シオヤアブ

おそらくは最強のアサシン

 松本清張という作家は勿論推理作家であるが、古代史にも造詣が深く、古代史に関連する推理小説も著している。その中に古代中近東の暗殺者がハシュシュ、つまりは大麻樹脂の禁断症状で操られていたことをモティーフにした作品があった。おそらくは禁断症状による脅迫だけに限らず、大麻によってもたらされるトランス状態で恐怖感、罪悪感を麻痺させる効果もあったのだろう。暗殺者を意味するアサシンという言葉の語源もハシュシュなのだと言う。

 シオヤアブは別段巨大ではなく、大きくとも3cm程のアブである。ムシヒキアブは他の虫を挽いて食糧にするということから命名されたものだが、シオヤアブはその代表的な種である。捕らえた獲物をミンチに挽いてしまうのは、アシナガバチ、スズメバチのようなハチに多いが、ムシヒキアブは鋭い口吻で獲物を倒し、体液を吸う。その攻撃力は強烈なものには違いないが、ハチやカのようにケミカルな効果で相手を麻痺させるものだとは聞いたことがない。ヒスタミンや蟻酸の効果ではなく、物理的なダメージだけで獲物を仕留めているに違いない。だとすると、シオヤアブをはじめとするムシヒキアブは毒を用いることなく、剣だけで勝負する刺客に似ている。
 シオヤアブの腹部の節々には黄色い剛毛が生える。基調は褐色であるが、この剛毛ゆえに黄と褐色の縞模様を呈する。形態から映る印象と相まって、ハチに見えないこともない。シオヤアブも数多いハチのエピゴーネンとして、捕食者から身を護る効果の恩恵によくしていることは間違いない。だが、ハチと同じく、この昆虫も少なからぬ防衛力を有している。うかつに捕らえようとしたなら、シオヤアブはその捕食の武器である口吻で噛み付いてくる。噛まれるとかなり痛いと聞く。
 シオヤアブは初夏から夏にかけての時期、草原の葉の上などに普通にみられる。オスの腹部終端に一叢の白い毛がある。これが塩に見えることから、塩屋虻と呼ばれるようになったらしい。交尾したままの状態でつがいが飛んでいるのをよく見かける。交尾は文字通り、尾を連結させた状態で行われ、互いに正面から向き合うことを避けているような印象を受ける。そのワリにはつがってまま飛ぶことが多いのには仲睦まじさを感じさせる。昆虫の生殖はオスが精子袋を渡すような形で行われることが多く、シオヤアブも例外ではない。トンボの生存本能は熾烈で、オスは相手が処女雌でなくとも、前に生殖したオスが残した精子袋を掻き退けてまで、自分の遺伝子を残そうとする。シオヤアブがつがいながら飛ぶのも、オスが他のオスに取って代わられることを畏れての現象なのかもしれない。女性に対する独占欲が顕著な昆虫なのかもしれない。
 徹底した肉食昆虫で、幼虫も地中に暮らすコガネムシ科の昆虫の幼虫を襲って食べるらしい。白いチューブに栄養をたっぷり蓄えている印象のコガネムシの幼虫は、いかにも美味そうに見える。成虫もなぜかコガネムシ科の成虫を主な食糧としているらしい。だが、成虫の場合はコガネムシばかりを食べているワケではない。およそ飛ぶ昆虫なら何でも食べてしまうと言っていい。同じ双翅目昆虫などは捕らえやすいので好餌と言える。それどころか同種のムシヒキアブも餌食になるらしい。哺乳類からも一目置かれ、時にターミナル・アニマルである人間を殺傷する能力を持つアシナガバチ、スズメバチですらシオヤアブの犠牲になることは珍しくない。自分の身体の数倍大きな相手、たとえばセミなども容易に狩られてしまう。
 圧巻なのは獰猛な捕食者として昆虫の中でも有数なトンボの類まで容赦なく捕食してしまうことだ。オニヤンマは日本最大のトンボであり、その獰猛さもおそらく日本有数のものである。だがシオヤアブには敵わない。杜氏は幾度となく、オニヤンマがシオヤアブに食われるショッキングなシーンを目撃している。オニヤンマは攻撃力に長け、あまり防御には適していない。攻撃は最大の防御を地で行っているのだろう。一方で、シオヤアブは固い甲冑を身に纏ったカナブンやハナムグリ、ドウガネブイブイなどを好んで捕らえる。防御の薄いオニヤンマなどは寧ろ容易い相手なのかもしれない。
 マングースは毒蛇ハブの天敵と言われる。だが、自然の状態でマングースとハブが向き合うと、百戦百勝でマングースに分があるワケではなく、ハブが噛み付いてマングースを退けるケースも少なくないのだと言う。だが、ことオニヤンマとシオヤアブの対戦に関する限り、オニヤンマが返り討ちを浴びせるシーンは見たことがない。
 今流行の総合格闘技で、ブラジルのアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラという人がいる。双子の弟にホドリゴではなく、ホジョリゴなる人もいて、とても紛らわしい。だが、技量は明らかに兄が上だ。そのスタイルはまるで獲物の下に位置して的確に仕留める豹のようだ。普通、グラウンドに持ち込み、上からマウント態勢に持ち込めば、上になった方が圧倒的に有利である。だが、ノゲイラは下のポジションから容易に関節を決め、相手の動きを完全に制圧する。自身かなりの長身ではあるが、仕留める対戦相手の殆どが彼以上の巨漢である。シオヤアブも相手の下にこそ位置しないようであるが、同じような寝業師であるように思える。柔道にせよ、レスリングにせよ、相手に寝技で固められると体格差があったとしても容易に跳ね返せるものではない。オニヤンマがセミやトンボのような自身の数倍の大きさの相手を仕留められるのも、地上戦の巧みさに半分は起因しているように思える。
 だが、それだけではない。
 オニヤンマも普通に正面から向き合った場合、シオヤアブのような中型の昆虫は最も格好の獲物となるはずだ。だが、おそらくシオヤアブは決してオニヤンマと正対するような愚は冒さないに違いない。シオヤアブは普通、植物の葉の上などで身体を休めている。そして近くを他の昆虫が飛行するのを感知すると、やおら飛び立つ。ただ襲撃だけを目的とする飛翔である。物陰からいきなり飛び出して斬りつけてくる刺客のようなものだ。ハナから対等な戦闘ではなく、奇襲なのだ。奇襲に相応しく、攻撃は一度だけ。背後から大概は頭部と胸部の中間をワンポイントで口吻を突き刺すという方法で為される。多くのカリウドバチは、獲物の神経が集中している箇所に的確な麻酔針の一撃を見舞い、相手の動きを封じると、ファーブル昆虫記にも記述されている。シオヤアブの試みる決まった箇所への攻撃も、そういう意味合いがあるのだろうか。空手の達人が「水月」「金的」のような急所を熟知しているように。そして獲物と共に空から落ち、すぐさま地上戦へと持ち込む。ここでおそらく大型昆虫の動きを制圧する寝技の妙が発揮されるのであろう。こう書くと、空中戦も得意なように思えるかもしれないが、普段のシオヤアブは、後翅が退化して平均痕になったことでより飛翔が得意となった他の双翅目昆虫と比べて特に飛翔力に長けている印象はなく、寧ろ弱々しくさえ感じる。奇襲の気配さえ感じさせずに忍び寄って仕留めるようになっているのだろうか。
 昆虫界有数の攻撃力を誇るトンボやハチを屠る奇襲の威力、水際立った手際は、正に暗殺者と呼ぶに相応しい。その殺傷能力の源になるもの、つまりは人間のアサシンが使っていたハシュシュに相当するものは、飛ぶもの全てに反応する鋭敏な本能であろう。カマキリがじっと静止したままで、周囲の昆虫の動きに反応する能力に似ているかもしれない。もし、シオヤアブが知識や経験で狩猟方法を人間のようにノウハウ化していたら、危険極まりないオニヤンマを襲撃することなどないに違いない。知識、経験といった余計なものを持たぬ無意識が最強であるという証明なのかもしれない。それも隠れた場所から発進して、静かに忍び寄り、背後から決まった場所を攻撃するという唯一の戦闘パターンを持つことの強みに裏打ちされたものであるに違いない。
 アメリカン・フットボールが未だ充分に普及していない頃、日大は攻撃においてレシーヴァーを四方八方に散弾銃のようにちりばめ、最適な場所(プレイヤー)に自在なパスを通す「ショットガン・フォーメイション」の徹底で関東では無敵を誇っていた。だが、競技の普及、戦略の多様化もあってか、やがて法政や早稲田への覇権は移っていった。常勝でなくなった頃、久々に関東で優勝した際に、日大の象徴的指導者はいつもながらに尊大な態度で「やはり、ショットガンは不滅と言うことだ」とインタビューにうそぶいてみせた。だがその言葉がかえってチームの盲信的なショットガンへの信頼の翳りを物語っているとしか思えなかった。愚直とも思えるショットガン・フォーメイション一辺倒から脱却して、より多彩な攻撃を求めたとき、日大は覇権から遠ざかってしまった。ショットガンが最良の策なのかどうかは別として、シオヤアブの暗殺手法のように、単純で力強い方法論は手堅い。

 強大でもなければ毒も持たず、巧みな擬態で獲物から身を隠すこともない。飛行能力も特別ではなく、集団で行動するような機動力もない。シオヤアブのような突出したところがない昆虫が最強の暗殺者であることは示唆に富んでいる。ハシュシュのごとき麻薬でしか、無意識がもたらす集中力を発揮することが出来ない人間は、シオヤアブにも劣っている。無論、暗殺を肯定しているワケではないが。



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