センチコガネ

原罪から始まったもの


 およそ生殖行為に対して羞恥心を持つ動物は人間だけであろう。昆虫が美しい音で鳴くのも鳥の羽が色鮮やかなのも、猛獣が文字通り猛々しいのも、全ては生殖行為を優位に行うための生態である。アダムとイヴを唆して知恵の木の実を食べさせてしまった蛇でさえそうである。アダムとイヴが局所をイチジクの葉で隠してしまってから、人間はそのようなことに思い煩う必要がないエデンから放逐されてしまった。性に対する含羞などという不要なものを身につける一方で、各地で道祖神のようなものが必ず存在し、温泉地ではそれらを集めて秘宝館が建っていたりする。性を深淵かつ神聖なものとして偶像化するような習慣もまた、人間ならではの文化である。
 生殖行為に対する禁忌の観念が人間を他の動物から分かつ最も顕著なものだが、栄養摂取、発汗などを伴う生命活動、排泄といった代謝サイクルも人間ははしたないという概念で忌む傾向にある。お作法などはこういった活動をあからさまに行うことへの禁忌である。また宗教によっては食べ物にタブーがある。日本ではポーク・カレーやビーフ・カレーは普通に食されるが、インドではヒンズー教徒は牛を食べないし、イスラム教徒は豚を嫌う。だからインド・カレーではマトンとチキンがメインとなる。元々その宗教の神が牛なり豚だったりしたはずなのに、モスレムである(元気な頃の)モハメド・アリが「豚は最悪な食べ物だ」などと発言しており、「神様を嫌ってるジャン」などと宗教のいい加減さを笑ったものだった。排泄ともなれば、その禁忌の概念はより強くなる。
 しかし、人間も含む生態系は微生物がより大きな生物に食われることから始まって、ターミナル・アニマルの排泄物に微生物が集まることで連鎖が出来ている。その話を聞いたのは小学校高学年の頃だったが、こういったシステムこそが神の仕業に違いないと感動した記憶がある。自然崇拝の拝火教に宗旨替えしたワケではないが。食べること、排泄すること、性の営み、これら全ては神の下で行われる神聖な行為なのではあるまいか。今でもそう考えていることに変わりはない。だが人間はこれらを忌んで斎戒沐浴したり祈ったりすることを神聖な振る舞いと考える。逆行しているような気がする。身体を清めるのは生命活動を忌む行為だし、祈りは同化すべき自然のシステム=神を人間から切り離して認識し、過度な期待をかけることにほかならない。忌み嫌っている栄養摂取から排泄までの代謝サイクルにも神が宿っているのではあるまいか。

 晩年の石ノ森章太郎作品で実写版番組が人気を博した(?)「ナイルなトトメス」の主題歌を、石川ひとみが唄っている。その中に「イブンバツータ、スカラベルージュ」という歌詞がある。実はヒロイン・トトメスが魔法を使う際の呪文である。イブン・バツータはイスラムにおけるマルコ・ポーロのような旅行家で歴史上の人物だが、スカラベ・ルージュというのは、エジプト人にとっての聖なる虫、スカラベの翅が赤い宝石のような輝きを持つことを示す。ナンセンスな悪魔採集の少女漫画のようだが、この辺り奥が深い。「ナイルなトトメス」でヒロインを演じた当時の堀川早苗は、演技が下手なんだか初々しいのかよくわからない不可思議なテイストが魅力的だった。決め台詞は「星は何でも知っている。ナイルも何でも知っている」(平尾昌晃か?)で、例によって意味不明。
 ファーブルにも昆虫記の中で著されたスカラベはいわゆるフンコロガシで、後肢で糞玉を転がす様子を天体を転がす姿に準えた古代エジプト人が崇拝したという。それ以前に、排泄物を処理する得難い昆虫であることも、聖なるものとされた理由なのではあるまいか。日本にスカラベはいないが、同じような昆虫ならいる。糞虫とされているセンチコガネ、ダイコクコガネなどである。これが殆ど例外なく美しい姿をしている。排泄を忌み嫌う人間を嘲笑するかのように。
 センチコガネは体長14〜20mm程度の鞘翅目昆虫で、バランスの取れた丸っこい身体をしている。テントウムシは球を半分よりやや少なめに切り取った形状をしているが、センチコガネはほぼ半分に切って、胸と胴にやや切り込みを入れた印象である。極めて近い種にオオセンチコガネがいるが、身体がセンチコガネより大きいワケではなく、翅の色がセンチコガネとやや違ってヴァリエーション豊富である。センチコガネのセンチは感傷的というのでも百の接頭語でも長さの単位でも、戦闘が行われている場に多いからでもなく、雪隠から来ているという。厠である。ただし、センチコガネは後述するように糞が地面に接していなければ寄ってこないので、雪隠には決していない。これがまた、言語を絶するほどに美しい。オオセンチコガネは棲息環境によってか、金赤紫、金緑、金青緑色、金紫などの個体によってのヴァリエーションが豊富でメタリックではあるが、一種の磨き上げられたような光沢を帯び、それこそ宝石のような質感を持つ。スカラベルージュとは言い得て妙である。センチコガネは黒が勝った紫でオオセンチコガネより地味ではあるが、渋味を帯びた光沢がまた魅力的だ。翅に縦に細かく走る縞も精緻なデザインを思わせる。
 エジプトの元祖スカラベは糞玉を作ってそれを移動させて産卵する関係からか、後肢が長く発達しているが、センチコガネは糞をその場で穴を掘って埋めて産卵するので、前肢に凹凸というか突起のようなものがあり、頑丈に出来ている。ケラのように前肢が掘削仕様になっているのだ。成虫も獣糞や動物の死骸を食べる。地上を這う姿よりも飛翔している姿の方が遥かに多く見かける。美しい翅が輝いて目に付くということもあるのだろう。地上ではかえって見つけにくい。
 その美しさとヴァリエーションの豊富さから、普通種であってもマニアの人気が非常に高い。馬や牛の牧場で採集することも出来るが、ヨーグルトを使ってトラップをかけると容易に捉えることが可能だ。同じ糞虫で近似種のダイコクコガネは頭の突起の形状が魅力で、これもまた人気が高い。似たような機能を果たしているシデムシがパッとしない形状、色合いで、不吉なイメージと陰気な印象であるのに対して、センチコガネ、ダイコクコガネはどこか陽気で華やかな雰囲気を醸している。

 杜氏が子供の頃は初夏から夏にかけてよく飛んでいるのを見かけることができた。道路は舗装されていないことの方が多く、飼い犬や野犬の糞が野ざらしで転がっていた。よくうっかり踏みつけてしまった子供がエンガチョ扱いされもした。その環境下で、センチコガネはよりどりみどりで糞に下りて、地面を掘り下げることが出来た。道端もまた自然の一部だったのだ。今はそうはいかない。アスファルトの地面は掘り下げて幼虫の住まいとするワケにはいかなくなってしまった。加えて「犬の落し物は飼い主が持って帰りましょう」などというお節介でお門違いの張り紙のせいで、コンビニの塩ビ袋は犬の散歩の必須アイテムとなってしまった。本来は「犬の落し物は自然に帰してあげましょう」が正解なのだ。だから杜氏は今でも植え込みや空き地などの土の地面が残った場所だったら、センチコガネのために犬の糞は残しておくべきだと考えている。
 一年ほど前、地元の自然公園近くを歩いていると、見覚えのある光沢が目の前をよぎった。アスファルトの路上でのことだったが、もしやと思い追いかけて着陸地点へ駆け寄ると、やはりセンチコガネだった。道の横の藪に降り立ったところを見ると、やはり土が露出した部分にはまだ獣糞が豊富にあるのかもしれなかった。そのあたりはかつて牛が放牧されていた場所だった。20年以上も前に牧場は閉鎖されたが、今も食物を求めてセンチコガネが棲息していることを思うと、いじらしく感じられた。無論、久し振りに自然の状態で見るセンチコガネの輝きは少しも損なわれていなかった。

 聖なるものと不浄なものは隣り合わせ、または同一の存在なのかもしれない。光明皇后は因果な運命を負った人物だったから、今で言う福祉に尽力したようなところがある。そういった施設のひとつで、入浴しているらい病患者から背中を流してくれと要求され、膿で爛れた背を素手で洗ったというエピソードがある。皇族の、しかも最高位に近い人物である。本当にそういうことがあったかは疑わしいが、事実だとしたら大変なことだったのだろう。そのらい病患者が実は仏の化身で、背中を流し終わるやいなや真の神々しい姿を光明皇后の前に見せて、彼女の行為を称え、以後も変わらぬ心がけを保つよう戒めたというのがオチ。何だか金の斧、銀の斧のようなお話である。生きていることそのものが尊いとしたら、生を維持するための食事、排泄、生殖行為もやはり尊い。それから生じるものは汚物などではなく、自然に還元すべき尊い資源となる。数十年前まで当たり前に使われていた野壺、下肥などは、自然な発想の産物だったと言える。
 無数のスカラベを懐に抱えるナイルが有数の古代文明足りえたのは、母なるナイル川が不規則周期で氾濫を起こし、大地を肥沃なものへとスクランブルしてきたからだというのは、小学生の地理で習うことだ。だが、現代人は小学生でも知っていることを守りはしない。氾濫し勝ちな河川は護岸化が進み、水害による地形変化を強制的に回避させる傾向にある。狭い国土の日本。川の氾濫に蹂躙されてしまえば、人の生活が常に脅かされてしまう。仕方がないことでもある。ただ、地形を変えないようにすることが、最も地形を不自然に歪めることになっていることに気づく人は少ないように見受ける。今にして思えば、山田太一脚本のドラマ「岸辺のアルバム」のモティーフとなった多摩川、狛江市付近の水害が都心での最後の大規模な河川氾濫による自然災害だったかもしれない。

 本来隣接している聖なるものと不浄なものの境界を引いてしまったのは、人間の原罪そのものであるように感じる。それが種としての人間にとって近視眼的にはいいことであるのは確かだろう。だが、長期的にはどうなのか、センチコガネの美しさを思い浮かべるたびに疑問に感じてしまう。



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