シデムシ

浄化と不浄の間に


 小学生の頃、生物研究者から食物連鎖の話を聞いたことを鮮明に覚えている。微生物から昆虫、小動物、猛禽、猛獣と弱肉強食関係は再現がないように思えるが、結局肉食の強大な動物とて死からは逃れられない。その死骸は野に晒され、微生物によって分解され土に返る。平家物語の冒頭で訴えられている無情感を、自然界がとわずがたりに示しているように思えた。因果応報というのはこういうことかとも感じた。そして、その限りない環の繰り返しに、悠久の地球の営みを実感し、感動すら覚えた。
 ところが長じるに連れ、疑念が湧いてきた。身体的な強靭さはいざ知らず、地上最強の生物とは何か。言うまでもなく、道具を手にすることによってどのような猛獣も退けることができるようになった人間である。これをターミナル・アニマルと呼ぶ。食物連鎖の終端に位置する動物という意味だ。人間の住まない地域、たとえば北極ではホッキョクグマ、南極ではペンギンが(何と!)ターミナル・アニマルであるらしい。ホッキョクグマもペンギンも死骸を微生物に提供して果てるのであろう。しかるに人間はどうか。 文明の拓けた地域では、食物連鎖の終端は途切れて環を成していない。

 人間から見て不浄なものに集まる生物は多い。無論、目に見えない微生物はそうであるし、ハエ、センチコガネ、ダイコクコガネなどの糞虫、ゴミムシ、オサムシ類、ダンゴムシ、ミミズ、etc. 水中に目を転じれば、夜光虫、シャコ、種々の魚類。中でも動物の死骸には必ずといっていいほど寄って来る虫がいる。その名もシデムシ。死出虫、埋葬虫とも書く。死骸の周囲の地面を掘り、徐々に死骸を土中に埋葬してゆく。そして卵を産み付け、死者を土へと浄化する過程を幼虫と共に請け負う。確かに不気味で不衛生な虫ではある。動物の死骸が既に明らかに生命をなくしているのに動いているように見える場合、中で無数のシデムシが活動しているのだという。幼虫もコガネムシやカブトムシの幼虫のような典型的な甲虫類に見られる白い芋虫型ではなく、ダンゴムシが大きくなって尾の方が細くなったような、あるいはフナムシを真っ黒にして尾の方を長くしたような、絵に描いたような気味の悪い形状をしている。最も多く見られるのはオオヒラタシデムシで、杜氏の幼かった頃には普通に見られた。最近は放置された動物の遺骸など、住宅地や商用地には見られないから、自然に目にする機会も減っている。
 センチコガネ、ダイコクコガネ等の糞虫はほとんど例外なく大変美しい姿をしている。その色彩、形状は宝石にたとえられる。古代エジプト人はフンコロガシが後ろ足で機用に糞玉を転がすようすを見て、太陽や月などの天体を転がす駆動力を連想し、この虫に神聖さを感じていたという。その名残が聖なる虫、スカラベという名である。東映の製作していた子供向けの親しみやすい少女変身ヒロインTVドラマシリーズで、「ナイルなトトメス」という番組があり、変身後のヒロインの決め台詞(呪文?)のひとつが「スカラベ・ルージュ」だった。フンコロガシの羽のように美しい宝石のような赤という意味か。スカラベは赤くない気もするが、感じは出ている。日本でもたまに外を飛んでいるセンチコガネ、オオセンチコガネの羽のきらめきに、思わず感嘆させられることもある。造形も球形を真中ですぱっと断ったようなシンプルさで魅力的だ。
 ところがシデムシにはそういうところが微塵もない。ただひたすらに不気味で不衛生な昆虫にしか見えない。ただ、シデムシがハエ、カ、ゴキブリのように、実際に病気の媒介をするかと言えば、そういうことは聞かない。人間の都合だけで定められた害虫、益虫の区分で判別すれば、動物の死骸を片付ける意味から益虫になるのであろう。最近はアリのように人間にとって不快なだけで害虫と見なされたりもするが、シデムシが示す働きかけの効果を思うと、害虫呼ばわりするのは気の毒だ。
 オサムシに近い種にマイマイカブリがいる。マイマイとはカタツムリ類の総称だ。カタツムリを食糧として襲い、しばしばそれを殻ごと頭から被って歩いていることから、その名がある。体型は概ねオサムシと変わらないが、カタツムリの殻に頭をつっこむせいか、頭部が異常に長い。この昆虫は人から不衛生だと蔑まれることがない。ただ、実際にはオサムシと大差がないように見受ける。大きな違いはマイマイカブリが生きているものを襲って食糧にするためだと思う。その方が残忍であるが、少なくとも餌は新鮮で清潔である。ただ、獲物を殺して結果的にその死肉を食らうことで生活するという意味において、マイマイカブリもシデムシも大差はない。そこに衛生観念を持ちこんで好悪を論じるのは、人間の身勝手に過ぎない。
 そもそも、人間のしていることはシデムシといかほど違うのだろうか。鳥、豚、牛、羊を殺し、その屍を貪っていることが、シデムシの食生活より尊いというのだろか。しかも屍を食らう目的で飼育し、流通という経済活動を営むことまでしている。冷凍保存、調理という文化で屍を処理することは、生命への冒涜ではないというのだろうか。人間にシデムシを蔑む理由など存在しない。

 人は地面をアスファルトで蔽い、多くの海岸線をコンクリートで封印してしまった。センチコガネやシデムシが不浄なものを浄化するための地面がどんどん消えてゆく。春になると大気中を舞って雌花を求める針葉樹の花粉も、吸収されるべき地面をなくし、アスファルトに反射して行き場をなくしている。センチコガネが片付けてくれるはずの、「ペットの落し物」も飼い主のビニール袋に拾われるのが「マナー」となってしまった。人間がアート(人工)をネイチュア(自然)から相反する概念と規定したときから、人という種は自然の食物連鎖や動物との生活圏から自らを切り離したのだろう。寓話でバベルの塔を戒めることをしていながら、そのことに気付かない。ターミナル・アニマルとして君臨することの代償として、本来人間は屍を野に晒し、シデムシに葬られながら微生物に分解され、土に返らなくてはならない。身を自然に供する義務を拒否した生物に与えられるのは、一時的な繁栄の後の悲惨な滅亡であろう。主義主張、もっと下世話な利害関係の対立から勃発しているように思える戦争も、個体数を増やし過ぎた人間を、地球というニッチに相応しい数に制限するための自然のフィードバックに思えてくる。



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