セマダラコガネ

人間が作ったパラダイス


 ヒシャム・エルゲルージが
1500m5000mの二冠王をアテネ・オリンピックで獲得したとき、80年前の”Flying Fin”パーボ・ヌルミ以来とマスコミは報じた。パーボとはまた、マルクス兄弟のようなファースト・ネームだ。グルーチョは不平屋、不満屋を示すgrouchからの命名で、セサミ・ストリートのゴミ箱に住んでいつもガミガミ文句をタレているモンスターもオスカー・ザ・グラウチだ。本来グラウチョと発音されるべきところを、よくある話で知ったかぶりの翻訳家がグルーチョとしてしまった。「ギョエテとはオレのことかとゲーテ言い」である。似たようなケースでは、ウォーレン・ベイティも最初はビーティーと紹介されていた。「俺達に明日はない」の頃のことだ。だが、表記もされていない「ビ」と「−」の間に、カンチガイから「ュ」の幻覚を見てしまって、ウォーレン・ビューティーだと思ってしまった人がいるから、余計に始末が悪い。一度たりとも「ビューティー」とは表記されていないはずで、これは誤謬である。ウォーレン・ベイティのいい加減さという実像を実感するには、「天国から来たチャンピオン」などという自画自賛の映画を観るよりも、カーリー・サイモンの「うつろな愛」"You're so vain"の歌詞をじっくり聴いた方がいいだろう。姉のシャーリー・マックレーンが気の毒になる。というワケで、グルーチョはグラウチョが正しい。
 ハーポはハープから来ているに違いない。映画でもハーポはハープの腕前を披露している。ゼッポ、チコの由来はわからない。ヌルミは杜氏にとって歴史上の人物で、実際に走っている画像を見たことがないので、いつもヌルミの名を聞くと、ハーポ・マルクスが無言でふざけながら走っている像を連想してしまう。

 ヌルミはオリンピック二冠どころではなく、アントワープ、パリ、アムステルダムの三回のオリンピックを通じ、九個の金メダルを独り占めした超人だった。その頃のオリンピックには断郊競争と呼ばれたクロス・カントリーがあった。しかも、個人、団体と二部門が設定されていた。従ってヌルミの活躍の場は1500m、5000m、10000mに加え、クロス・カントリー二種目までに及んでいた。無論、獲得したメダルは金だけではない。

 今はクロス・カントリーは五輪とはかけ離れて、大きな経済性を伴うイヴェントとして活況を呈している。ミュンヘンの1500m勝者のロッド・ディクソン(ニュージーランド)が、若くしてクロス・カントリーに専念したのも頷ける。オリンピックでの勝利は多大な栄光をもたらすが、それを得るまでの苦労は並々ならぬものであるし、連勝するにはウンザリするような更なる努力が求められる。ある意味で、クロス・カントリーに参戦するランナーは、春に欧米で盛んに開催される賞金マラソン・レースへの参加者達と似ている。オリンピックの栄光よりも、その都度のパフォーマンスを経済性に換算して生活を安定させることが優先するのだ。しかも、一発コッキリで連戦が利かないマラソンよりも効率がいい。

 クロス・カントリーは本来自然に親しみ、相和しながら走るスポーツである。だが、あまりに経済的な面が肥大したため、アフリカ人ランナーの出稼ぎの場となっている。ケニア、エチオピア、モロッコ、アルジェリア、・・・etc. 分厚いアフリカ勢の壁が上位に聳え、日本人一流ランナーが出場しても、二〇位、三〇位台が関の山だ。こうなると、自然もヘッタクレもなくなってくる。

 ゴルフもクロス・カントリーと同じように、最初は自然の環境を利用したものだったに違いない。広大な草原、立ち木、小川、湖沼などを、そのまま自然の障害物としてどこにボールが落ちても、そこから打つというのが原則だったはずだ。だが、狭い国土しか持ちえぬ日本では、ゴルフ場に出来るような自然環境は稀少である。山野を切り拓いて、無理やりフェアウェイの芝生地帯を整地したり、木を根こそぎ伐採したり、本来林だった場所に池やクリークを作るために水を引き込まなければならなくなっている。

 飛行機で東北、北海道方面から帰京する際に、北関東の栃木、群馬、茨城あたりから高度が下がり、下の風景を鳥瞰することが出来る。目立つのが不規則な長楕円形というか、帯状に十数か所、山が禿げている様子だ。間違いなくゴルフ場である。人間が害虫と呼ぶ草食昆虫が植物を食い荒らした跡に酷似している。それを見ると、改めて人間が地球にとっての害獣であることが実感される。一言とで言えば、惨たらしい光景である。これを目にしただけで、ゴルフという存在に嫌気が差すのが普通の感覚だ。

 人間はその不自然な人口の箱庭を維持するために、農薬を撒き散らす。本来、自然の野に一種類の植物しか生えておらず、それが同じ長さに切り揃えられていることなどありえない。しかも、その植物は他の植物との競争に弱い芝である。ゴルフ場が由々しき環境破壊の上に成り立っているのは明白だ。

 そのゴルフ場の繁栄をモッケの幸いに、旺盛な繁殖を遂げている昆虫がいる。本来はフィリピンが原産のセマダラコガネである。1センチ足らずの小さなコガネムシであり、割と普通に見られる。色は生活圏によって異なるらしく、都市部にいるものはメタリックな褐色で、その名の通り、前翅、胸部に黒っぽいまだら模様が見られる。山間部のものほど黒くなるという。地味な甲虫であるが、よく見ると褐色の個体は金色めいた輝きを持っており、味わいがある。杜氏は小学生時代はこれをムネアカセンチコガネと混同し、糞を食糧としないセンチコガネの一種であると誤解していた。だが、さほど似ているワケではない。思い込みであった。

 成虫は広葉樹の葉を、幼虫は草の根を食糧とする。成虫はともかく、幼虫の食性に問題があるらしい。つまりは広大な芝生は幼虫の格好の餌場となるらしいのだ。ゴルフ場は昼間にしか利用されない。夜にゴルフをするヤツは、打ちっ放しの夜間照明がついた練習場に通う。コースに出ても真っ暗でゴルフにはならない。そしてセマダラコガネは夜行性である。ゴルフ場のフェアウェイ、ラフ、グリーンに、ある時期の夕方になると夥しい数のメスのセマダラコガネが舞い降り、性フェロモンを撒布し始める。そうすると、待っていたかのように、やはり夥しいオスが飛来する。そして日が落ちるあたりを境にそこかしこで乱交パーティのごとく交尾が行われるらしい。交尾したメスはその足で地中に潜り、産卵をする。

 交尾の最中というのは、昆虫にとって、孵化、羽化などと並んでリスクが高い局面である。無防備な状態で静止しているのだから当然である。そこをハサミムシ、オサムシなどが襲って貪るらしい。これらの肉食昆虫にとっても、セマダラコガネの性の供宴は格好の機会であると言える。更にその上空では、カラスが舞っており、ハサミムシ、オサムシを含めて猟を企てるらしい。だから、供宴がお開きになった後には、セマダラコガネの死骸の残骸さえ残らないという。小なりとはいえども、見事な食物連鎖の完結である。カラスがご丁寧にもきれいに後片付けを済ませるため、ゴルフ関係者もセマダラコガネの繁殖の兆しすら、長いこと察することが出来なかったのだろう。

 歴史は夜作られるというが、ゴルファにもキャディさんにも、ゴルフ場でそういった性の供宴が夜毎開催されていようとは知る由もない。また、孵化した幼虫は既に土中におり、居場所を人間から窺いようもない。メクラ撃ちの農薬散布となり、効率も当然落ちる。不自然な形で庇護された芝生はこうして、知らぬ間にセマダラコガネに蝕まれることになっていたらしい。それに人間が気付き始めたのも、被害が顕著になったからであろう。幼虫の被害により乳化菌病に冒された株はセマダラ株などと呼ばれるらしい。ゴルフ場の害が特に顕著だと判明し始めたのは1990年代というから、本当につい最近のことだ。

 ゴルフ関係者から見れば、害虫なのかもしれないが、自然環境の保護の立場からは全く素晴らしい益虫なのではないかと感じる。環境破壊の無視できない要因であるゴルフ場への鉄槌なのであるから。あの不自然な人工の原っぱを駆逐するための福音がセマダラコガネの大繁殖なのであり、たかだか遊興のためにあのような行状を示した人間に対する自然からの当然の天罰である。自然はそれ自体、されるがままに人間の侵略を受け容れる。だが、巧まざるフィードバックが発生し、大きな営みに刃向かうような行為は巡り巡って、加害者へと返ってくることになる。ゴルフが真に自然に親しむスポーツならば、セマダラコガネの及ぼす害という形で下される自然の営みをも肯定すべきであろう。それを駆除に走ること自体、ゴルフ関係者の謳う自然と和合するスポーツではないという反証に過ぎない。馬脚を現したということだ。セマダラコガネ、もっとやれ!、ゴルフ関係者、ざまぁみろ!、である。

 セマダラコガネのもう一つの特徴は触覚である。プロペラの羽のように、先端が三叉に別れ、広がるようになっている。小さな昆虫であるから、そのセンサで鋭敏に天敵の襲来などを探っているのだろう。文字通りアンテナにも似ている。三本のセンサがそれぞれ何を司っているのかは、人間などには推し量ることが出来ない。

 ほんの1cm足らずのセマダラコガネにも、自然の意思は
宿っている。それが見えないのなら、結局人類は滅亡の道を辿るしか選択の余地はない。



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