オオアメンボ
巨大種は生き残った?
大きさが著しく違うのに、形状はほぼ相似形と思しき生物の組み合わせがある。アワビとトコブシ、カンガルーとワラビー、オヒョウとカレイ、・・・etc. この場合普通、一般的に知られている生物の方が主体として語られる。概して大型種が主、小型種が従として扱われ、アワビの小さいのがトコブシで、カンガルーの小型種がワラビーといった具合だ。オヒョウの場合、日本近海では獲れないし、オヒョウと表向きに名乗ると印象が良くないらしく、カレイの巨大なものがオヒョウと認識される。杜氏が小学生の頃、学校給食にメルルーサなどと並んで得体の知れないこれらの海外産の魚がドサクサ紛れに採用されていたことが問題となった記憶がある。だが、風味や歯ざわりなどに妙味があり、栄養価の面でも見るべきところが多い優良な食材であるらしい。
トコブシ、ワラビーの場合、どうも旗色が良くないが、人によってはアワビよりトコブシの方が味わいが繊細で旨いとも言う。また、ワラビーがカンガルーの原形種で、オセアニアの隔絶された生態系で、肉食獣が少ない条件から大型化したのがカンガルーという見方も出来るようだ。
殆どの恐竜が巨大であったように、馬にせよ牛にせよ鹿にせよ、古代における先祖とされる化石でしかお目にかかれない生物は現在の子孫の姿より遥かに巨大だったことが知られている。考えてみれば、コモドオオトカゲなど巨大で獰猛な爬虫類で、いかにも恐ろしげではあるが、ティラノ・ザウルス・レックスなどと比較したら、アリンコみたいな存在でしかない。昆虫にしても、化石に見出されるトンボやゴキブリの先祖は、現在の昆虫と同じ昆虫であるとはにわかに信じられないような大きさである。「風の谷のナウシカ」は、人類が文明の活用方法を誤って(つまりは今と同じ方向性を高じさせて)、有毒な植物、昆虫に人間の生息域が圧迫された近未来の想像図であるが、人類という最大の阻害要因が軽減されれば、昆虫も古代と同じように巨大化する傾向を辿るということは説得力を持つ。
天敵などの圧迫からの回避という意味から強大であることは差別化要因と成りうるが、有限な酸素、日光、食物資源や重力という制限の中で、生物が巨大化するには無理がある。無用の長物という言葉が示す通り、変化に即応可能な適正な体格というものが種によってあると思われる。何世代もの生の営みの繰り返しによって、各種の生物は最適化のフィルターを通じて、現在の大きさに帰着しており、更に今後の環境の変化によって最適化を続けるだろう。変化に対応できなかった種は絶滅を遂げるだけで、それを人間の力で留めようなどとは不遜に感じる。これまで幾多の生物が恐竜と同じく、淘汰の憂き目に遭って来たのであり、それは必然ですらあったのだ。
朱鷺やジャイアント・パンダに希少価値を認め、庇護するなど、神のする業で人間の分限を逸脱している。
オオアメンボは体長19〜27mmにも及ぶ巨大なアメンボである。体長だけでも充分大きいが、非常に長い肢を広げると、実に15cmにも及ぶ巨大さである。ガガンボも肢を広げると驚くほど長大であるが、オオアメンボの比ではない。ご承知の通り、体型は極力スリム化されているように見受けるが、果たして重力場の中で自在に動けるのか訝しく思えるほどである。
オオアメンボの体型がアメンボの拡大コピーのようであるのと同様、生態、生活史もナミアメンボなどの普通のアメンボと殆ど変わりがない。水に落ちた小昆虫を捕らえて吸汁したり、死んだ魚から養分を摂取する。水草の葉に産卵して、10日前後で孵化する幼虫は親と同じ姿の1.5mm程度の大きさでしかなく、不完全変態を遂げて五回ほどの脱皮を経て成熟する。流れの安定した緩やかな流水域か、止水域を好み、長翅型の成虫は翅による飛翔で移動も自在だ。アメンボの名前の由来は、人間が手で掴んだりするような危機的状況に陥ると、飴に似た甘ったるい臭気を帯びた液体を分泌することから来ているが、オオアメンボも同様の生態を示す。半翅目、つまりカメムシの一種とも言える。人間、または他の哺乳類にとっての異臭を放つのは、カメムシの習性のヴァリエーションなのかもしれない。越冬は水とは離れた岩陰や木の隙間などに隠れて、成虫として行う。
面白いのは、比較的獰猛な肉食種であるのに、オオアメンボが同種の争いを避ける習性を持っていることだ。多くの昆虫同様、オオアメンボもテリトリを持ち、それを侵す同種のオスを排除しようとするし、配偶者を巡って競争したりする。こういった闘争の場合、カブトムシ、クワガタムシ、多くのトンボといった武闘派も結構多いが、セミや鳴く虫(キリギリス、コオロギのような直翅目昆虫)のように、鳴き音という二次的な価値で競争を繰り広げる。人間の中には「不倫は文化だ」などとノタまった御仁がいらっしゃるが、二次的な価値による闘争は立派な文化であると感じる。オオアメンボの場合、オス同士のテリトリ、配偶者争いは、中肢の長さの優劣で競われるという。同種での無駄な傷つけ合いを避けることにも繋がっている。
少し以前、三高(京都大学の前身ではない)という女性が男性を値踏みする価値基準があって、女性の側からは半ば以上真剣に、男性サイドからは揶揄的に論じられたが、これは身長の高さ=肉体の頑健さ、学歴の高さ=頭脳の明晰さ、収入の高さ=実質的な生活力を示しており、端的に生存上の競争力の高さを物語っている。少しでも自分の遺伝子を有効に継承するための本能的な選択であるとも言える。それを浅薄であると断定するのは簡単かもしれないが、率直過ぎるぐらい率直な基準なのかもしれない。浅薄などという持って回った言い回しよりも、浅ましいという直裁的な表現の方が相応しいのかもしれない。オオアメンボの場合、それが前肢や後肢のような、より有効に機能するように見えるものではなく、一見物の役に立ちうべしとは思われずといった風情の中肢で競われるのが奥ゆかしい印象だ。きっと、中肢の長さにも人間には知り得ない深遠な意味が隠されているのだろう。
古代昆虫が適正な大きさをジェネレーションの繰り返しから獲得した経緯から見て、オオアメンボは普通のアメンボが巨大化したのではなく、大きいままで生き残ったか、縮小化の過程で下げ止まった、つまりはオオアメンボにとっては今の長大な姿が寧ろ適正だったという仮説を立てることが出来る。
だが、果たしてこのままで生き残れるのか、どンな生物も同じことが言えるのだが、保証はない。アメンボは雨上がりのちょっとした水溜りにも飛んできて、水面を滑走してる姿を頻繁に見かける。オオアメンボにはそこまでの旺盛な対応力はない。杜氏が小学生の頃には、山の小川や池沼、田圃の近くの止水域にオオアメンボの姿を見ることも珍しくはなかった。だが、現在の神奈川県で、この昆虫を観察できるのは箱根か丹沢の山中に限られているという。機動的な大きさのアメンボを見慣れた市街地に住む子供達は、オオアメンボに出くわしたら驚くかもしれない。だが、杜氏達が子供の頃には、オオアメンボの長大さはオオアメンボとして標準的だった。
数十年といえば、人間のライフサイクルからすれば決して短い期間とは言えない。だが、生物の興亡、地球の営みからすれば一瞬とも刹那とも言える。その数十年の間に、オオアメンボの大きさが自然なものではなくなりつつある。思えば、そういった生活の変化に晒されている数十年前までの普通の昆虫は、タガメを筆頭に少なくない。産業革命以後の生態系まで拡充したら、人間の化石燃料のエネルギー活用が始まったここ二百年余りの生物の興亡は驚異的に加速されていると想像できる。
たかだかアメンボなどと笑ってはいけない。オオアメンボの急激な生育域の変化のバックグラウンドには、重大な警鐘が聞こえてくるような気がする。杜氏達は生態系の劇的変化という「神々の黄昏」に立ち会っているのかもしれないのだ。
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