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人は空を飛ぶことが生まれつきできないから、飛翔することに憧れを持つ。妖精や天使に自分達の姿を持たせ、その背に翼を与えたりもする。植物の花が葉の変形したものであるのと同様、鳥類の翼も前足が変形したものであろうから、それらが手足を持ちながら翼も与えられているのはおかしな気がする。こンな些細なことで突っ込みを入れるヤツもあまりいないだろうと思った人間が、これらを想像したのだろう。人間は遂に飛行機を発明し、文明の力で空を飛ぶに至った。日輪の馬車を使い損ねて焼き殺されたアポロンの息子や、ゲーテの「ファウスト」でファウストがヘレンとの間にもうけたバイロンが墜落ししたことを嘲笑うかのように。ひょっとすると、人は自らの力でいつか飛ぶことが想定されていたから、空を飛ぶことができないようにデザインされてきたのだろうか。そンなことはあるまい。他の哺乳類もそれは同じ。例外はコウモリ、ムササビ、モモンガぐらいなものだ。
人間は空を飛ぶことを自由の証しと認識し、地を這うことを拘束の象徴と考える。果たしてそうだろうか? 飛行は確かに有効な移動手段だが、容易なことではない。地上の飛べない哺乳類の脅威からは飛翔で身をかわせても、空には空でより飛翔に長けた者の脅威が待ち受けている。そのためなのか、飛翔能力を抑えて地上を逃げる能力と併せて機動性を発揮する昆虫も少なくない。ハンミョウ、バッタ、カマキリ、ゴキブリなどは決して飛ぶことが得意ではないように見受ける。飛行距離も短い。反面、地上での動きも活発である。反面、飛行を追及したベクトルを志向したのが、トンボ、チョウ、ガ、ハチ、ハエなどだろう。これらの多くが英語ではFlyと言う名称で呼ばれている。ハエなどFlyそのものだ。カナブンに至っては、甲虫類の特長である堅牢な鎧の一部である前翅を閉じて飛翔のリスクを避けながら後翅を引き出して飛ぶという信じられない超絶技巧を発揮するに至っている。
地上を這い回ることの利を追求するうちに、飛翔自体を拒否してしまった者もいる。鳥類でもダチョウなどは、その身体の巨大さ、走力の卓越ぶりの方が、生存や捕食の上での飛翔のメリットを上回ることになったのだろう。昆虫ではオサムシ、ゴミムシの類がそれに当たる。翅はあるのに飛べない。だが翅が退化することもない。それはそれである役割を果たしているに違いない。だが、これらの昆虫は移動のメリットを捨てて、地上にニッチを見出している。
翅の役割は警戒色を呈していることであろう。オサムシ、ゴミムシの類は大概危機に際して体内から強力な臭気を帯びた物質を分泌する。ミイデラゴミムシなどはヘッピリムシ、ヘコキムシなどという不名誉な俗称を持っている。さぞや三井寺は迷惑なことだろうと同情を禁じ得ない。これらは単に臭いばかりではなく、ケミカルな効果により大変な熱を発する。分泌された瞬間には分泌物の温度が摂氏100℃にも達するらしく、直撃を受ければ火ぶくれを発症する。カメムシの臭気など、これに比較すれば取るに足りない。カメムシが集団で行動し、臭気が仲間への危険を告げるシグナルであるのに対して、ゴミムシ、オサムシにとって明確な攻撃であるのだ。だから動植物もこれを嫌う。嫌いなものをより嫌いと印象付けるサインが、オサムシによく見られる前翅の美しい色彩、光沢なのだ。この警戒色の効果を以て、退化は起きていないのだろう。
オサムシには愛好家が多く、彼の故手塚治虫もペンネームから窺えるように、オサムシの愛好家にして蒐集家だった。オサムシの妙味はこの翅の美しさとバリエーションの豊富さにあると言っても過言ではないだろう。飛べない(飛ばない)ことが、棲息している地域の気候風土に依存した体色や形態のバリエーションをより豊富で特徴的なものに導いているらしい。確かに気候風土が昆虫の生態に与える影響を物語るというのは、研究者の意欲を駆り立てるだろう。杜氏にもそこには強い興味を感じる。ただ、このオサムシ、ゴミムシの類、杜氏にはあまり好きになれない。無論、嫌いではなく、鱗翅目よりは好きなのだが・・・。ミミズや他の動物の死骸を漁る姿を子供の頃から見続けてきたし、この種の代表的な昆虫ともいえるマイマイカブリは杜氏が好きだったカタツムリを食する。また、何度かこの臭気攻撃に遇って嫌な思いもしてきている。
それより好きになれないのが、蒐集家という人種。生命を失った昆虫などを保存して、コレクションするのは悪趣味であろう。如何にそれが美しくともだ。たとえば貝殻は貝の身体の一部ではあったろうが、それ自体に生命は宿らない。貝が死した後、その美しい貝殻を装飾品にしたり、珍しい種類のコレクションを誇るのは認められる。だが、蒐集家が集める標本は生きていた昆虫の死骸なのだ。生命の尊厳に多少なりとも感じるところがあれば出来る行為ではない。横浜の京急沿線、戸部駅前に文身博物館というのがある。分身ではない文身だ。この聞き慣れない言葉が何を意味するのか? 刺青を刻まれた人体を指す。つまり珍しい刺青を彫られた皮膚が保存、展示されているのだ。阿部定などと並んで毒婦とされた高橋お伝などの死骸の一部が飾られているのだろう。おぞましくはないだろうか? 彼らが昆虫にしていることは、つまりはそういうことだ。本当に昆虫が好きなのなら、また自分がそういう目に遭うことを想像できる脳の作りをしているのなら、蒐集など出来るはずもない。
また、蒐集する昆虫の分野によって、お互いを「チョウ屋」だの「トンボ屋」だのと呼び合っているのも、気持ちが悪い。その道の専門家のスペシャリティを誇示している臭気紛々である。八百屋、魚屋、肉屋、花屋、etc.に失礼であろう。または歌舞伎役者に対しても。
憤慨して本題を疎かにしてしまった。
ゴミムシの中に、少し毛色の違った種族がある。形態も生態も普通のオサムシ、ゴミムシとは異なっている。ヒョウタンゴミムシの類だ。胸部と腹部のくびれが極端に細い。それを瓢箪に準えてそう呼ばれる。ゴミムシと言うより体色も形態もクワガタに近い。特に大顎が発達しており、外見から一目で目立つところはクワガタの雌に似ている。昆虫に詳しくない人に、「新種のクワガタの雌です」と偽って紹介しても通るかもしれない。ところが、ヒョウタンゴミムシはクワガタが地に堕ちたものでは決してない。
そもそもゴミムシという命名は大変屈辱的なものだ。ゴミムシは芥虫なのだろうが、芥を食糧にしている訳ではない。多くが肉食だ。それも賞金稼ぎではないが"Dead
or alive"で生きた小昆虫、ミミズ、ナメクジのような動きの遅い生物を生きていようと死骸であろうと食べてしまう。そのゴミムシの中でも、ヒョウタンゴミムシは能動的なハンターの趣きがある。オオヒョウタンゴミムシは体長40mmにも達するゴミムシ、オサムシの中でも出色の大型種で、これより大きいものはマイマイカブリしかいない。それがクワガタのような頑丈な大顎を持っているのだから、大層立派な風体でゴミムシなどと呼ぶに相応しくない。肉食昆虫の多くのパターン同様、待ち伏せ型の生態を採る。海岸の砂地、それも細かな砂ではなく礫の方が強い地面に穴を掘って身を隠しながら、獲物の到来を待つ。ウスバカゲロウで触れた通り、擂鉢型のトラップに依存するアリジゴクに対して近似種のオオウスバカゲロウはトラップを作らず、獲物を素手で捕らえるが、それに近いライフスタイルと言える。
クワガタに似た大顎のクワガタとは違っているところは、常態ではクワガタのように先端が開いてはおらず、「交喙の口の食い違い」の諺で有名な鳥のイスカの嘴のように交差して閉じている。所詮草食のクワガタにとって、大顎は食糧や生殖に関わる競争相手を追い払う程度の機能しか果たさない。ヒョウタンゴミムシのそれは、獲物を食い千切り命を断つための殺人(殺虫)凶器なのだ。左右の大顎に見られる突起が、非対称なのも、獲物の身体を破壊する威力を想像させるに充分な凄みを帯びている。また前脚にもクワガタ同様ギザギザした突起が見られるが、クワガタが木の幹にしっかり掴まる構造の二股鉤爪であるのに対して、ヒョウタンゴミムシのそれは外側にトゲトゲと突出している。獲物を押さえつける効果を呈するのだろう。ヘヴィメタを気取る連中のメリケンサックのような印象だが、異なるのは似非ヘヴィメタ連中のそれが喧嘩か、喧嘩に及んだ際のコケ脅しに過ぎないのに対して、ヒョウタンゴミムシの脚の突起は獲物を殺すという明確な機能そのものだ。暴力の暗示と殺傷機能の間には、「ブッシュマン」のニカウさんとブルース・リー以上の相違がある。(今時、ヘヴィメタ気取りの不良も、メリケンサックも街から絶滅しているだろうけど)
つまりは、ヒョウタンゴミムシの生態はクワガタほど甘くも優しくもないのだ。獲物を取り逃がせば、再び生き物が少ない砂地にいつ再び捕食可能な昆虫が通りかかるか知れたものではない。獲物がいなければ餓死するだけだ。それを獰猛の二字で済ませる訳にはいかない。
ヒョウタンゴミムシは普段から隠れて棲んでいるので、人目に触れることは極めて稀だ。杜氏も見なくなってから久しい。そもそも、砂地のある土地で遊ぶ機会などなくなっている。ちょっと外に出ると必ずといっていいほど目にすることができたアオオサムシなどとはワケが違う。それでも、ヒョウタンゴミムシは今も確実に海岸や河原の砂礫に身を隠しながら牙を研ぎつつじっと獲物の到来を待っているに違いない。その姿はマカロニ・ウェスタン(ロケ地の都合か、砂漠が舞台のことが多い)の荒野のガンマンのようだ。飛行のロマンや人の罪作りな蒐集癖など立ち入ることが出来ない地を這う生活者なのである。
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