

「コレクター」という映画の中でテレンス・スタンプが演じているのは、大金を手にしたのを機に、女子美大生(女子美の学生という意味ではない)を拉致監禁して飼育しようとする普段は内気な銀行員だ。後に多発する猟奇犯罪事件を予見するような内容である。映画の中で主人公は美大生に指一本触れようとするワケではない。ひたすら優しく、ただペットのように飼育しようと試みる。思いがけず大金を得る前、主人公のコレクションの対象は蝶だった。
「ニシキキンカメムシを買いませんか?」というメールをもらった。一頭5,000円なのだそうだ。金緑色に紫や赤の宗教的な模様を思わせる紋が入った日本でも最も美しいとされるカメムシで、無論希少価値がある。だが杜氏は昆虫を愛好する者ではあっても蒐集家ではない。死体を保存する標本愛好家とも違う。子供の頃は色々な昆虫を飼育した経験は多い。だが飼育の目的は羽化までの生態を知りたかったということであり、その源は好奇心である。蒐集自体が自己目的化している蒐集のための蒐集ではなく、増してや飼育したものを経済的価値に置き換えようとする商業活動でもない。
昆虫が好きな人は自らを進んで虫屋と呼び、その専門ジャンルによって更に蝶屋、甲虫屋などと名乗ったりする。甲虫屋の中にはオサムシ屋やカミキリムシ屋に分かれていたりする。屋号? そこにあるのは士農工商の最下級である商を名乗る卑下のように見えて、自分は他とは明確に違うのだという特権意識であると同時に、同種のマイノリティ同士でつるもうとする姑息さである。虫を好きであることは当人達の勝手であるし、無論杜氏も好きなので異論など唱えない。ただ、杜氏は屋外で残り少ない時間を生殖という昆虫にとって最も大切な行為に急ぐ成虫を監禁することは好まないし、生命を失い変色してしまった死体を恭しく保存することに価値など感じない。虫を愛することで特権意識など感じないし、その一点で徒党など組みたくもない。それどころか、生活を営むためでなければ出来ればいかなる徒党も組みたくない。投てき競技者だからといって「投げ屋」などと呼ぶ人間がいたら、それを撤回するまで責め続けるだろうし、ソフト屋などと名乗る気もない。
これは杜氏に限ったことであり、繰り返しになるが、虫屋を自称している人を糾弾しているワケではない。ただ、それを自著に掲げているような人を、杜氏は好まない。
「ニシキキンカメムシを買いませんか?」メールの差出人のアドレスの一部にookuwaの文字列があった。昆虫愛好者がこれから容易に想起する昆虫はオオクワガタである。現在、日本の昆虫の中で、最も愛好され、高い経済性を生む種と言えるだろう。ははァ、やっぱり、である。
杜氏がこれまでクワガタをコクワガタを除いて採り上げなかったのには理由がある。売り物にされ、飼育され、なるべく大きくカッコ良く育てられることに価値を見出されるペットとして空しく死んでゆくクワガタ達が不憫だったからだ。話題に採り上げたら、捕獲、売買で利益を得ている者、ブリーダー(?!)と称してそれらの飼育、愛玩に血道を挙げる者に糾弾の指を差さなければならなかったからだ。勝手にしてくれ、というのが本音である。
それに杜氏はオオクワガタが自然の状態で暮らしている様をあまり見たことがない。必死に探せば見られないこともないのだろうが、そこまでこの昆虫に愛着を覚える必然はなかった。見られる範囲の昆虫で、それらは充足されていた。クワガタといったら、杜氏にとって普通はコクワガタであり、ノコギリクワガタやミヤマクワガタは出遭うこと自体が僥倖ですらあった。小学校低学年だった頃の杜氏にとって、この二種は大きなお兄さん達が自分達が分け入れないような山奥から捕まえてくる珍獣だったと言ってもいい。ルリクワガタ、オオクワガタなどは想像上の産物でしかなかった。
子供にとって昆虫の王様はカブトムシであり、クワガタは少し別格で変則的な地位にあったのかもしれない。スタイリッシュな人間はクワガタを好むのかもしれない。誰だってかっこいいのは好きだ。だが、あまりカッコばかりつけるとカブトムシに悪いような気になってくるから不思議だ。従ってカブトムシが一番好きだが、クワガタも好きで、その好きさの質は微妙に異なるという区別を子供達はしていたような気がする。これがカミキリムシとなると、明確な性質の相違がある。カブトムシとクワガタはその特質が微妙に近接しており、デリケートな扱いが要求される部類のものだった。
オオクワガタはその名の通り大きい。ノコギリ、ミヤマの両巨頭が45mm程度であるのに対して、60mm程度になる。それも自然の状態だからであって、ブリーダーとやらがあらゆる手を尽くせば80mm近くにも育つらしい。カブトムシが55mm程度であるから、確かに大きい。しかも体格が頑丈で、時にカブトムシの身体に大顎で穴を開けてしまうほど頑健だ。「どっちが強いか」などという幼児的な見方をする向きに申し上げるが、カブトムシの方が弱いということではない。カブトムシの他の昆虫の排斥の仕方は、相手がしがみついている木の幹と相手の身体の間に角を差し込んで放り投げる技を使う。オオクワガタのそれは凶器を持ったレスラーの戦いに似る。カブトムシが相手の身体を損傷させるような戦いをしないということに過ぎない。これは大型のカミキリムシにも共通する留意点で、一緒の場所に置こうものなら、他の昆虫に顎で噛み付きまくって大怪我をさせるのがオチである。そもそも、カブトムシもクワガタもカミキリムシも植物の樹液を吸う草食の昆虫で、捕食を以て暮らしているワケではないので殺傷能力は支配的な要因とは言えない。
オオクワガタもカブトムシや他のクワガタ同様、ミズナラ等のブナ科の植物の樹液に寄ってくるし、幼虫、蛹は朽木の中に棲む。ただ、何しろ個体数が少なく、そのことが希少価値を生み、過当競争を招いている。ということは、生存競争上から、オオクワガタは負け組みに属しているのだ。カブトムシやコクワガタは、人間がターミナル・アニマルとなり、自然を自分達に適合した形に変えるのに応じてライフ・スタイルを変化させた。無論、自然の環境が生育には必要だが、やや都市型へと生き方をシフトさせたとも言える。カブトムシ、コクワガタは完全に人間の集落から離れた地域には育ちにくくなっている。ミヤマ、ノコギリといった種もなかなか人の目に触れにくい場所で育つものの、多少の順応はしてきた。だが、オオクワガタは頑健な体格であったことが災いしたのか、人間が作る自然環境に順応するのを潔しとしなかったのだろう。そうなると、宅地開発が進むに連れ、オオクワガタのニッチは圧迫される一方である。人間の種としての発展が進むのと逆に、オオクワガタの個体数が単調減少を辿るのは自明である。
オオクワガタの個体は寒さにも強かったりする。普通、どの昆虫も成虫の姿は機動力があって敏捷で外敵から逃れるのに適してはいるが、構造上長く生命維持は出来ない。生殖のための死装束である由縁である。大概は寒さの訪れによって死滅するが、その前に交尾、産卵を済ませて、次の世代にバトンを渡す。大型の昆虫は大概、幼虫期が数年に渉ったりして長いが、ひとたび成虫に羽化したら任を終え舞台を去る。ところが、オオクワガタは容易に越冬したりする。飼育する側としても簡単に死なないというのは、愛玩の大切な条件にもなるだろう。ただこの性質はこの種の生命力の強さではなく、逆に繁殖力の弱さを浮き彫りにしているようにも感じられる。個体数が少ないということは、雄と雌の出会いも自ずと限定される。一回の「恋のシーズン」で本懐を遂げる個体が少ないのではないか。無防備に近い幼虫時代、蛹時代を生き延び、成虫にまでなったのに生殖が出来ないのでは意味がない。童貞処女のまま繁殖期を空しく過ごしたオオクワガタは、その頑健さに任せて次のシーズンまで生き延びるという力技を用いているに違いない。こうして複数回に及ぶ恋の季節を通じて目的を果たす個体の遺伝子には、耐寒性や越冬(冬眠)の習性の情報が色濃く伝達されることになる。これは種としてはあまり好ましくはないのではなかろうか。頻繁にライフサイクルが回ってこそ、種としての活性化も遂げられる。
人間が「ブリード」などと称して、ただでさえ出会いの機会が少ないオオクワガタを監禁して、大型化や大顎の形状の発達を促している一方で、自然の状態のオオクワガタも含むクワガタに異変が起きていると聞く。矮小な個体が多くなっているらしい。何らかのストレスがクワガタという類全体を覆い始めているらしい。原因が明確にわかっていないだけに不気味だし、気懸かりだ。オオクワガタを不自然にデカくしている場合ではないような気がする。捕獲者、売り手、ブリーダー全てが結局、自然種からの捕獲に依存しているのだろうから。
また、オオクワガタでは飽き足りないクワガタ・マニアは海外から在来種では味わえない魅力を持った種を取り寄せることがある。これがブリーダーの手から逃げるのか、飼育が困難で故意に逃がすのか、人手を離れるケースが頻発しているらしい。外来種の殆どは日本の気候風土に順応できないだろうが、あろうことか逃げ出した外来種の雄は在来種の雌を手篭めにする傾向にあるらしい。明らかに在来種には見られない形質のクワガタの増加が観察されていると聞く。これが矮小化の一因となっている可能性もあるような気がする。外来種の遺伝子が適合しなければ、劣勢の形質に倒れる可能性も大であろうと推察できる。
「コレクター」で、飼育されそうになる女子美大生はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」などの餌で逆に飼育者を餌付けようとするが、共通認識を得ることが出来ずに、異常な環境からか病気になって死んでしまう。テレンス・スタンプ演じる主人公は、一時的に悲しむが自分が悪くはないことを自ら理由付けてしまい、次にこそ飼育に成功することを期して獲物を物色しに街へ出るところで映画は終わる。人間に飼育を施せば罪になることは誰にも理解できるし、犯罪に走る一部の人間を除き、そのような行為には走らないのが普通だ。だが杜氏には、趣味、趣向などと言う人間のつまらぬ身勝手の名の下に、オオクワガタという種全体が遭っている災厄は、「コレクター」の女子美大生のそれと、本質的に変わらないように思えてしまう。
結論。杜氏に「珍しい虫を高く買ってください(安く譲ります)」などと売り込んでも時間の無駄。ほかを当たった方が効率的である。
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