ハイイロゲンゴロウ
幻想、妄想、瞑想
湖沼などの止水域には得も言われないロマンがある。人を惹きつける一方で、安易な人の接近を拒みつつ、理論では決して説明できない自然が持つ不条理を文明から守っているようなところがある。「夜叉ヶ池」「高野聖」の泉鏡花的伝奇、ロッホ・ネスの恐竜伝承、レディ・オヴ・ザ・レイクも活躍するアーサー王伝説に象徴されるケルト人文化、etc. 滝とも清流とも海とも違う。水の清浄さはそこなわれやすい止水でこそ得難いものであるがゆえに、人智を越えたものに守られているように思える。
かつては存在したが今は消えてしまった同じ湖沼を、別の人が全く違った表現をするのを聞いたことがある。ある人は「あそこにはかつて、とても幻想的な沼があった」と語り、別の人は「あの汚い池だろ?」と断じている。二人の間にあるのは年齢差であるが、それは多寡だか十歳と少しでしかない。ただ、そこには彼らの少年時代が戦前と戦後にまたがっていたというギャップがある。手付かずの聖域だった「幻想的な沼」が、戦後の開発によってあっと言う間に「汚い池」と化したのだろう。ゴミの投棄や洗剤などの生活廃水の汚染が貴重な止水域を侵していった過程は想像に難くはない。
杜氏が二歳から九歳までを過ごした横須賀北部では、どぶ川にすらザリガニやアカテガニが住めるほどであったし、巨大住宅と化す前の鷹取山の麓には清流と呼んでも差し支えない小川とところどころに沼があった。子供達は駄菓子屋で売っている安物のタモ網を買って、沼に入り、水棲昆虫や水棲動物を採ったものだ。よくしたもので、タモ網は安物だけにすぐ使い物にならなくなり、子供達の旺盛な好奇心を以てしても、自然は過剰な被害を被らなかった。横須賀東南部に転居すると、そこには僅かながら田圃が残っており、小さな池や畦には水棲動物が潜んでいた。種々のカエル、イモリ、ミズカマキリ、タイコウチ、マツモムシなどである。学校帰りにそれらと戯れるのは楽しかった。三十年以上前に鷹取山の麓は宅地に造成され、今住んでいる横須賀東南部の水田も消えた。
それらはおそらく杜氏の原風景のひとつとなっている。いまでもよく見る夢がある。切り立った崖の上から、プールの数倍はありそうな止水域を見下ろしている。そこには得たいが知れないがどこか心を惹きつけるような水棲動物が何種類も泳いでいる。オオサンショウウオのような巨大なものもいれば、カワセミのような造形も体色も美しい鳥、タガメのような巨大で獰猛な肉食昆虫も見える。勇んで崖を降り、それらを手にしようとするのだが、険しい地形に阻まれて決して止水域のほとりに辿り着くことはない。
今は都市部、住宅地では、流水であろうが止水であろうが、水自体を見えないようにカヴァーしてしまう傾向が強い。これが都市の高温化現象の原因にもなっている。探して探せないこともないのだが・・・。寧ろ都心に文化遺産的に残った止水が多い。中央線・総武線の市ヶ谷〜飯田橋にかけての外堀の名残、皇居の堀、不忍池。あまりに人の営みに近く、そこには幻想などあまり期待は出来ない。それでも夜の不忍池の生い茂った蓮の葉陰には、人智を超えた何かが蠢いているのかもしれない。
ギリシア神話の神々や妖精は多情多感であったせいか、様々なものにメタモルフォーゼされてしまっている。自らの姿形に見惚れてスイセンになってしまったナルキッソズや、恋焦がれて声だけになってしまったエコーの例を挙げるまでもない。特にゼウスやアポロンの多情から窮地に追い込まれたのを別の神が哀れんで動植物に変身した例が数限りない。高位な神ほど罪作りなのはどうしてなのだろうか?
だが、日本の生物には擬人化された種が意外と少ない。変身譚もさほど多くはないような気がする。小学校の国語の教材で、琵琶湖の源五郎鮒の由来を習った気もする。その程度しか思い当たらない。その代わりなのかどうか、幻想的でありながら日本の湖沼は五郎沼とか八郎潟とか道頓堀とか、発見者、開発者の名を冠したがゆえに、田吾作的イメージのネーミングとなってしまったものが多い。源五郎鮒が人間が変身したものなら、ゲンゴロウもそのデンで同じくメタモルフォーゼの産物なのだろうか。
ゲンゴロウは体長が40ミリもある水棲の鞘翅目昆虫としては巨大と呼んでいいほどの大型種だ。これより大きな水棲昆虫はタガメぐらいしか思い当たらない。杜氏が子供の頃には、すでに滅多にお目にかかれない存在となっていた。だが、ヴァラエティ・ゲンゴロウと呼ぶべき、クロゲンゴロウ、ハイイロゲンゴロウ、シマゲンゴロウ、スジゲンゴロウ、マルガタゲンゴロウなどなら、鷹取山の沼などでよく見かけた。クロゲンゴロウは20ミリ以上あるが、他は15ミリ前後と、ゲンゴロウと比較するとイメージ上は数分の一、ことによると体積比では十分の一にも満たないような矮小種ばかりだった。
日本に百種棲息しているというゲンゴロウの類は、皆揃って側面から見ると見事な流線形をしており、いかにも水中で活動し易そうだ。事実、活動は非常に活発であり、そのエネルギーに見合うだけの健啖家でもある。ところが、タガメ、タイコウチ、ミズカマキリのような水棲吸血カメムシのように顕著な獲物の捕獲器官を持たないため、瀕死の獲物が死骸にしかありつけないらしい。それを嘆いて草食に転じてしまった種もあるという。
分類上は以外にもオサムシ上科に属するらしい。オサムシ、ゴミムシの多くが上翅を開くことが出来ず、従って飛べない。ところが、ゲンゴロウは止水域から止水域とニッチを求めるためか、飛翔が得意である。夏の灯火に寄って来たりもする。水中のみではなく、空中でも機動力を発揮することが出来るのだ。ゴキブリやカマキリが逃げ場に窮して、突然飛翔すると、九割方の人間は意表を衝かれてたじろぐ。ゲンゴロウも水中を巧みに泳ぐイメージがあまりに強いため、目の前で飛ばれるとかなり驚かされることになる。ゲンゴロウは造形がすっきりしており、体色も美しいものが多い。この辺りがオサムシとの共通点かもしれない。陸上では独特の臭気を発散することがあるが、オサムシ類の放つ悪臭に比べたら始末にいい。従って愛好家も多く、飼育も盛んだ。カツオブシでもやっておけば餌には苦労しない。何のことはない。カツオブシはカツオの死骸の加工品だ。飼育してみると、堅牢な造形からイメージされるように、長寿であるらしく、成虫で越冬してしまうらしい。ただ、自然界でゲンゴロウがどう越冬しているかは、よくわかっていないと聞く。だが、幼虫はアカムシなどの健康な個体を餌にするらしく、飼育が容易くはないので、累代飼育には適さない。
自然界でも、水槽でも飼育でも、共通して見られる行動が、「甲羅干し」である。水黴のようなものが身体に繁殖し易いので、それを日光消毒によって未然に防ぐ行為である。また、さすがに翅を甲羅干しによって乾かさないと飛翔は出来ないらしく、飛翔の準備にも甲羅干しが機能しているらしい。泳ぎがいかに巧みでも、エラ呼吸しているワケではなく、翅の下に空気を蓄え、吐いた二酸化炭素と交換するアクアラング方式の呼吸を採る。二酸化炭素濃度が濃くなると、水中の酸素と二酸化炭素が自然に置換する仕組みを利用し、わざわざ喚起せずとも長時間潜っていられるワザを用いる交尾の際、オスはメスを吸盤の無数についた前肢で抑えつけ、かなりの長時間行為に及ぶ。この際にメスが窒息して死ぬこともあるらしい。浅ましいことだ。だがカワトンボのごときは、他のオスと交尾済みのメスの生殖器から精子嚢を掻き出し、自分のものと差し替えてしまうというから、より浅ましい。ゲンゴロウの場合、交尾済みのメスには尾に白い環のようなものが残る。既婚者マークだ。昔の日本人で言えば鉄漿に相当する。
杜氏が子供の頃以前、ゲンゴロウが大量に捕獲できた頃には、地方によっては食用にもしていたらしい。またぞろ、長野県のある地域なのだろうか。だが、減反、農薬、護岸化、水質汚染に加えて、悪魔の申し子であるブラックバスによる捕食で、自然界でのゲンゴロウの生育条件は悪化の一途を辿っている。日本のゲンゴロウは世界のゲンゴロウの中でも最大級の偉丈夫であるのに、残念なことだ。
ところが一種だけ、例外がある。コイツは止水域の神秘性などお構いなく、有機的にやや汚れた水でも棲息し、多くは群を為す。汎世界分布種、つまり国籍を問わず世界に汎く棲む種であるらしい。ハイイロゲンゴロウである。コヤツは淡い灰褐色をしており、角度によっては金色に輝いて見える。だが、全くの普通種に過ぎない。特技は甲羅干しを経なくとも、水中から直接飛翔へ移る機動力である。杜氏が小学生の頃、夏になると学校の近くのプールで水泳の授業があった。その折に必ずどこからともなく飛来して、プールを泳ぎ、自在に飛び立っていったのが、このハイイロゲンゴロウである。他のゲンゴロウは止水域の神秘性を重視し、プールなどという身の蓋もない水たまりなどには目もくれない。だが、プールの水は殺菌のために塩素系の薬剤が多量に含まれているハズである。不思議なのことに、ハイイロゲンゴロウには塩素ですら克服してしまうのだ。後に同世代の人間達から、「プールに飛び込んでくるゲンゴロウ」の話を耳にした。他のプールにもハイイロゲンゴロウは出没していたらしい。汎世界分布種、恐るべしである。
清浄且つ、生物が生態系を営める程度の栄養分を湛えた止水域は消えたワケではない。人の侵入を拒むような領域は未だ存在するし、今後もブラックバスの侵略とは無縁に聖域であり続けるに違いない。いつかゲンゴロウ一族も復活の狼煙を挙げるかもしれない。だが、ガサツで徒党を組むことを好む逞しいといえばとても逞しいハイイロゲンゴロウは、このような神秘性とは無縁な環境で世界各国を自由自在に飛び回ることだろう。ある意味で、そういった存在からは安心感に似たものを感じる。
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