タケカレハ
巨大なる異物
都市の景観には周囲とそぐわぬ創作意図不明の造形物が付き物である。当初は何か有効な機能を果たすことを意図して着工されたものの、何らかの事情で企画が頓挫し、それを処分するにもコストが嵩むことから創作途上で放棄された遺物であったり、アヴァンギャルドな芸術家の意欲が空回りして、芸術性より違和感だけを人に与える効果を呈しているオブジェであったりする。ある人は、クダンの新聞屋野球団が大枚をはたいて輸入したものの、さっぱり振るわなかったアメリカ製大型扇風機の名でそれらを呼んでいたりする。導入意図がさっぱり不明で、存在観だけはあるものの、モノの役に立っているとは思えないシロモノという意味だ。
先日、さる有名な温泉地で、夕食に奇妙な漬物が食卓に上った。見慣れた形をしていたが、食するのには違和感を覚えた。ヒョウタン型の二センチほどの実が漬物になっていた。よくよく見るとヒョウタンそのものであった。食べてみると、案外美味かった。それはヒョウタンもウリ科の植物なのであるから、キュウリやカボチャ同様、ヌカなどに漬ければ漬物になるのも道理だ。だが、育ち切って熟してしまったヒョウタンの実は、飲料水を容れる容器にしかならない。同じウリ科のヘチマが垢すりにしかならないのと同様である。それも、せいぜいが江戸時代までで、今どきヒョウタンをわざわざくり貫いて水筒に用いている人などいない。ヒョウタンがなぜあのような巨大な実をつけるのか、少なくとも植物の実用化ばかりを考える人間にはわからなくなってしまった。無用の長物化しつつある。同じように、ボンタンのような南日本に多く見られる巨大柑橘類の存在も意味がよくわからない。食べるとこれも案外美味いらしいのだが、落下したら乳幼児が無事で済むとは思えないほどに巨大化する意味がわからない。
何気なく野山を歩いていると、思いもよらず巨大な生物に出くわして立ちすくむことがある。巨大とは言っても、マンモスやゴジラほど巨大というワケではない。普段、杜氏が普通の大きさを認識しており、期待値通りの大きさに概ね留まっているカテゴリーの生物が、突然概念を突き破って目の前の現実に登場するようなケースだ。せいぜいトノサマガエル程度の大きさを想定していたカエルがヒキガエルやウシガエルとして、行く手に立ち塞がっていたりするケースだ。
何でもない笹やススキなどのイネ科植物に、70mmほどの長大な毛虫がしがみついていることを、よく目にすることがある。イネ科の植物など珍しくもないので、そのまま通り過ぎそうになる。だが、異様な昆虫の姿が残像に刻まれ、ついつい引き返してしまうことになる。そこに見えるのがタケカレハの幼虫である。毛足の長い繊毛に覆われた身体は独特の黄褐色であったり、淡い青緑に黒っぽい斑紋が並んでいたりする。うっかり触ろうとでもすれば、後々酷い目に遭うことになる。こまかな針に似た毛が身体に付着すると、ヒスタミン系かアルカロイド系かはわからないが、酷い炎症を起こすことになる。
カレハガの類は概して文字通り枯葉色の地味な紋様の翅を持つ、比較的大型の鱗翅目昆虫である。クヌギカレハは開帳100mmを超えるまでになる。大概が樹木の葉を食い荒らす悪名高い害虫とされている。よく海岸の防砂林の松に藁が巻かれていることがあるが、あれは松を荒らすマツカレハの幼虫を誘き出す仕組みだ。幼虫越冬するマツカレハはマンマと藁に潜り込んで暖をとりつつ冬眠するのだが、それを一網打尽に退治するのが人間である。カレハガは植樹に甚大な害を及ぼすのだが、一頭一頭が貪欲というよりは、群生することが多いからのように思える。マツカレハは針葉樹を、カレハガはモモ、ウメ、ヤナギなどを、ヒメカレハはバラ科植物全般を、クヌギカレハはクヌギ、リンゴなどを食害する。花見の頃のサクラの樹から、糸を垂らしてすっと降りて来て宴会に参加する毛虫がいて、女性達の嬌声を巻き起こしたりする。北海道では、花見には決まってジンギスカン鍋がバーベキュー風に振舞われる。その煙に燻り出された毛虫が大量に落ちてきたりするらしい。中にはジンギスカンの羊肉や野菜をを焼く鉄板にうっかり落ちてしまい、一緒に調理されてしまったりもするのではあるまいか。これは木の枝の間に帯のような幕を糸で張るオビカレハの幼虫であると思われる。サクラが散った後の若芽のご馳走を、静かに待っていたオビカレハの幼虫の方は、時ならぬ花見の喧騒に巻き込まれてしまってたまらないだろう。人間とオビカレハ、どちらが不幸であるのかは言うまでもない。
さてタケカレハはそういったご同輩とは生態を異にしており、単独で見られる方が多いように思える。少なくとも杜氏はタケカレハの幼虫が群れているのを見たことがない。ただでさえ長大な毛虫で、触れると毒に当たることもあり、大群でいる姿を想像するのはゾッとしない。だが、あれだけの大きさにまで育つには、少なからぬイネ科植物が消費されることは想像に難くはない。
カレハガの植樹を眺めると、サクラ、リンゴ、ウメ、モモのようにバラ科植物が主なターゲットにされているように思える。これらの多くが果樹として利用されていることからも、その葉は昆虫にとっても口当たりのいいものであるように思える。だが一方で、笹、竹、針葉樹のように一般的には魔よけや護符とされるような植物も目に付く。魔よけとなる植物は、単に「鰯の頭も信心」なのではなく、おにぎりがコンビニのビニールに包まれていたのではなく、かつては竹の皮で包まれていたように昔の抗菌抗虫グッズでもあったのだ。アルカロイドなどの働きで、昆虫の成育を妨げる効果があり、天然の防虫剤となることで昆虫の食害に対抗してきた。だが、虫を寄せつけないだけでは、世の中は針葉樹、イネ科植物、イボタ、樟脳の原料となるクスノキの一族で溢れてしまう。「蓼食う虫も好き好き」といった具合に、これらの「虫も好かない」植物を好む昆虫もいて、巧まざる自然の抑止力となっているのだ。考えてみれば、イネを荒らす昆虫は数多いが、笹や竹を貪る昆虫には、タケカレハ以外に思い当たらない。他にもいるにはいるだろうが、決して数多くはないハズである。そういった意味でタケカレハは貴重な存在であると言える。
タケカレハの成虫は普通のガに見えるが、褐色というよりは特に下翅には黄色味を帯びており、他のカレハガより艶っぽい印象が強い。上翅の中央やや上よりには小さな孔が左右一対穿たれている。これも何かの意味を持つ機構なのだろう。また触角は多くのガの特徴でもある櫛型である。それが見事なまでの櫛型を成している。身体つきは、より開帳が大きいマツカレハよりはがっしりとしている。コンパクトな姿で越冬した幼虫は初夏の頃、60〜70mmにまで達する終令幼虫となり、繭を作って蛹化する。杜氏が野山の笹や竹、ススキに異様な気配を感じて引き返し、長大な幼虫を頻繁に目にしたのも、ゴールデン・ウィーク明け前後のいい陽気に見舞われる頃であったのだろう。陸上競技で言えば、高校生の都道府県大会(インターハイ予選)、大学生の地区インカレが行われる、シーズン前半の山場あたりだ。昆虫にとっても旺盛な生命力が遺憾なく発揮される時期なのであろう。そして、梅雨どきから盛夏を経て10月あたりまで成虫の姿で生活を送る。飼育してライフサイクルを見届けた経験はないが、おそらく年一化であろうから、鱗翅目昆虫としては成虫が頑健で長寿の部類である。成虫越冬するタテハチョウにこそ及ばないが。
鳥や哺乳動物にとっては、全身の繊毛は毒を孕んだ武器として防衛に有効に働いているのだろう。だが、より小さな昆虫、ダニなどの寄生に遭うことも多いようだ。身体が大きな昆虫の宿命であろうか。稀におそらくコマユバチの類に寄生され、無数の繭を身に纏うようにしてそれでも普通に活動しているタケカレハの幼虫を見かけることがある。蛹化までさせておいて、最後まで体内を蝕んだ挙句、これらの寄生虫は宿主にトドメを刺し自分も蛹化して、宿主の繭を突き破って成虫の姿を見せることになる。アゲハの蛹に孔を穿って、がらんどうの骸から飛び立つアゲハヒメバチを想像すればいい。
竹の花が咲くと不吉の前兆とされる。嘘か誠か定かではないが、竹は百年に一度花をつけ、開花を終えたらその任を終えて枯れてしまうという。風媒花の花粉が雌花を得て結実を見る可能性は少ない。杜氏は一度だけ、花をつけた竹の雄花を見たことがある。それが徒花に終わったかどうかは、花粉の行方を追うことが出来ない杜氏には知る由もない。人はすべからくユニークな生き方をしており、それが有効な生き方であると信じている。だが、悠久の地球史や広大な自然の営みに照らせば、そのようなものは取るに足らないものに過ぎないのかもしれない。
理解不能なものをYG軍の補強意図不明な外国人選手に擬える人の意識は、そういった意図不明な事物以外のモノゴトが有効に機能しているということを前提にしている。タケカレハの異様さはそれを陥れて食しようとする生物には危険信号として機能するかもしれない。また、成虫に見られる前翅の孔も何らかの意味を持つのかもしれない。徒花にしか思えない竹の花も、限りなくゼロに近い可能性の末に結実を見るのかもしれない。
タケカレハの幼虫の巨大さ、奇抜さに違和感を覚え、立ち止まってその無意味さを思うのは容易い。だが、そこには何らかの機能が潜んでいる可能性が濃厚である。ただ、人間如きには、それを特定することなど困難である。安易に理解不能な構造物を「トマソン」などと呼んで面白がるのは、不遜な振る舞いであると杜氏には思える。
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