ショウジョウトンボ

絵にも描けない鮮やかさ

 杜氏の身体には異常がある。

 などとノッケから脅かすつもりでもない。以前にも触れたことに過ぎない。色覚異常である。別段丑三つ時になると行灯の油を舐めたがるというようなものではない。親の因果が子に報いというが、そのデンでいけば祖父の因果が巡ってきたというところだ。父のジェネレーションでは誰も出なかった。だが杜氏の従兄もやはり色弱だ。怨霊などの祟りは大概七生までと相場が決まっているが、この怨念はもっと根深い。エンドレスだ。もっともこの七生というのも、途上国の教育を受けていない人々が「一、二、三、・・・あとたくさん」とものの数え方を知らぬように、単に「何代も」というだけの意味なのかもしれないが。
 正常な色覚と何が違うかといわれても、本人達にはわからない。運転免許を取るときに、何やら傘立ての番号札をでっかくしたようなプラスティックの三種類に色分けされた楕円のカードを見せられて、「これは何色ですか?」と訊かれた。ご丁寧に赤、青、黄色だった。幼稚園児に戻った気がした。
 何が困るかといえば、あの色神検査用の本に示された数字や図形が読めない。いや妙な具合に読めてしまう。ただそれだけのことだ。いや、一回だけ自分の異常さを自覚する機会があった。中学一年生の美術で風景画を描かされたことがあった。杜氏は夜景を選んだ。杜氏の家は今も昔もペリー来航の地、浦賀から結構な山を越えて、更に少し下った住宅地にある。塾の帰りは夜になった。山の頂上から造船所(当時は浦賀ドック、後に住友重工、今は閉鎖(東京海洋大学誘致中))のクレーンが見下ろせた。マテバシイの森から仄明るい光にライティングされたクレーンは幻想的だった。常緑樹の濃い緑に浮き上がった姿は、自然と人工の造形物の調和と不調和を心に訴えてきた。杜氏はそれをリアルに描きたかったためなのか(よく憶えていないのだが)、夜に出掛けて実際に肉眼で捉えつつ、彩色を試みた。満足できる出来映えだった。帰宅して明るいところで絵を見るまでは。そこには濃い青と紫で塗られているべき夜の闇が、赤とピンクで彩られていた。その学期の美術の成績は2だった。杜氏はまがりなりにも学年で一番か二番の優等生だったので、このデキゴトは正に赤っ恥だった。
 このように暗いところでは確かに感覚がおかしくなる。だが、それは誰でも多かれ少なかれあること。杜氏にとっても、赤は赤だし、青は青だ。そして鮮やかな色はやはり鮮やかに映る。

 アカトンボは文字通り赤いトンボだが、狭義のアカトンボはアカネと称される小型のトンボに限られる。羽化した成虫として発生する季節によって、ナツアカネ、アキアカネと分類される。茜は額田王が「茜さす・・」と詠んだ濃い赤だが、トンボのアカネはややオレンジがかったくすんだ色調も帯びており、額田王の「・・君が袖振る」鮮やかな光景にはそぐわない。「週間新潮は明日発売されます」のCMの基調の方が相応しい。清水邦昭、原田伸郎で構成されたあのねのね(実はプロ・デビュー前には笑福亭鶴瓶も在籍)はアカトンボを、「羽を取ったらトウガラシ」と表現し、ニーチェの永劫回帰に準えたが、どうもトウガラシの方が色調は鮮やかだ。あのねのねのフォークでの永劫回帰に対抗して、それをジャズでやった御仁が「リターン・トゥ・フォーレヴァー」を相前後して発売したチック・コリアである。(真に受けてはいけない)
 アカネ族よりは明瞭に色鮮やかなトンボがいる。ショウジョウトンボである。ショウジョウ、つまり猩猩は狸囃しのライヴが催される寺院ではなく、中国に伝えられる怪獣で、頭が真紅の髪の毛と赤い顔に彩られた猿、身体が狗、声が小児で、酒を好むという。最後のノンベエである特徴を除けば正にハイブリッドなキマイラ(キメラ)で、日本の鵺のようなものであろうか。オランウータンがモティーフになっているとの説もある。わかりやすい例を引くと、国際的大ヒット映画となったスタジオ・ジブリの「もののけ姫」で、この猩猩達が人間の森林開発計画に集団で抗議行動を起している。もののけ姫の対極にいるもう一人のヒロイン、エボシ(この人物はどうしても「風の谷のナウシカ」のクシャナ姫と同一人物にしか思えない)に「森の賢者たるお前らが・・」と呼びかけられているところをみると、怪獣とはいっても、それなりに尊重される存在なのかもしれない。
 ショウジョウトンボはこの猩猩の髪や顔のように赤いトンボという意味であろう。アカネと違って目の醒めるような真紅だ。レッドというよりはスカーレットだ。羽化したばかりの雄は黄色っぽいが、成熟するに連れて鮮紅色に染まってゆく。生殖と関係があるのだろうか。胸や頭までもが赤い。正に「羽を取ったらトウガラシ」なのだが、杜氏はショウジョウトンボをアカトンボには加えたくない。十把一絡にはしたくないほどの鮮やかさなのだ。じっと見ていると目が痛くなるほどと形容する人もいる。全長5cm足らずのトンボに過ぎないのだが、存在感は強烈である。シオカラトンボほどではないにせよ、どこにでも見られる普通種に過ぎないのだが、多くの人が初めて捕らえたときに身が震えるほど感激したと語っているのも頷ける。
 元々トンボという昆虫は飛翔が巧みだし、停まっていても発達した複眼で三六〇度全方位から襲いかかる危機を察知して敏捷に飛び立つので、捕らえるのが難しい種だ。指先をクルクル回して眼を回らせるという迷信があるが、杜氏はそれでトンボを捕らえた憶えがない。ヤンマは肉食昆虫としては強力な一族なので、自信満々の風情で直線的に飛んでいる。従ってその経路を認識できれば捕らえるのは容易い。ところが、シオカラトンボのような中型種は方向転換も自在なので掴まえにくい。ショウジョウトンボも然りである。テリトリに対する執着が旺盛なトンボであるから、自在な空中戦も必然的に求められるのだろう。的確な場所、的確な面積のテリトリは雌との出会いの機会に大きな要因となるから、自分の遺伝子を継承させることを第一義とするトンボにとっては死活問題である。トンボの交尾は、雄がカプセル状の精巣を雌の生殖器に差し込むことで行われるのだが、トンボの雄は相手が処女雌であろうとなかろうとお構いなしで、前に交尾した雄の精巣を掻き出してまで、自分の精巣を差し込むという強引さである。
 雌は雄のような鮮やかな真紅ではなく、羽化直後の黄色からオレンジ色染みた色に変わってゆく。シオカラトンボの雌がムギワラトンボであるのと同様、性による形態差は大きい。

 色覚異常者は日常生活に支障はないものの、確実に就ける職業には制限があり、正常な色覚を持つ者から区別されている。だが色彩感覚は個人の感覚に閉じた上での相対的な差異として認識されるものであり、色覚異常者にとっても、全色盲でない限り、赤は赤、青は青で明確に認識される。異常者にしても正常者にしても、それが他の障害のように第三者から明確に認識できる差異ではないために、どこがどう違うのかなどわかりはしない。わかりはしない者から制限を受けていることは辛いものだ。
 杜氏は幼い時点で、生物学や化学の方面へ進むことが不可能であることを知ってしまった。諦めざるを得なかったのだが、釈然としたワケではない。ショウジョウトンボを目の当たりにすると、その鮮やかさに感動すると同時に、やがてその釈然としなかった悔しさが、痛みを伴って心にじんわりと広がってゆくのを感じる。

 杜氏にとってショウジョウトンボは美しいが苦味を伴った昆虫である。杜氏の子孫の男達も同じ苦さを噛み締める運命かと思うと、その思いもひとしおである。



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