタルはその中間で割を食っている印象。ご承知の通り、水のきれいな環境を好むので、ホタルが群生する風景は今の日本では珍しく、鑑賞会が催されたりしている。ゲンジボタルなどは幼虫期を水中で過ごすことから水棲ホタルとされている。ゲンジボタルの食糧となるのは代表的な淡水性の貝類であるカワニナ。人間が食べると日本住血吸虫に寄生されることがあるとされる貝だ。タニシでは大き過ぎてホタルには扱えないのだろうか。また人間には寄生する寄生虫がホタルには害を為さないのかが、いつも不思議だった。今のところ、その解は不明だ。栄養価の高い貝類を幼虫期に摂っているせいか、ホタルは成虫になると捕食をしないらしい。水分補給だけで二週間ほど生き延び、その間に生殖、産卵を遂げる。「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」というのは観念的な表現ではあるが、水にしか興味を示さないという点では正鵠を得ているのだ。
 ゲンジでもヘイケでも旗の色が違っているワケではなく、光る部位は同じ。腹の下から二番目、三番目から発光するのが雄で、三番目だけから発光するのが雌。これらは成虫の異性間では無論、求愛、了解(拒絶)のシグナルとなる。つまり、光の明滅はホタルにとっての言語でもあるのだ。映画「蛍川」(宮本輝原作)のラスト近くで、主人公の少年少女が無数のホタルの飛び交う光の中で抱き合うシーンがあった。その画像が叙情的で美しいのと同時に官能的なのは、ホタルの光が何を意味しているのかを考えれば自明だ。

 ところがこれ以外の主流派である陸棲ホタルは光らない。光らないといえば語弊があるが、生殖のために狂おしい光の宴を演じることはない。最も身近な陸棲ホタルはオバボタルである。何も水棲ホタルの伯母であるワケではない。年老いた女性を示す姥が語源なのだろうが、オバボタルの全個体が雌であるワケもない。要はウバタマムシ同様、ホタルやタマムシがとても華やかな昆虫であるがゆえに、類似種であっても地味だということを言いたいのかもしれない。
 オバボタルは胸部が赤い水棲ホタルと比較すると、胸の赤が一対の斑点となっており、ノコギリカミキリのようにはっきりとした節を持った長い触角が特徴となっている。ただ一目でホタルと判る形態をしている。水棲ホタルが夜行性なのに対して、オバボタルは昼行性である。成虫が光らない消極的な理由について、昼に行灯は要らないなどと書かれているのを見かけたが果たして本当だろうか。
 実はオバボタル、幼虫は光る。オバボタルに留まらず、ホタルというホタルは幼虫の時期、いや卵の中から光る習性を持っている。水棲のホタルのみが成虫でも発光し、生殖に関する信号の役割を果たしているが、陸棲のホタルでも卵、幼虫期では光るのだ。オバボタルの幼虫は代表的な甲虫とは違い、白色の芋虫(ジムシ)の形態は択らない。ヒラタシデムシの幼虫が小さくなったような、フナムシを細長く引き伸ばしたような幼虫となる。この幼虫を最もよく見かけるのが生垣のマサキなどを刈っているときである。生垣の低い部分またはその下で小昆虫を捕食する生活をオバボタルは営む。陸棲なので貝は摂らない。これが夜になると光ることがあるのだ。
 オバボタルの成虫は他の昆虫にとく見られるように、臭気による異性の呼び寄せを行うらしい。性フェロモンである。だが人間には無色無臭である。せっかく発光するという類稀な習性を幼虫の時期にまで保持しながら、なぜ肝心の生殖に発揮しないのかは大いなる謎である。未だ解明されていないらしい。幼虫が光るということは、カメムシが臭気を発するメカニズムと同じく、近くにいる同種の仲間に警戒信号を送るという意味合いが考えられる。陸棲にせよ、水棲にせよホタルのニッチは広くはなく幼虫は密生している。警戒信号としての発光は充分有効であると考えられる。水棲ホタルの幼虫が水中で群を為して発光している写真を見たことがある。これもまた美しいものであった。また成虫としては昼行性のオバボタルであるが、幼虫は夜間も活動するのかもしれない。ホタルの光も卒業式の歌(オールド・ラグ・ザイン)に歌われているようにささやかなものだ。昼に光ったとて有効なサインには成り得ない。もっともこれらは杜氏が勝手に展開した仮説に過ぎず、本当のところはわからない。

 聴覚に訴えるセミやコオロギ、キリギリス。嗅覚に訴えるカメムシ、ゴミムシ、オサムシ。味覚、触覚は別として、視覚訴える昆虫は主に蝶なのかもしれない。だが、光という闇が存在しなければ成り立たないような方法で、しかもあまり必要性が明確ではない幼虫しか光らないオバボタルには深遠なものを感じてしまう。きっちり説明のつく整合性の取れた世界に住むことができれば、それに越したことはないが世の中に不条理はつきものである。条理の世界は不条理の混入により容易に破綻する。不条理を孕んだ世界こそが、不条理を吸収しうる剄さを持つ。セント・エルモス・ファイアーは確かに曖昧なまやかしの、実在しない火なのかもしれない。だが人間自身の不条理が生み出したその存在を全く否定してしまうのも傲慢に過ぎる気もする。



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